古典文学エッセイ
達磨
第1話 『名人伝』 中島敦
昔。中学生の時の国語の授業の事である。
その年は後世に悪評を残すゆとり教育が正式に施行された年であり、一部の私立学校以外はこれを適用した。私の中学校では土曜日学級の廃止、少人数授業が行われた。いきなり、「今日から少人数授業だ。○時間目はここからここまでの番号は○○に移動」という性急さである。私たちは大いに戸惑った。先生に不平を言うと、「貴方方は困っているかもしれない。しかし先生達はもっと困っている」と言われた。いつの時代も上のよくわからない指示に迷惑を被るのは現場の人間であるという事のいい見本である。
その先生は40代くらいの禿頭の大柄な男性である。少人数授業で国語を担当していた。愛嬌のある少し太っちょでたれ目の先生である。外見からは想像できないほど礼儀正しく、生徒に対しても敬語で話した。生徒を呼ぶ時は男子なら○○君、女子なら○○さんだった。生徒のことを怒る時を除き呼び捨てはしない人だった。禿頭がコンプレックスらしく、どうやったら髪が生えるのかを熱心に研究していた。ここのシャンプーがいいだとか牛のざらざらした舌で頭をなめさせると頭皮にいい刺激になるという眉唾ものの民間療法まで真剣に話し、よく授業をしらけさせていた。
上記において「先生達の方がもっと困っている」と言ったのもこの人である。
海外で教鞭をとっていた経験があり、その時の話を多く聞いた。
曰く、ロシアにいた時、休日に家族で行った劇場がその三日後にテロに襲われ、まさに九死に一生を得た事。
曰く、アフリカの自然ツアーでガイドに案内されたホテルが木造の小屋で、抗議したところ、死にたくなかったら小屋から出るなと言われた事。
曰く、女性が一人外出すると必ず物盗りに会うという治安の悪い所にいた際、その事を知らなかった同僚の教師が案の定、駅で強盗に拳銃を向けられ有り金をすべて取られてしまい、これを迎えに行った事。
「海外という所はそういう所ですよ」ときれいなテノールでユーモアたっぷりに笑って話す先生である。
名をY先生といった。
Y先生はある時授業で私にこう言った。
「○○さん。もし、あなたが柔道を完璧に修得できたのなら、あなたは道着の着方も技のかけ方も今まで覚えた柔道に関する全てを忘れ、何も分からなくなるでしょう。」
当時の私はその言葉の意味がまるで分らなかった。
――いったい、Y先生はどのような主旨で、意味で、何を伝えたくて、これを言ったのだろうか。
私は言われて何年もたった今でもそれを考えている。
私の通った中学校はあまり素行のいい学校ではなかった。不良もたくさんおり、学級崩壊はもちろん、授業中断も日常茶飯事だった。あまりに頻繁なので私は授業を受けた記憶があまりない。生徒の私がこうなのだから先生はもっと苦労したろうと思う。
私が教師になりたくないのはこの頃の経験があるからというのも一つある。
例えばこんな事があった。卒業する一月前、私が登校し、教室に入ると同級生が大騒ぎになっており、担任の先生が教室の入り口にすぐ入った所で、しゃがみこんで頬に流れる涙をぬぐっている。どうしたのかと思い黒板を見ると、黒板の黒い部分がなくなっていた。正確に言うとどうやったかは知らないがはぎ取られ。荒々しい木の部分がささくれのように痛々しく残されているばかりである。違うクラスでは蝋燭の蠟をたらして机に落書きがしてあったり、教室の蛍光灯が全て割られていたり、三年生のすべてのクラスが何らかの被害を被った。私のクラスは黒板が使えないため、その日のうちに教室移動が決定した。1年間使った教室と最後のお別れというありきたりなものさえできなかったわけだ。噂によると不良とそのOBの仕業であったらしい。校舎の屋上にはぎ取られた黒板が捨てられており、先生が片付けに苦労していた。余談であるが、私たちの学校は近隣の中学校、高校への出入り(卒業した小学校を含めて)を禁止している。理由は上記の不良が小学校、高校への敷地内に無断で入る、また小学生、高校生へのカツアゲまがいの脅迫行為をしたためである。そのため、卒業した学校の先生に会いに行くというありふれた行動を私はしたことがない。当時は会いに行きたいとも思わなかったが、最近は時々あの人はどうしているだろうと無性に会いに行きたくなるような気がする。まあ会いにいこうにも移動でとっくに別のところにいるので会いに行きようもないのだが。
