第二章 芸術家と冬

翌朝になった。核の冬の影響で、十月なのに、もういっそ霜が降りそうな勢いだ。寒い。

 ただそんな中、今朝は朝露をたたえた花が、現れたばかりの太陽の柔らかな日差しに照らされて、キラキラ輝いている。

 どうやら今日は晴れらしい。よかった。世界情勢がどんなにキナ臭かろうと、単純に今日雪が降らなかったことのほうが、空にとってはありがたかった。

 さて、空が通う聖フランシスコ学園は、偏差値八十以上の偏差値を誇る、指折りの有名私立高校だ。卒業生には名だたる政治家がおり、その教育環境の充実度と実績で良家の子女が多数在籍する。

 実際、生徒には全員に専用のタブレットが配られ、学修過程や成果、課題達成のために収集した資料や遂行状況、レポート、成績単位取得表、課外活動等の記録がネットワーク上で管理されている。

 視聴覚室では、世界各国の最先端の学会発表や開発者の講義を常時シアターで観覧することができ、音楽室では名工の手による高価な楽器に授業の一環で触れることができる。特に特徴的なのが実験室で、スパコンを含む大学と共同研究できるほどの高価な実験機器が多数設置され、余談だが、噂によると五分起動するだけで電気代が百万を超える実験設備もあるとか。

 いずれにせよ、本来の空の貯金では、通える場所ではない。それがどうしてここで授業を受けることができているかというと、奨学金をもらっているおかげだった。

 その奨学金を受けるために尽力してくれたのが、父の友人であり、この学校で芸術の授業を担当している永輝先生。ゆえに空は、永輝先生には頭が上がらない。

 聖フランスシスコ学園は、学生の自主性が重んじられているため、授業は単位制だ。必須授業は朝のホームルームだけで、それ以外は自分で授業を選ぶことができる。

 入学時、空が選んだのは、数学I、地理、西洋史、絵画基礎、古文。まあ、数学I以外は授業さえでていればこなせたが、自覚していたよりも理数系が苦手だったようで、数学Ⅰは今や空の鬼門の授業となっている。

「ういーす!空!」

 在籍する2年C組の教室に入ると、明るい男の声がかかった。声がする方を見遣ると、体格のいい男子が、ニカッと笑いかけてきている。

「ああ。おはよう、高氏」

 斎藤高氏。選択した授業がかなり被っていたことから、なんとなく親しくなったクラスメイト。気遣いができ、頭の回転が速いため、クラスのムードメーカー的存在でもある。

 自分がお金が無いことを知っていながら、分け隔てなく接してくるところも、空は気に入っていた。

 優しそうな顔立ちで、見た目も悪くないのだが、……高氏には致命的な短所が一つ。

「おう。昨晩のプリズムマキナは最高だったぜ! お前も見たか?!」

 いわゆる世間で言う、重度のオタクであった。

 空も偏見を持っていたつもりはないが、毎朝鼻息荒く前のめりで、小学生の女の子のアニメの話題を振られると、さすがに引いてしまうのは仕方ないだろう。

「へえ。そんな番組があったんだ」

「おいおいおい。三話見なかったのか。神回だぞ、前からいいって言ってるだろうが?」

「それ以前に、俺の部屋にテレビがない」

「じゃあ、ネットで見ろよ。ア〇ゾンプライムとかで」

「そんな時間ねえよ。ふぁぁ」

 空は大あくびをした。ただでさえ寒さに弱い空は、朝にも弱いのだ。

 もっとも、空がこんなに眠そうにしている理由は、本当は他に理由があるのだが。

「眠そうだな。昨晩、何してたんだ?」

「これ」

 自分の席にドカッと腰を下ろし、空は鞄から何かを取り出した。それは筆箱と同じくらいの大きさのもの。それは黒い携帯ゲーム機だった。

「借りてたから、そろそろ返さないとと思って」

 それは三ヶ月前、高氏が半ば無理やり、空に押し付けたものだった。高氏曰く『このゲームは神ゲーだから、やってみな』とのこと。

 入っていたソフトは、ヒロインと三年間の高校生活を通じて、青春を楽しむ恋愛シミュレーションゲーム。ストーリーはシンプルで、操作も選択肢を選ぶだけなので、誰でも簡単に遊べた。(ただし攻略が簡単なゲームとは言ってない)

