第17話
「どうしてですか」
中野陸は握りしめた自分の手のひらに話しかけているようだった。答えるべきか少し迷ったが、何も言わないままテーブルをもう一度殴られるのも嫌だったので、私は「何がですか」と静かに言った。
「あなたみたいにかわいい人が、どうして父親とセックスしなきゃいけないんですか」
透明な水の中に一滴の赤色をおとしたときのように、頭の中が一瞬で血に染まる。喉の奥を限界まで開いて、二度、大きく深呼吸をした。そうしないと、自分がこの男に何をしてしまうか分からなかったからだった。
「何を勘違いしているのか、私には分からないけれど。そういうことは、したことない。私とかつひこは」
私とかつひこは。その後に続く言葉を見つけられずに、半端に唇を開いたまま静止する。中野陸は手を伸ばし、かつひこよりもずっと細くて長い指で私の右手に触れた。中野陸が触れた場所から、じわりと生ぬるい感触が広がっていく。
「僕がいます。だからもう、大丈夫。あなたのお父さんから、僕があなたを守ってあげますから」
わけ知り顔で微笑む中野陸は大丈夫、大丈夫と何度も繰り返して、その度に私の手の甲を撫でた。大丈夫という言葉の意味は知らないけれど、中野陸が勘違いをしているということだけは理解出来た。アイスがどろどろになったクリームソーダは喉を焼くような甘さだった。
「どうして」
気づけば勝手に私の口が回り出した。椅子から腰を浮かしかけた中野陸に対してでもなく、誰にともなく。荒れ狂うような波風を心の中から噴き出さずにはいられなかったのかもしれない。
「どうして、どうしてって聞くの。こんなに私たち、自然で当たり前なのに。ただ私たち、一緒にいたいだけなのに。かつひこがいちばん大事なの。だから邪魔しないで。追いかけてこないで。壊そうとしないでよ」
真っ暗な瞳がふたつ、こっちに向けられていた。中野陸の長い腕が伸びたと思うと、頭の上にぱしゃんという水音がした。テーブルの横に転がるコップを見つめて、濡れねずみになった私は呆然とするほかなく、喫茶店の客の視線を一身に浴びていた。
「きみがそんな子だとは思わなかった。幻滅したよ」
中野陸が出て行ってドアが閉まるとき、カランと鈴の鳴る音がした。マスターにお辞儀をして、カバンを掴んで喫茶室を後にする。歩くスピードがだんだん早くなっていき、気付いたときには走り出していた。なんだか無性にかつひこに会いたかった。
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