私が卒業してのちに校長が変わり、色々な改革を行い少しはましになったらしい。その校長がPTAの総会で暗い学校を少しでも明るくしようと色々な事をしたと聞き、 ではどうして私の在学中にしてくれなかったのだろうと脱力したものである。
しかし、間違えてはいけない。一番性質が悪いのはその不良を頭が悪いと見下し、自分には関係ないと見て見ぬふりをする秀才気取りの馬鹿共である。自己中心的な傍観者はいつの世もろくなものではない。
この環境にあってY先生の語る海外での教員生活の話は魅力的であった。世の中は色々な事があるのだと感嘆したものである。国際関係に興味を持ったのは中学時代に会った人々、Y先生や黒柳徹子女史の本のおかげだと思う。「トットちゃんとトットちゃんたち」という本だ。特に大学受験の際に柔道がなくなった私に進路を示し、新しい夢をくれたのは黒柳さんの本だった。この本に出会わなければ私はこの大学には来ていないだろう。もっともその夢も大学へ入学した途端にぼろぼろに砕けて塵となってしまうのだが。それは別の話であり、すべては私の弱さのせいである。
さて、その中学時代において私は柔道と本を読んで過ごした。周りと一緒になって知りもしない他人の悪口を言うのは嫌だったからだ。人間が集団においてどんな醜悪な事をするのかという事を知ったのもこの時期である。
一匹狼を気取った私がこの環境でいじめられなかったのは柔道のおかげであるかもしれない。私は小学校から柔道をしていてその縁でこの中学校に入った。
大げさに書いたが、単に道場の先輩に誘われたためである。また、当時は私立以外の公立小中学校は全て自分の住んでいる地区でどの中学に行くかが決められており、他に選ぶ事が出来なかった。最近になって、この制度が撤廃され、小中学校のどこであろうと自由に行けるようになったそうだ。少子化で廃校の危険がさらに増した学校関係者には申し訳ないが、この時も私はどうしてもっと早くこの制度にならなかったのだろうと悔しくてたまらなかった。その理由は後述する。
私が避けられていた理由を最近知ったが、どうやら私は同性愛者で通っていたらしい。小学生のころからおれと言っていたし、髪も短かった。理由は昔から遊んでいた従兄の口調が移ってしまいなかなか戻せなかったことと髪が短いのは柔道に邪魔だったからである。
今でもどこにいってもいわれ、いじめられて困っている。昨日まで仲良く話している人が噂を聞いたとたん私とは目も合わせず去っていくのももう慣れた。年金暮らしの老人たちの噂の種にされ、若い連中には好奇と軽蔑のこもった視線を向けられ蔭口を言われる。「やさしくすると好きになられるからやさしくするな」「気持ち悪い」噂好きにも困ったものだ。私は自分を含めて他人に恋愛感情を持ったことが一度もないというのに。嘘も言い続ければ真実になる。彼らにとって私は気味の悪い同性愛者ということになるのだろう。
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷
私はこの社会には不要ということなのだろう。こんなこと、もうとっくにわかっていたことだ。
今までの私の人生において大学以外の学校は柔道をするための場所だった。私は人間や学校がとにかく嫌いだったので柔道がなければ中学校も高校も行っていないと思う。今自分が大学まで行っているのは奇跡としかいいようがなく、本当に柔道のおかげである。
しかし、多くのものを学んだとはいえ、実際の私の柔道生活はあまり恵まれたものではなかった。特に中学校では、環境にも師にも仲間にも恵まれなかった。顧問に至っては論外である。
中学一年の時は先輩がおり練習ができた。二年は後輩と二人きりになり、後輩はもっと強い所で練習したいと違う中学に転校した。他にも転校した後に入部してきた後輩はいたが練習に熱心ではなかった。
中学校は海の堤防を挟んだすぐそこにある。窓から釣り糸をたらせば魚が釣れるのではないかと思うほど近くだった。中学校の武道場からは海が見える。武道場は二つの面に分けられる。入口から入ってすぐに剣道の板間があり、奥に柔道の畳がある。入部してから私はそこでの掃除を日課にしている。一人になった時も。そこで私は一人で道場の掃除をしている。まずきれいに掃く。ゴミをすててからかたく絞った雑巾できれいに拭いていく。畳一枚を畳目にそって横に拭いていく。畳一枚が終わったら次の畳へ。腕の筋肉を意識して。どの筋肉を使っているか。柔道にどう生かすか。そんなことを思いながら、集中し、丹念に拭いていく。毎日毎日。飽くことなく。一人になってしまったため、他校よりも立派で使われない道場を残念に思いながら。毎日毎日。やけるような焦燥感に駆られながら。
