第2話 久しぶりの外出 本 電話
今日は久しぶりに外に出た。税金の申請に役所に行かなければならない。晴れの日の緑がまぶしい、過ごしやすい日だった。そのせいか体調はすこぶる良かった。薬も少しで済んだしあまり失敗もしなかった。外に出てバスで市役所の近くまで行き少し歩く。その途中に店などもあるので少しのぞいてみるのもいいかもしれない。今日は平日で人も少ないはずなのだ。家からバス停までの間に二三人の人とすれ違った。皆顔を背けたり「ほらあいつ」と指を差された。全て幻聴だ。みんな普通で自分なんかには目も向けないのだ。自意識過剰もいい加減にしなければ。バス停に着くとスーツの男女が2人いた。来たバスに一緒に乗り込む。バスはまばらに人がちらほらいた。視線が自分に突き刺さってくるのがわかる。痛いくらいに。自分は前側に座り二人は一番後ろに座る。自分が無事バスに乗れた事に安堵すると後ろから声が聞こえた。一緒に乗り込んだスーツの二人組の男女の声であるらしい。
「ほらあれ。同性愛者だから就職できないとかで有名な」
「え? どれ?」
「ほんとなのかな?」
「否定しないらしいね。どっからみてもそうじゃん。それよりも………」
男女の声はまだ続いている。素知らぬふりでその実、耳をふさぎたい衝動に駆られながら幻聴なのだと言い聞かせた。バスはよく使う。昔は友達と一緒に乗って学校に通ったりした。今は一人だ。しかし何の苦労もない。一人の方が心配事が少ない。例えば自分のせいで誰かが傷つくこともない。『僕はみんなといる時、いつも一人ぼっちだ』といったのはアーネスト・ヘミングウェイであったか。かの人もこの孤独を味わったのだろうか。しかし彼の孤独と自分の孤独はまるで別物であるはずだ。窓を見ながら物思いにふけっていると、窓ガラスに映るおばさんたちの顔に目がいった。にやにやと嫌な笑いを浮かべひそひそ笑いながらこちらをちらちら見ている。「ほらあの子」「優しくしたら好きになるから」「気持ち悪い」
ガラスに映る目はどこかうつろで作り物めいて澱んで醜かった。腐った河のような汚臭を放っているようで、鼻をつまんでにげだしたくなった。そのまま奈落に吸い込まれそうだった。目というのは見るという行動を通して受信する機械であると同時に見られるという行動を通して発信する機械なのかもしれない。だからこんなにも深くて気持ち悪いのだ。なんだというんだくだらない。そっぽを向いてかばんをあさり、一冊の本を手にする。それはまさに今ぴったりの『老人と海』ヘミングウェイ著である。思わずにっこりしてしまう。ああ、すまない、ちょうど君の事を考えていたんだよ。無視してたわけじゃないんだ。さあ、これから存分に語り合おう。だから、許しておくれよ。
そのまま市役所の最寄り駅に着くまで『老人と海』を貪るように読んだ。
バスが最寄りのバス停に着いたのでバスから降りた。降りたのは自分だけだったのでほっとした。それからゆっくりと市役所に向かう。市役所に向かう道はバス停からまっすぐ歩いた所だ。1kもない。せいぜいその半分かそれ以下だろう。周りは閑静な住宅街と店が軒を連ねている。そのわきの市役所に続く並木道を歩く。そこは春は桜がきれいだった。ところどころ松も植えられている。桜は美しい。ほころぶような美しさ、着物の柄のような楚々とした美しさがある。主張しない美というか。松は主張しない。桜より主張しない。質実剛健という感じ。いるだけで気が引き締まるようなそんな木だ。うろこのような樹皮も歴戦の戦傷のようで勇ましい。とげのような葉もそこから出るまつぼっくりも小さな勇者のようでかっこいい。そんな事を考えているとなんだか久しぶりに晴れ晴れとした気分になった。やはり無機物はいい。うるさい事を言わないし静かで謙虚だ。バスの中での嫌な事がさらわれてきれいになっていくような感覚を得てほっとした。
そうこうしていると市役所についた。着くまでに何度か人とすれ違ったが無視しておいた。