 さっさと終わらせようと手を付けてみたところ、思ったより夢中になってしまったようで、つい昨晩は遅くまでやり過ぎてエンディングまでやり続けてしまった。

 ……まあ、シナリオ良かったし。けど、さすがに午前二時はやりすぎたな。

 くあ、と空が再びあくびをする。

「おお! 隠しキャラまで含めて全員クリアしてるじゃないか! さすがわが親友、空殿だ!」

 歓喜の雄たけびを上げて携帯ゲーム機を受け取ったまま、高氏が左手で俺の肩を揺さぶってきた。

 ああ……寝不足の頭に、その振動はちょっときつい。

「いや、そういうのはいいから。それより、数学のノート貸してくれない?」

「いいともっ!」

「ありがとよ」

 満面の笑みで渡されたノートを取り、高氏から離れると、空は宿題を書き写すことに集中した。

 数学Ⅰは一限目だ。なんとしても、間に合わせなければいけない。

「でさ、お前もプリズムマキナを見るべきだ。あとでDVD渡すからさ!」

「はいはい」

「いいってことよ、俺とお前の中じゃねえか」

「へいへい、ありがとうよ。て、これ西洋史のノートじゃねえかっ」

「おっと失敬」

「あのな、俺、急いでいるからな」

 もともと宿題をやってこなかったのは俺だけど。

「話変わるけど、そういえば今朝のニュース見たか、空氏」

「『氏』を付けないでくれ。あと、俺の家はテレビがないって」

「そういやそうだったな」

 ハハハ、と笑いながら、高氏は椅子の上で胡坐をかいた。

「じゃあ、写しながら聞けよ」

 高氏は目はらんらんと輝いていた。俺はそれを見て、小さくため息を一つつく。

 ……ああ、また始まった。

 高氏は面白い情報を得ると、他人に伝えたくてたまらなくなる悪癖がある。できれば、またオタク情報じゃなければいいけど。

「来週、この核の冬が終わるらしい」

「へえ。そいつはよかった」

「それに対する各国の対応が見ものでさ。安保理はこの問題を一刻も早く解決すべきと、全会一致という珍しい現象が起きたのさ。まさか、あの常任理事国がすべて賛成に回るなんて、まさに歴史的瞬間さ…」

「あー。うん」

 高氏は俺が引いているのも構わず、唾を飛ばしながら熱く語っている。

 そういやこいつ、歴史オタクでもあったんだよな。こうなるとしばらく止まらない。電気屋で商品を宣伝する店員のようなマシンガントークが、延々と目の前で繰り広げられている。

 ま、いいか、ほっとこ。俺は再びノートに集中した。

 それにしても、今日も平和だ。平和がいいな。

 こうしてずっと毎朝気持ちよく目覚め、朝食を取り、登校し、友人とこうして戯れていたい。

 高氏の話を聞いていない?

 いいや、聞いているさ。これも立派な俺なりの交流だ。例え世界のどこかの会議で大事なことが決まろうと、戦争が起きようと、俺の範囲に入ってこなければ、それは関係ないものだ。