中学二年生の時後輩が転校した際、私は焦っていた。
中学にはいってからずっと、部員は入れ替わり立ち替わり私の元を去っていく。小学校から通っていた道場も同級生は皆柔道を辞めてしまった。最後にはいつも私一人が残される。今もそうだ。
顧問は、練習には来ないくせに、「部員が来ないのはお前のせいだ。なんでもっと勧誘しない」と私を詰り、殴った。私が一人で柔道をしている中で他の学校のライバルは私のいる所よりもずっと恵まれた所で、師に教えを請い、仲間と一緒に練習し、さらに強くなっている。それを思うだけで胸がやかれるようだった。もっと強くなりたかった。
二年生のなかばに、私は練習をしない後輩を見切り、違う中学校で練習していた。
三年の最後に卒業写真を撮るときに久しぶりに部室に行った際、後輩に「練習さぼんな」と言われた。練習をせず、私が何度懇願しようと練習をしてくれなかった後輩である。私は怒気を通り越してあきれてしまった。
大学に進学し、一時期いたサークルの人に、「いつも一人になるんだ。後輩はあまり好きじゃないんだ」と話した時、その人に「そんなに人が離れるのはあなたにも問題があるのではないか」と言われた。然り。的を射ている。私は短気で自己中心的なのだ。上記の馬鹿共の事を言えない。私が見切らなければ、他の中学で練習しなければ仲良くしていられただろうか。せめて一緒に笑って、後を頼むと卒業できただろうか。いや、そんな事はあり得ないのだ。過去の事をいくら悔もうともう遅いのだ。
高校は、ただただ柔道がしたかったので、柔道ができる所を選んだ。中学で思うようにできなかったのでここでは思いきりやりたいと思ったのである。しかし、結論をいえば散々なものだった。
高校の時、練習についていけず、毎日のように吐いていた。痛みに疼く胃の中から出る酸に喉をやかれながら、自分の情けなさに涙をこぼした。
そんな時、いつも中学二年の時に転校した後輩を思い出した。彼女のように私も別の中学に行けばよかったのだろうか。少なくともこんな結果には終わらなかったのではないかと思った。しかし、そんな思考は無意味なのだ。違う場所なら自分はできると思っている時点で甘えなのだ。ここでできないのなら、どこに行っても無理なのだ。
――人間は所詮、何者かに生まれる前からあらかじめ決められ、与えられた場所で精一杯努力するしかない。
散々な高校時代の最後に引退試合で別の中学に転校し、その時は別の高校で頑張っていた後輩に会い、
「私と同じとこ(中学)に来てれば(高校でも)強くなれたかもしれないのに」
と言われ、
「どこに行ってもうちはだめだったよ」
と笑って、答えた。
涙は出なかった。ただ少しの諦観と悔恨があるだけだった。情熱という炎は薪を燃やしつくし、残骸はくすぶるような虚無感にかわり、深い闇と倦怠感と摘むような希望が心の中の全てだった。長く焦燥感に追い立てられ心身共に疲れ果てていた。
……まだだ。まだ、大丈夫だ。私には夢がある。新しい、夢がある。もう柔道がなくても、振り落とされまいと、必死で食らいついた、柔道がなくても、私はやっていける。大丈夫。大丈夫。
大学では柔道をしなかった。もう柔道はしない。これまでの柔道生活では家族にたくさんの迷惑をかけた。朝五時起きでお弁当を持たせてくれたり、私立の学費、合宿費用あげてみればきりがない。本当に家族の支えがなければここまでやってこなかっただろう。その分成績を出さねばならないのに出せず常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。今まで自分のことばかりしてきたから、今度は他人の為に何かしようと思いボランティアサークルに入った。
しかし、夢は簡単に破れた。跡形もなくびりびりと紙を破くように。
周りの連中は私をまるで腫物のように扱う。先生連中も似たようなものだ。みんなにたにたと気持ちの悪い薄笑いを浮かべて私を遠巻きにしてみている。それはあの秀才気取りの馬鹿共と何が違うのだろう。私はここでも受け入れられないのか。ここでも同性愛者と言われ辟易するばかりだった。大学の先生は教育者としては最低である。繰り返す、教授は教育者ではない。彼らインテリは自分の研究成果の為に誰が壊れようと気にしない。それは研究者としてあまりにも正当でまっとうな事である。だからインテリは気持ち悪い。体育会系に失望しインテリにも失望した。両方のいい面悪い面がわかるがゆえに私の心鏡は複雑だった。
