第3話 意志は続くよどこまでも
「あそこでよく乗ってくる爺さんがいるんだけど、要注意な」
運転士を始めた時、先輩が教えてくれた。私は一瞬であの人だと気づいた。
「ああ。東郷さんですか?」
東郷さんとは、元軍人で、戦後この会社に勤めていた99歳のお爺さんだ。
もうすぐ100歳だと云うのに未だに背筋がピンと伸びている。私は影でスーパー爺さんと呼んでいたりした。
子供の頃はあの厳めしい顔が怖かった。
「元社員だからか知らないけど、いつも怒ってるんだ。運転が雑だとか、来る時間が遅いとか。ことあるごとにクレーム入れてくるんだよ。はっきり言って迷惑だ」
最前列の一人掛けの席。東郷さんの指定席だ。この席が空いていないときは随分と不機嫌そうに見えた。私は常に安全運転を心掛けていたが、彼が乗ってきたときは特に気を遣った。
そして私が運転士を初めて三カ月が経ったころだった。病院帰りの東郷さんが昼のバスに乗ってきた。私は東郷さんが苦手だった。叱られたことこそなかったが、いつも怒っているような雰囲気で一言もしゃべらない。それでもいつ何を言われるか分からず、いつも身構えていた。
そんな時だった。
「お前」
東郷さんのそのしわがれた、貫禄にあふれた低い声でそう呼ばれた時、まるで上官に詰められる部下のように自然と背筋が伸びた。額から嫌な汗が噴き出している。
「はいッ!!」
変に力の入った声で私は返事をした。
何か気に食わないことがあったのかと思うと気が気ではなかった。
「これに乗ってどれくらいになる」
「さっ、三カ月です!」
きっと運転が雑だとか、これだから初心者はとかそんな言葉を想定していた私に、東郷さんは思いがけない言葉をかけた。
「だいぶ上手くなったじゃないか」
「…え?」
てっきり叱られるかと思っていた私は度肝を抜かれた。
「初めはヘッタクソな運転だと思ったが、お前は乗客の気持ちがわかっとる。運転が荒いやつもおる。時間にだらしのないやつもおる。そんな中で俺はお前の運転が一番好きだ」
「あっ、ありがとうございます!」
この出来事から、東郷さんはバスに乗ると決まって話しかけてくるようになった。
「俺はバスが好きだ。子供のころ初めて乗った時からバスの運転士になりたかったんだが、兵隊に出されちまった。親父が軍人だったからだ。戦争が終わって軍人は必要なくなった。陸軍におるときは車をよく運転していたんだ。だから俺はこの会社に入った。そしてやっとこさ運転士になれたんだ」
東郷さんは本当にバスが好きだったんだと、この時初めて理解した。そして彼がいつも最前列に座る理由。それは運転士だった頃と変わらない景色を見ていたかったからだそうだ。
私は東郷さんに対して苦手意識を持っていたことが恥ずかしくなった。誤解していただけで、本当は私のことを応援していてくれたのだ。
東郷さんは陸軍時代から最近の話まで、色々な話をしてくれた。落下傘部隊を志望したが、上官に止められたこと、どこそこの戦地まで行ったこと、シベリアに連れて行かれたこと、帰ってきて天皇陛下から勲章をもらったこと。そんな戦争の話から、近々ひ孫が生まれる明るい話まで、楽しそうに語ってくれた。
私の運転するバスが通りかかると、東郷さんは必ず手を挙げてくれた。
そんな東郷さんと仲良くなって数年が経った時だった。
「あの爺さん、亡くなったらしいぜ」
「え?」
先輩の口から耳を疑うよ話が発せられた。
「だから、東郷さんが亡くなったんだよ」
「あ、あの東郷さんが?」
私は信じられなかった。つい昨日までいつものように手を挙げて合図してくれていた東郷さんが亡くなったとは信じ難かった。
通夜に参列した時、私は声をかけられた。
「東山さんですよね?」
それは私より少し歳上の、お腹の大きな妊婦さんだった。
「あなたが…」
「おじいちゃんがよく話してくれていました。仲良しの運転士さんがいるって。おじいちゃん、あんな感じなのでお友達がそれほど多いわけじゃないんです。でもあなたの話をする時はなんだか嬉しそうでした」
私は涙を堪えきれなかった。東郷さんがそれほどまでに私を大切に思っていてくれていたことが嬉しかった。しかしそれを越える悲しみに駆られていた。
「自分にとっても、おじいちゃんみたいな存在でした。お子さん、もうすぐだそうですね。とっても楽しみにしておられましたよ」
「きっとこの子はおじいちゃんの生まれ変わりになるんですよ。女の子ですけど…きっとおじいちゃんみたいな、バスが大好きな子になります。将来は運転士さんかな?だから寂しくなんてありません。また別の形でであえるから。…でも、あんな偏屈な感じにはならないで欲しいなぁ…なんちゃって」
あとから聴いた話だが東郷さんは朝、眠るように亡くなっていたらしい。前日まで元気だったそうだ。
いつも通り路線を走っていると又乗ってきくれるんじゃないかと思うほど実感が湧かなかった。
そんなことを考えていた葬式の日。ふと気付くといつものバス停には手を挙げて合図する一人のお爺さんがいた。それも見覚えのある姿で。
紛れもなく、東郷さんだった。
私は思わずバスの扉を開けていた。
乗車した東郷さんは何事も無く、静かにいつもの指定席に腰掛けた。
私は目を疑った。東郷さんは死んだ筈だ。
幽霊かもしれない東郷さんはバスが動き出しても何もしゃべらない。
何時もなら、私に嬉しげに話し掛けてくれていたが、この日の東郷さんは一言もしゃべらなかった。
不思議と怖いとは思わなかったのはそれが東郷さんだからなのだろうか。
私はそのままバスを走らせた。
ブザが鳴ったのはお寺の前。
思えば東郷さんはよくこのお寺にお参りしていたように思う。どうやらこのお寺の檀家らしいのだ。
ここで私は全てを理解した。
東今こうしてバスに乗ってきたのは、私に最期のお別れをする為だったのだと。
バスが停まると、東郷さんは口を開いた。
「道ってのはな、どこまでも続いてんだ。海にだって海路がある。空にだって空路がある。道さえ間違えなけりゃ、誰にだって会えるんだ。例え戦争で死んじまった仲間や、先に行っちまった女房にもな。お前ともいつかまた会えるさ」
そう言うと東郷さんは運賃箱にお金を入れようとした。それを私は手で止めた。
「おーっと東郷さん。運賃はいらんよ」
すると、東郷さんは不思議な顔をして
「どうしてだい?」
と、首を傾げた。
その声はいつもと同じ、低く、渋い、貫禄のある声だ。それでもやっぱり東郷さんの手は冷たかった。
「今日はサービスだよ。いつも使って繰れてるお礼。その金で自分の為に役立ててよ」
私がそう言うと、東郷さんは
「そうかい?ありがとよ。じゃあな。さいなら」
と安らかに笑い、バスを降りた。彼が降りるのを見届けてから、いつも通りに先に渡るよう合図を送った。
道路を渡り、お寺の門をくぐり、境内へと歩いて行く。そして東郷さんは右手を挙げて私に合図をして消えて行った。
その時霊柩車の虚しいクラクションが鳴り響いた。
そうか。いよいよお別れかと、誰も居なくなった車内で私は一人手を合わせた。
不思議な出来事だった。でも私はあの言葉を東郷さんの言葉だと信じている。
「道ってのはな、どこへでも続いてんだ」
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