第8話
「ねえ、かつひこ。もう寝た?」
家に戻るとかつひこはすぐにシャワーを浴びて、ベッドの中に潜りこんでしまった。いつものかつひこなら、私の身体の隅々まで丁寧に洗って、ドライヤーで温めてくれるはずなのに。毎日欠かさず行っている身体測定だって、忘れてしまったのかもしれない。
昼間離れていたせいか、私はかつひこと触れ合いたくてたまらなかった。ベッドに潜り込んで、かつひこの着ていたよれよれのTシャツの中に顔を入れると、タバコの匂いに混じって蒸した汗のようなしょっぱい匂いがした。
かつひこが寝たふりをしているということが私には分かっていた。かつひこは本当に分かりやすいひと。頬をぴったりと密着されると、微かに足の親指が動いたのがわかる。
「お母さん、どうしてあんなに泣いてたのかな。悲しいことなんて、何にもないのに」
かつひこが私を無視して狸寝入りを続けていることがさびしくなって、脇腹のあたりをこちょこちょとくすぐった。すると身をよじって懸命に逃げようとするので、ムキになって、かつひこの上に馬乗りになる。目と目が合って、かつひこの動きがゆっくりと止まった。
かつひこの瞳が好きだ。赤ちゃんみたいに潤んでいて、透明なサイダーに浮かぶあぶくみたいな色をしている。きれいだと思った。この世界のどんな宝石を集めたって、かつひこの瞳にはかなわない。
窓枠をぴったりと覆ったカーテンの向こうからは地面を叩きつけるような雨の音が続いていた。うるさいくらいに耳に届くその雨音が何だか怖くなって、「かつひこ。ぎゅってして」と、気づけば幼い子どものようにねだっていた。
かつひこは何も喋らないまま、その細い腕で私を抱き込んだ。私のかつひこがすぐ隣にいるということでやっと安心できた私は、重くなった瞼をそっと閉じた。いつまでも私が長い眠りに落ちるそのときまで、かつひこは身動きひとつせず、私を怖い夢から守ってくれていた。
次の日の朝目覚めたら、かつひこはいつも通りの寝ぼけた表情で卵焼きをつくっているところだった。台所まで歩いて行くと、黄色いかたまりの切れ端を私の口に入れて、「おはよう」と言った。私たちの日常は何も変わっていないように見えた。
だけどかつひこはその日から、身体測定をしなくなった。
どんなに私が懇願しても、一緒にお風呂に入ることを許してはくれなくなった。断固として、布団を別々にしようと言って聞かなかった。
だから私は慣れない手つきで頭を洗わなければならなかったし、眠れない夜を一人ぼっちで過ごさなければならなかった。お母さんはどうしていつも私からかつひこを取り上げようとするのだろう。悲しみに似た怒りが胸の奥から湧き上がってくるのを感じながら、シャンプーを出し過ぎた手のひらで、乱暴に頭皮を掻いた。
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