違う事に心を傾けようとボランティア等やってみたが続かなかった。
一度柔道サークルに見学に行ったが、女子が一人と男子が数人しかいなかった。中学に比べれば多い人数だった。しかし、結局入らなかった。
中学時代に一人、柔道を練習した経験があるために、もう弱い所ではやらないと決めていた。冷めて遊びでやっている中で熱意を持ってやっても空しいだけだ。一人でやる辛さを人一倍経験しているだけにもうこりごりだと思った。
大学の運動部はサークルという遊びの一環にすぎなかった。すくなくとも私にはそう見えた。そんな連中が就職活動では体育会系と評価を得て就職できるのだから、世の人は本当に見る目がない。自分の方が何倍も努力しているという自惚れがある分、私はショックだった。
柔道を続けて、死ぬ気で頑張ってきて得た努力の全てが、 ―大柄な体格、つぶれた耳、礼儀、振る舞い-、 ここでは、いやここでも、何の意味も価値もないものだった。就職活動中、上手くいってない人間がよく、「自分のやってきた事は社会では何の役にも立たず、自分を否定された感じがする」という主旨の話を言っているのをよく聞いた。が、何の事はない。私は大学在学中、それを常に感じてきたのだ。就職活動がうまくいってないくらいなんだというのだ。くだらない。だから間違えないでほしい。私のこの気持は就職活動が原因で生まれたわけではないという事を。
私は一人だった。友達といても一人だった。最初の二年は本も読めなかった。昔はページをめくれば流れるように頭の中に入ってきたものだが今は苦痛しかなかった。柔道の事昔の事さまざまなものが頭の中を駆け巡り不快だった。少しずつ本を読む。昔のように本を読む。ただそれは大学でなくてもできる事だった。
周りはみんな変われという。そうすれば辛くなくなる。でもどうすればいいというのだろう。そして変わるという事は今までやってきた事を被ってきた恩を無駄にする事になりはしないか。
まあ、早く卒業したいと一年生の頃から常々思ってきたのに、その他大勢の人より長く残るのだからとんだ道化である。とんだ笑い者である。
まあこれも自惚れで甘えなのだ。怒らないでほしいと思う。
今現在の大学や周囲の評価はあまりいいものではない。全て私に責任があるのだ。家族にしても周囲にしても年を追う毎に風当たりはどんどん強くなっている。
柔道をしていた頃の知り合いはしたり顔で言う。
「柔道をやめないで続けたらよかったのに。就職もできたろうに」
「柔道よりも楽しい事は世の中いっぱいある」 、と。
しかし、何にしても必死で努力して、例え空回りだとしても、血反吐を吐いて頑張って得た現状であり評価である。どのようなものであったとしても甘んじて受ける所存である。自分はその覚悟でここまでやってきたのだから。
ところで、長く柔道を続けていたが歓送会のような事をされた事はない。小中学はもちろん高校も後輩と折り合いが悪く辞退したのである。わたされる花束やらプレゼントにあんなものをもらって何が嬉しいんだとか、心がこもってないとか意地の悪い事を思いつつ、すこしだけうらやましいのも事実である。 ……すみません。すごくうらやましいです。
人生で初めてのちゃんとした歓送会は大学二年生の時のNPOのインターンだった。初めて酒を飲んだのもここである。米どころな分日本酒がおいしかった。舌触りがなめらかでのど越しは清むようだった。飲んだ分だけ心身が清められるようだった。そして水のように飲んだ分悪酔いし、吐いた。参加者の先輩方には迷惑をかけ申し訳なかったと思う。高校の時の悔恨じみて吐いた時と比べれば清々しいものだった。NPOから帰って始めたバイト先でも飲み会でよく酔っぱらったり、悪酔いしたが、清々しさは比べ物にならない。
NPOの歓送会ではスピーチという物をはじめてした。柔道をしていた頃は大会の挨拶などで延々と聞かされ辟易し、なんでこの人はよく、「え―、」というのだろうと不思議に思ったものだが、実際にやってみると納得する。聞くのと実際にするのは全然違う。 「えー、」と言ったりどもるのは緊張しているからである。自分のスピーチの間は生きた心地がしなかった。今までバカにしてすみませんと心の中で謝った。
