第14話
毎日のように届くメールが私の携帯電話を何度も震わせることに、勘のいいかつひこはすぐに気が付いた。布団越しに見えた白く光る携帯電話を眺めるかつひこの冷たい無表情は、私をひどく後悔させることになった。
そうするとわかっていたけれど、かつひこは私が起きる前に会社にいき、私が眠りについた頃に家に戻ってきた。かつひこに避けられているという事実は私をひどく打ちのめした。テーブルの上に置いてある空になったビール瓶の数は増えていき、ラップをかけておいたハンバーグや筑前煮は手つかずのまま冷蔵庫で冷たくなっていることが多くなった。
私はかつひこが傷ついているということを良く知っていた。かつひこにすきなひとができたということを知ってしまえば私は、その女のひとを殺してしまうかもしれないから。かつひこの感じ方は私と同じだから。だから。
「ねえ。逃げないで、おとうさん」
日曜日の朝だった。かつひこのことをおとうさんと呼ぶのは随分久しぶりのことだった。あれほどお母さんに注意されても私はおとうさんと呼ぶことを拒否していたのだから。
玄関から外へ出ようとしていたかつひこは、唖然とした顔をして私を振り返った。戸惑ったようなその表情に、私たちは今まで全く同じことを考えてきたことを知った。
テーブルの向かいに座って手を組んでいるかつひこの腕は震えている。かつひこの顔はまだらに赤黒く、身体からはぬか漬けのような匂いが立ち上っていた。本当はベランダにつづく窓を開けて換気したいくらいだったけれど我慢して、そっと微笑む。
「昨日もすごく飲んだのね。一昨日もその前も。飲みすぎだよ。そんなに飲むと、身体に良くないよ」
かつひこは無言のまま、注いだ水を一気に飲み干し、コップを乱暴に置いた。まるでおもちゃを取り上げられて拗ねている幼稚園児のようなその態度に私は半ば呆れながら、朝ごはんにつくっていた目玉焼きとハムの乗ったお皿をかつひこの目の前に差し出す。未だに私の目を見ようとしないかつひこに、私はついにしびれを切らして口を開いた。
「かつひこ。どうして、私のこと、避けるの」
「理由なんてない。ただ、仕事が忙しいだけだよ」
「うそ。私のこと、嫌いになったの」
「・・・分かってるのに、どうしてそんなこと、聞くんだ」
「かつひこの考えていることを知りたいから」
喉から絞り出すようにしてそう言うと、かつひこは絶句して、一瞬だけ泣きそうな顔をした。それから大きく深呼吸をして、「まこのことは好きだよ、だって娘だから。娘が嫌いな親なんているわけないだろ」と吐き捨てるように言って私から顔を背けた。無骨なその態度に、それが本心から出た言葉でないことは分かっていても、私はもう一度拒否されることが怖くて、再び追いすがることがどうしてもできないでいた。
かつひこはバターを塗った食パンの上に目玉焼きを載せ、端のほうを齧った。その拍子に黄身を覆っている白い膜がぷつりという音を立てて破れたと思うと、にわとりの子どもになり損ねた液体がかつひこの顎に垂れ、白いTシャツを汚していく。
「うわ、やべ」
あの黄身になりたい。
あたふたしながら口元をティッシュで拭くかつひこの姿を私はぼんやりと見つめながらそう思った。かつひこの子どもになり損ねた私と、私の親になりそこねたかつひこ。かつひこと同じ個体になりたい。いつまでも切り離せないほど、この腕や足がどちらのものだったかわからなくなるほど、白い殻の中で、ふたりどろどろに溶けあって、混ざり合えたならいいのに。底知れない私の欲望が、かつひこに永遠の地獄めぐりを強いることになったとしても。かつひこの顎に垂れている黄色い液体にそっと指を伸ばして、自分の唇に運ぶ。
「かつひこ」
「ん」
「かつひこ。かつひこ、かつひこ、かつひこ。・・・かつひこ」
「どうした」
「わたし、わたしね。わたし」
同じ言葉ばかり繰り返す私を見つめるかつひこの瞳に、怯えたような色が混じっている。息の仕方を忘れてしまったみたいに呼吸が浅くなり、心臓がひっきりなしに収縮を続けていて痛いくらいだった。
私は口にしたかった。ずっと言いたくて、言えなかった言葉を。
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