第2話 心は続くよどこまでも
高校を出てこのバス会社に就職して二年が経った。バスの免許を取得して一年。いつもの仕事にもだいぶ慣れてきた。
そんな春先の肌寒い朝、珍しく始発のバス停で乗客があった。
私が発射前の車内点検をしていると、窓をノックする「コッコココッコッコッ」と、特徴的な音が聞こえてきた。
この音には聞き覚えがあった。懐かしいこの響き。雪だるまでも作れそうなこのリズムに気づいた私は運転席へ帰って後方のドアを開けた。
「久しぶりだな。栄」
目の前には見慣れた懐かしい笑顔。
「邦彦!久しぶりだな!高校の卒業式以来じゃないか」
そこには大きな鞄を小脇に抱えた一人の青年の姿があった。
彼の名は浜松邦彦。保育所から一緒だった幼なじみだ。
彼は岡山で短大生をしていた。いつの間に戻ってきたのか声でもかけてくれればよかったのにと私は思ったが、それよりも懐かしさのほうが強かった。
あの特徴的なノックのリズム感。それはまだ幼かった頃に近所の友達と秘密基地作った時、扉をノックして仲間だと知らせる合図だった。
彼は乗車すると運転席のすぐ後に腰掛けた。
「駅まで頼むよ」
「いいのか?最近運賃が高くてだな…」
「心配すんな。覚悟の上だ」
私はバスのエンジンをかけた。ブルンと云う腹に響くような低音と共にバスは震え、古めかしい木の床をカタカタ震わせてエンジンがかかる。
「実はこっちに帰省したとき、栄にも会いたかったんだ。だけどお前がいつ休みだかわかんなくてさ。忙しそうでタイミングが合わなかったんだ。最近どうなんだ?仕事の方は」
と、邦彦は切り出した。
「俺か?初めはこんな道なんて通れるか!って思ったが、案外慣れるもんだな。こんな細いくねくね道も平気になったよ。お前こそどうなんだ?学校は卒業したのか?」
「この前短大を卒業したばかりさ。野球を辞めてからだいぶ太ってさ。」
「野球部の大スターがなにしてんだよ」
「わっ、笑うなよ。誰だってそうなるさ。そもそもお前が痩せすぎなんだよ!どうせロクなもん食べてないんだろ?そんなことより、どうなんだ?恋は実ったか?」
『恋』と言われ私の脳裏に一人の少女が浮かんだ。
「とっくの前に諦めたさ。もう忘れたよ」
「そうか。お前らはお似合いだったと思ったんだが、悪いこと訊いたよ」
「いいんだ。もう、昔の事だからな」
私の心の奥底に残る一人の少女。高校で出会った彼女は、私にとって雑誌のアイドルさえ霞んで見えるような存在だった。セミロングの栗色の髪から顔を出すぱっちりとした目。私からしてみれば今までに見たこともない、金星の生まれ変わりかと思うほど可愛い子だった。明るく誰にでも優しい、そんな理想の恋人のような姿は今でも目を閉じれば浮かんでくる。仲はそれなりに良かったが、それ以上先へ進むことは叶わず三年間が過ぎていった。
それについては周りから相当からかわれたものだ。
正直もう忘れたい。
「俺さ。東京に行くんだ。東京に行って警察官になる。困っている人の力になりたいんだ」
「邦彦らしいよ。昔から弱い者いじめが大キライだったよな。素敵な仕事だ」
「人の役に立つって言ったらお前も同じさ。バスの運転士なんて、こんな田舎じゃ大助かりだ。ウチのばあちゃんがいつも言ってるぞ」
「こう見えて、おばあちゃんには大人気なんだよ」
「…今日はな。最後にお前とこうして話がしたくてこのバスに乗ったんだ。バスは俺たちの思い出だからな。後ろの席で騒いでて、よく運転士さんに叱られたっけ。誰だっけあのムスッとしたキンカ頭の…えーっと…」
「徳山さんな。キンカ頭とか…一応今じゃ上司だからな…?」
「あのおっさんまだおったのか!初めて帽子取ったのを見たとき思ったんだよな。ツルッパゲだって!」
「笑わかすな!あの時俺だけ笑ったのがバレて変な顔されたの、忘れてないからな!というか徳山さん覚えてたからな!」
「まじかよ!根に持ってやがったな」
「お前はそんな状況をいつもうまく切り抜けてたよな」
私達は他に乗客のいないバスの中で、子供の頃に戻ったように大笑いしていた。
楽しかった。この仕事で今日程楽しかったことは無かったかもしれない。
しかし楽しい時間ほど早く過ぎるものはない。気づけばバスは目的地に到着していた。
「じゃっ、俺行くわ。又な。栄」
運賃箱の中で硬貨がカランカランと虚しく弾ける。彼がこのバスを降りたとき、これが本当の別れだった。
「邦彦、上手くやれよ!」
「おう。俺はいつも上手く切り抜ける。俺はそんな男だ」
バスを降りる後ろ姿。邦彦はグッドサインを送った。
「栄。忘れるなよ?離れていても心は続いている。通じ合っているんだ。もしこれから辛いことがあっても、俺たちはいつも一つだからな」
邦彦は振り返らなかった。これから先を見据えるように、ただ前を向いて歩きだした。
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