歓送会はとてもうれしかった。一生、覚えていると思う。様々な事を学ばせていただき感謝している。
思うに私はいつも辞め方が下手なのだ。必ず何か問題を起こしてしまう。円満退社など望むべくもない。
すべて、せんない事だ。
ただ九年ばかりの柔道生活を振り返り、後進に伝えたい。本気で何かに秀で、上手くなりたいと願うなら環境と師は選ぶ事だ。努力と根気ももちろんこれら以上に必要であるが、こればかりは個人の力ではどうにもならない。行きたくても行けず、思い切り何かをやりたいのにできず、さらに常に周りに置いて行かれ、追いつきたくて必死で努力しても冷めた目で見られ嘲笑される。そんな目にあいたくなければ。
まあ、今となってかんがえればそれはどこにいても感じることである。問題はどう折り合いをつけるかなのだ。ようはそう、バランスだ。
余談がすぎた。中学時代に話を戻そう。
私は中学の朝会では柔道で表彰される事も多かった。ちなみに高校の時は一度も勝てなかったので表彰された事はない。
当時の私はこれが一番嫌いであった。ていのいいさらしものである。入賞するのは私が強いからではない。重量級かつ地方大会であるため参加者も少なく、二人しかいないという事が常であった。
つまり負けても二位なのである。みんな最初は褒めてくれるが、真相を知ったとたん、なーんだという顔になる。勝手に持ち上げられて、勝手に振り落とされるのである。からかわれる事も日常茶飯事であった。私はこの時が最も嫌であった。皆に嘘をついているようで嫌なのだ。過大評価で皆の落胆を見るのも嫌だった。
もちろん二人だけの試合ばかりではない。大勢の参加者と闘い優勝した事もある。
それでも一度ついた私の風聞は私の手にした一握りの勝利さえかすませて余りあるものだった。
Y先生にあの一言を言われたのも表彰された日だった。その日は月曜日だった。中学三年生の時で、すでに別の中学で練習していて、一人だった。Y先生の授業中であり、私は廊下側の後ろから二番目の席に座っている。朝から、前日にあった試合で準優勝した事を表彰され、私は嫌な気分だった。私のななめ後ろの席の男子に「どうせ二人だろ? 大したことないじゃん」とからかわれていた。
少人数学級なので席と席の間隔が広く、小声でも声がよく響く。
他の十数人の同級生は興味がありませんというふりをして、その実、興味津々と聞き耳を立てていた。
私は何も言い返せず、ただ拳を握りしめていた。
大した事がないのはわかっている。力不足なのもわかっている。そんな事、言われなくても自分がよく知っている。 ――だから、強くなりたいと思ったのである。
その時、ふとY先生はチョークを私に向けてこう言ったのである。
「○○さん。もし、あなたが柔道を完璧に修得できたのなら、あなたは道着の着方も技のかけ方も今まで覚えた柔道に関する全てを忘れ、何も分からなくなるでしょう。何かを究めるという事はそういうことです」と。
私は、意味がわからず曖昧にごまかすように笑っていた。
ちらりと周囲を見ると他の生徒も理解できなかったようで首をかしげている。
私をからかっていた男子に至っては、なに言ってんの、こいつ? という露骨に馬鹿にした目つきでY先生を見ていた。
私は意味がわかっていないのが私一人ではない事に安堵しつつ、Y先生の言を理解しようと必死だった。
……強くもないくせに毎回表彰されていい気になるなとよく同級生に言われたが、それと同じ意味だろうか?
……それとも私の卑屈さ未熟さや柔道の練習不足を言外に非難しているのだろうか?
疑念が胸の中で黒い煙となってどぐろを巻き、まるで煙自体が重みを持っているかのように私の胸を重くさせた。私はとても居心地が悪かった。
私の卑屈で矮小な心の内を知らず、Y先生の瞳が好奇心にきらきらと宝石のように輝いている。
私はY先生の瞳から眼をそらした。あいまいな笑みをこぼす気配の後、Y先生は何事もなかったかのように黒板に振り返り、教科書の文句を板書した。私は続くように響くY先生の声とチョークの音を聞きながら、自分はなんて嫌な奴だと思った。
それから後。高校の時、中島敦を読み、 ――ああ、あれは紀昌の事だったのかと、気付いた。
古典文学エッセイ 達磨 @darumarenma
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