第10話
「ただいま」
「おかえり。今日はいつもよりも遅かったんだね」
「うん、疲れた。あ、カレーの匂いがする。やったあ」
かつひこは頬を緩ませて笑い、エプロンにカレーのシミをつくっている私の上に覆いかぶさるように抱きついた。かつひこの着ている灰色の工場着からは石油のような脂っぽい匂いがする。私の髪の毛を撫でる指先には黒い鉄くずが挟まっている。
それまでしていた営業の仕事を辞めて、家から10分の場所にある工場地帯で働くようになってから、かつひこの腕や胸には随分と筋肉がついた。かつひこの短パンから覗くふくらはぎを見るたび、この男の人は一体誰なんだろうと、不思議に思ってしまうくらいに。
空っぽになったコップに冷蔵庫から出したばかりの冷水を注ぐ。かつひこの前にある皿は見る間に空っぽになろうとしていて、思わず笑みがこぼれてしまう。母親が子どもに与える愛情って、もしかしたらこういうものかもしれない。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ。まだお代わり、あるから」
「ソースとマヨネーズ、かけてもいい?」
「うええ。良くそんな濃そうなもの、食べられるね」
「おいしいよ。ちょっとでいいから、まこも食べてみなよ」
かつひこはソースとマヨネーズが混じった箇所を箸でつまみ、閉じている私の口に入れようとした。抵抗しようとして身体を左右に揺らしたせいで、唇にウスターソースがべっとりと付着する。
「もう。いらないって言ってるのに」
「はっきりと言わないから悪いんだよ」
頬を膨らませる私の唇にかつひこの指先が触れた。途端に緊張して、身体がこわばる。かつひこは潤んだ瞳でリップを塗っておらずかさついた私の唇をじっと見つめた。女の子として失格だという気がして、穴に入りたくなるような恥ずかしさが胸の奥にちりついた。教室の男の子の前では何とも思わなかったのに、かつひこの前だとこんな風にいつも私は。
ソースを拭うと、子猫が身体の毛づくろいをするような仕草で、かつひこは自分の指をぺろぺろと舐めた。上目遣いのその目つきにそれまでとは違ういやらしいものを感じたけれど、決して不快だとは思わなかった。
私はかつひこの手のひらに自分の手のひらを重ねた。こういうとき、何を言えばいいのか分からなかったし、下手な冗談でも言ってしまったら息のつまるようなこの時間が一瞬にして消えてしまうような気がしたから。かつひこも同じことを考えているということが、私には手にとるようにわかった。何せ私たちはずっと一緒だったのだ。お互いの気持ちなんて、言葉以上に理解できてしまうくらいに。
「まこ」
「何、かつひこ」
私はかつひこの目を見ずに答えた。ずっとずっと怖かった。誰も行ったことのない場所に、二人で足を踏み入れてしまうことが。私たちの行く手には森の奥に潜む誰も知らない底なし沼が広がっているということが。そのことについて一度も話したことがなくたって、良くわかっていた。
かつひこが何も答えないので、過敏になっている神経を喉の奥に集めて、もう一度「何」と問いかけた。そうするとかつひこは体中の筋肉を弛緩させて、冬の北風のようにさびしいため息をついて静かに言った。
「そろそろ寝ようか。もう遅いし」
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