第15話


 かつひこの左手をとる。かつひこの唇を、私の人差指が拭う。私とかつひこだけを残して、世界が止まってしまったみたいだった。蝉の鳴き声が、エアコンの機械音が、私の中から遠ざかっていく。

 そのとき、ぶるる、という携帯のバイブの音がして、私たちの間だけに流れていた時間を切り裂いた。かつひこが素早くテーブルの上に置いてある私の携帯電話に視線をやったとき、気付ば私は身を乗り出して、かつひこの唇を奪っていた。がさがさとしていて、捲れた皮からは鉄の味がする。私に流れているものと同じ、にがくてあまい鉄の味。


 かつひこの両目が見開かれる。何かを諦めたように、ゆっくりと瞳を閉じる。3秒後、かつひこは私の方に手を当てて、勢い良く引き離した。私は信じられないような気持ちで、呆然とかつひこの言葉を待った。長い、長い沈黙がそこに流れていた。


「まこ」

「なに」

「こういうことするの、やめろ。もう子どもじゃないんだから」

「は?何、言ってるの。・・・私のこと、一度だって、子どもだって思ったことないくせに」

「子どもだよ。それ以外に何がある。まこは俺の、たった一人の」


 かつひこが私のものにならないことは、耐え難い苦痛を私に与えた。頭の中で真っ赤な火花がちりちりと飛びはじめる。気づくと私は、二人お揃いで買った水玉のマグカップを床に叩きつけていた。マグカップの持ち手のかけらは私の頬に飛び、鈍い痛みとともに、赤い液体が皮膚を伝うのを感じた。それでもかつひこは私の腕をとってくれなかった。私の頭を撫でてもくれなかった。


 歯止めが効かない赤い激情が胸を襲い、私は獣のように部屋の中を暴れまわった。ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、次から次へと溢れてくる涙をそのままにして、部屋中の小物をなぎ倒していく私を、かつひこは感情のない瞳で見つめていた。二人の写真が入った写真立て、水族館で買ったいるかのガラスの置物、かつひこの大切にしている文庫本が、部屋の中に脈略なく散らばっていく。そうする内に私の心を支配していた赤い激情は也を潜めていき、全身から少しずつ力が抜けていくのが分かった。ガラスのかけらが散らばっている床にへたり込んだ私に、かつひこは優しい言葉ひとつかけなかった。その事実は私を絶望させるのに足るものだった。


「もう気が済んだろ。おれ、もう行かなきゃ」


 最後の力を振り絞って、かつひこの背中にしがみつく。この背中を離してしまえばもう一生、かつひこが私のものにならないような気がしたのだった。


「どこいくの。なにするの。誰と」


 かつひこは一瞬だけ、ひどく悲しい目をして私を見た。それから顔をそらして、「まこの知らない人だよ」と冷たい声で言った。私は何も言わず、どこか別の世界へ行こうとしているかつひこの背中を目で追いかけた。それしかできなかったと言っても良かった。パタンと音を立てて閉まるドアが、ぼやけて見えたのが最後だった。

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