第5話 食卓を彩るもの
「ちょっと早いけど、夕食の準備しようか」
「あれ、もうそんな時間か?」
時計の針は6時を回っていた。
窓の外もいつのまにか暗くなっている。
話し込んでいたら、つい時間を忘れてしまった。
「ええと、料理って得意だったりする?」
「そうだな、インスタント麺に限って言えばパーフェクトだぞ」
「そう……。お手伝いを頼むのも無理そうね。今日はいいけど、これからは洗濯物やお風呂の準備をお願いしようかな」
アヤメは同居人なのであって、家政婦や母ちゃんではない。
好意や気遣いから動いてくれる恋人でもない。
家の事を任せきりにしようとすると、悲惨な結末を迎えてしまうだろう。
生活の質を保つためには、誰かが毎日労働をする他なく、オレは独り暮らしを始めた時にこの問題に悩まされた。
そして心のなかで、全国の主婦に向けて土下座をした。
家事ナメててすいませんでした、と。
この面倒くささ、途方も無さは経験しないと決してわからないもんだ。
その結果オレは大抵の事を投げ出して、悪環境に慣れる方へとシフトした訳だ。
トントントントン。
乱れの無い包丁の音。
温もりのあるリズムが刻まれる。
この手際の良さから見て、アヤメは普段から料理をしているんだろう。
オレにはとても真似できない。
トントントントン。
肩まで伸びた髪を後ろで縛っていて、それが軽快な音と一緒に微かに揺れる。
こちらから表情までは見ることができない。
今はどんな顔をしてるんだろう。
恋人同士だったら、後ろから抱き締めて確認するのに。
『なに作ってんのー?』とか聞いちゃってさ。
『危ないから、向こう行っててよー』とか言われちゃったりさ?
いいなぁぁー彼女持ちのヤツら。
いいぃなぁぁー嫁さんいるヤツら。
こんな光景を思う様に楽しめるなんて、贅沢すぎるだろうが。
それだけで毎日幸せだろうがぁぁああん!
この世は極端な格差と、不公平で成り立っているッ!
オレたち非モテ男子は覚悟をすべきだ!
イケメン勢に饗(きょう)された大皿から溢れ落ちる偶然のお情けに、すがり付く他はないのだと!
それ以外に、飢えを満たす道は無いのだと!
アッアァァァアアーーッ!
「どうしたの? 頭なんか抱え込んじゃって……」
鍋をおたまでかき混ぜつつ、アヤメが話しかけてきた。
オレはいつの間にか髪をかき乱し、机に突っ伏すようにして倒れこんでいた。
まさか、嫉妬のエナジーにここまで突き動かされようとは。
オレ完全にヤバイやつじゃん、妄想も大概にしないと。
「すまん、ちょっと心の小旅行が激しくてな」
「そう……。あまり考え込まないでね。ここでの暮らしも楽しいんだから」
「お、おう。そうだろうとも!」
どうやらアヤメは「転生について嘆いている」と解釈したようだ。
その方がこちらとしても都合が良い。
あまり彼女の後ろ姿は見ないようにして、大人しく待つ事にしよう。
「お待たせー。足りなかったらオカワリあるからね」
「おっおう」
「味薄かったら言ってね」
「おっおう」
「じゃあ、いただきまーす」
「イタダキマス」
ツヤツヤのご飯。
湯気の昇る茄子のお味噌汁。
匂いだけでも美味しく感じるしょうが焼き。
プチトマトがチョコンと乗せられたミニサラダ。
キュウリとニンジンの漬け物。
それらが所狭しとテーブルの上を賑やかにしている。
何これ、魔法?
パウチをチンとか、お湯で3分とかやんないの?
自慢じゃないが、ここまでの料理を自分で用意したことなんか1度もないぞ?
なんという上位者クラスの女子力。
年下だと思って油断していると、大恥をかいてしまうかもしれないな。
「どう、美味しい?」
「うんうん、うん!」
「アハハ。そんなになって食べてくれると、こっちも嬉しいよ」
実際すんごく旨い。
出来合いものの雑多な味じゃなく、細部まで計算された味わい。
体温の感じられる品々が心に直接響くようだ。
「そうだ、一個出し忘れちゃった」
彼女は冷蔵庫から皿をひとつ出した。
その独特な豆のツヤ。
部屋の空気を一新する程の凶悪な刺激臭。
それは、もしかして……。
「納豆は平気? 良かったらこれも食べてね」
「アァーッ!」
「どしたの。嫌いだった?」
「んなもん出すなよぉーッ。生物兵器じゃねぇか!」
ダメだ、鼻をやられちまった。
もう何を食ってもこの臭いしかしないだろう。
ここまでの流れが台無しだよこの野郎!
「なによう。美味しいんだからいいじゃない」
「フザッけんな、そんな悪意の塊食えるか!」
「もしかして、食わず嫌い?」
「当たり前だろ! 人間は腐敗物を食べないように繊細にな設計がされてんだよ!」
あーもうヤダヤダ、お家帰りたい。
イバラキにはこれがある事をすっかり忘れていた。
今後もずっと付きまとうのか?
この圧倒的な腐敗臭が!
「一口だけ食べてみなって。意外とハマッちゃうかもよ?」
「いーやーだ! いーやーだ! 何があってもいーやーだッ!」
「はい、アーンして」
「あーん」
しまった、なんて巧妙な罠なんだ!
非モテ故にこの流れは拒否できない!
あぁ、悪魔の子が口の中を凌辱していく。
オレの『ファーストあーん』がこんな形で失われるなんて。
もうオレはお終まいだ。
……あれ?
意外と味は、悪くないぞ。
いや、これはむしろ。
美味しい?!
「はい、そこでお米をひとくち!」
「うん、うん」
お米とも良く合う。
味噌汁だって合う。
粘り気が独特なまろやかさを生み出し、醤油とも相性がバツグンだ。
こんな食の世界があったなんて!
「美味しいでしょ? 食わず嫌いなんてもったいないよ」
「すっげぇうまい。たった今オレの価値観が爆散した」
「はい、何か言うことがあるでしょ」
「アヤメさん。暴言吐きまくってマジすんませんでした」
「私に、じゃないよ」
彼女は皿のひとつに視線を落とした。
そこにあるのは、ついさっき好物となったお豆さん。
オレは可能な限り頭をテーブルの高さに下げて、自分なりの誠意を表した。
「今まで失礼しました。今後は率先して食べていこうと思います」
「よろしい。これからは好き嫌いなく食べようね」
「そうだな、もうジャンジャンいこうぜ」
「ダイチくんって……けっこうお調子者だよね?」
なんとでも言えばいい。
お調子者でも構わないさ。
今はこの粘りとともに居られれば、それで良い。
知らないことは罪である、と誰かが言っていた気がする。
それは的を射た言葉かもしれない。
家事の時もそう、納豆の事もそうだ。
認識が改まることで、別人のように生まれ変わるのだから。
物事を知る大切さを、オレはモキュモキュと噛み締めていた。
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