桜と松が一緒にいてくれた。市役所の新しい鏡張りのビルのような建物の前に着き、その悪趣味さに嘆息した。元々市役所は大正に建てられた古い木造建築であったが、老朽化という事で取り壊され、今の建物が建てられた。取り壊しに際しては嘆願運動などもあったものの無視される形だった。もっとも反対の声明を出したのは一人であるが。市役所は市の中心である。歴史を見れば公民館や市役所の所在地はそのまま藩政時代の建物があった所と符合する。極端に市の中心が変わってしまった場合は別として、藩の中心地に存在した。藩が県になり名称が変わっても中心地は早々変わるものではない。人もそういうものなのだ。しかしこのビルの悪趣味さと言ったら! その歴史の流れを断ち切り、何をしたいというのだろう。朴訥とした佇まいの取り壊される前の市役所が思い出され鼻の頭がつーんとなった。
そんな感慨を持ちつつ市役所に入る。市役所は13階建てのビルであり、一階に窓口と図書館と喫茶がある。上の階にはその他の行政機構が詰め込まれている。ビルにはコンサートホールが隣接され、たまにアイドルなどが来ると市役所の出口まで行列が伸びる事がある。以前どこかの有名俳優が来た時、長蛇の列が並木道まで伸びて非常に邪魔だった事を苦虫をかみつぶすような感覚に襲われながら思い出した。
向かうのはまず市役所の窓口である。用件をいい、番号札をもらって呼ばれるのを待つ。立て直したためか設備も最新式である。壁に取り付けられた電光掲示板に数字が記載され番号での呼び出しを行っている。番号の他にも市のニュースなどが掲示板の上を流れている。平日ゆえか人も番号も非常に多い。電光掲示板の数字は300番代であるがもらった番号札は500番代である。これは相当待たされると思ったので先に図書館に向かう事にした。
図書館は市立図書館にしては結構な蔵書量を誇っている。が、やはりあまりよくはない。周りの好きそうな一般文芸は多々あるものの、自分の好きなジャンルがあまりないので不満と言えば大アリだった。入口すぐのカウンターでバスの中で読んでいた『老人と海』といくつかの本とお別れをする。ありがとう。楽しかったよ。またね。元気でね。
お別れの後、また本を借りに行く。何を借りるかは決めない。本棚を歩き目にとまった本を借りる。自分が選ぶのではない。本が選ぶのである。そうやって目にとまった本を最大貸本数である8冊を貸出期限いっぱいまで借りるのが習慣だった。まず8冊。本棚と本棚の間をゆっくりと歩く。
途中子供二人に「あ、同性愛者だ」と言われたが気にしない。幻聴である。それにたかが子供、たかが幻聴ごときに本との蜜月を邪魔されたくはない。自分はいま本と共にある。なら本と向き合わないと失礼じゃないか。
熟考の後、『ビジネスマナー大全』『数の情緒』『蟲の声』『廃野のおおかみ』『梅毒の歴史』『地方の歴史』『古代ローマ新説』『春の王』を今回は借りていく。
カウンターで貸出手続きをしている最中館内放送が自分の番号と名前を呼んだ。やれやれなんて無粋な。しかしこのタイミングは絶妙だ。本との会話を邪魔されず本当によかった。
借りた本をかばんに入れ図書館を出る。ここに来るのは2週間後だ。楽しみを先にしてしまったがためにこれからの行動が面倒でたまらない。しかし行かねばならない。足をなんとか奮い立たせ窓口へとゆっくり歩いた。
市役所から帰ると不快な電子音が騒音をまき散らしていた。それは携帯だった。着信が収まるのを待ってから履歴を見る。かなり長くなっていたようだ。電話と言うか機械があまり好きではなかった。いつもベルが鳴るとびくりとしてしまう。機械が自分を呼んでいるようで吐き気がした。なぜ機械に呼ばれなければならないのか。これでは機械にすべての意思を支配されているようではないか。くだらない。己は己だ。それ以上でも以下でもない。履歴をチェックしているとすぐにメールが来ていた。
「結婚式に出席されますか?」
結婚式とは従姉の結婚式だ。小さい頃はよく遊んだが大きくなるにつれて会わなくなった。
こんな事で聞くような要件ではないだろうと憤慨した。そのすぐ後でまた同じ相手から電話がかかってきた。電話に出る。行かない旨を伝えるとこの恩知らずとなじられた。あんたはこの子の従姉でしょ。親戚でしょ。知らない顔じゃないでしょう。なんで行かないの? どうせ暇なんだから行きなさいよ。
最初は怒鳴っていたが最後は涙声だった。鼻をすする音が耳障りで不快だった。しかし、申し訳なく思ったのでごめんと謝った。また連絡するといわれて電話を切られた。
『結婚式』
いきなり出てきたこの単語は自分とはあまりにも場違いでどこか遠い世界で鳴る鐘の波音のように頭の中に響いた。
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