 俺には今目の前の人生、高校、妹、生活で手一杯だ。これら以外の事を気にしている余裕はない。




 本鈴が校内に響き渡り、昼休みとなった。

 高氏と違う選択をした芸術基礎の授業を終え、俺はゆったりと席に座ったまま、他の生徒がこの教室を出終えるのを待った。

 昼休みの食堂は混雑するから、裕福な生徒さんたちの邪魔をして、貧乏人ごときが無用なトラブルを起こしてはいけない、とちゃんと状況を弁えているのだ。

 高氏に限らず、この学校の生徒はどこか育ちの良さを感じる。遠巻きにされてはいるが、あからさまに害意を向けてくることはないし、時々勉強を教えあったりもする。

 ルーヴル美術館に何が展示されているのか、逐一解説したときは、みんな聞き入ってたな。

 さすがにそこまで知ってる生徒は、他にはいなかった。まあ、あの美術館千点以上の作品を展示しているから仕方がないが。

 根本的に俺は人の集団に溶け込むことが苦手で、だから一人で飯を食うのが性にあってるんだ。

 …と、いうのはタテマエで。

「今日もこれで凌ぎますか」

 手袋をしたまま鞄に手を突っ込み、コンビニで売っている安い食パンを袋ごと出した。

 いつもの昼食だ。貧乏な俺には、いかにもな食事である。

「そろそろか…」

 生徒が全員教室から出たのを確認して、ゆっくり席を立ち、教室を後にした。さすがに俺も、一人で食パンをかじっているのを見られて、憐みの視線を向けられたくはない。

 人目につかないいつもの場所へ、俺は向かう。

「さて、と……」

 とある部屋の前に立ち留まった。中をうかがい、物音がしていないことを確認して、扉を開いた。

 その部屋には、いくつものキャンバスが置かれている。キャンバスには完成したものもあったし、まだ半分しか描かれていない未完成なものもある。

 だが、どれも同じ特徴がある。それはすべて印象派のタッチの絵だということだった。強いストロークが特徴だから、すぐにわかる。

 この部屋には画材があちこちにちらばっていて、油絵の具の匂いで充満していた。

 美術室だ。俺はこの部屋で、毎日昼食をとることにしていた。

「いただきます」

 部屋の中ほどにある適当な椅子に座り、机にパンを置き、両手を合わせた。

 安いだけあってパンは相変わらず、歯ごたえが無いし味も淡泊だ。ただ毎日これで腹を満たすのにも慣れたので、味はもうどうでもよくなった節はある。

 栄養は夕飯のキャロリーメイトで補うから、アフターフォローも完璧だ。

 さすがに食パンだけでは口寂しいから、ダメ押しにコーラの炭酸で流し込んで終わり。

「ふう……ごちそうさま」

 腹がいっぱいにならなくとも、最低限に動ければいい。食事なんて所詮カロリー摂取の一手段だ。

 誤解の無いように言っておくと、食費を切り詰めなければいけないほど、奨学金が少ないわけじゃない。俺がそうしていることの理由は、主に二つある。

 一つ目は妹の治療費のため。生まれたときから大きな病を抱えている舞は、病院から出たことはない。

 彼女の病気は免疫不全症候群の一種らしく、完治することはないとすでに宣告されている。ただ症状を抑えることは出来るから、いつか普通の生活ができる日が来るかもしれないと、その希望にすがって生きている。

 ただ、ネックになるのは治療費で、少なく見積もっても数億。普通の家庭で払える額ではない。

 もちろん、食費を削ったところで、どうにかなる金額でもない。

 ただ、舞の場合はその治療費が偶然転がり込んだ。

 父、志方健十郎の遺産だった。両親が飛行機墜落事故で亡くなった後、遺産の整理のためにオークションに絵を出したところ、最高傑作と評判となり、莫大な金額が手に入ったのだ。

 その名も「桜の女性」シリーズ。桜の木を女性になぞらえて抽象的に描いたその油絵群は、見る人の心の底を見透かすような薄気味悪さすら湛えていた。

 「桜の女性」は七枚の連作であり、それぞれ女性を見る視点が違う。

 女性が座っているようにも見える絵、女性が前から手招きをしているような絵。その淡いタッチを妬みから、亡霊が描いたようだと揶揄する人もいた。

 ともあれ、あの絵で何とか舞の治療費を支払えたわけだが、今後いつ舞の症状が悪化し、治療費がさらにかかるかわからない。食費ぐらいは微々たるものだと分かっているけれど、自由に使える金は多いに越したことはないということだ。

 そして、二つ目の理由、これが一番の理由なのだが、舞の苦しさを自分でも体験する事だった。舞の症状がひどい時、食事を受け付けないことは何度もあった。

 苦しそうな呼吸の下、悪夢にうなされる舞の表情を見ていると、何もできない自分が歯がゆかった。

 舞はいろんなものを犠牲にして、一生懸命生きている。俺にはその苦しさを代わりに背負ってやる事は出来ない。だから、せめて質素な生活をすることで、苦しみを共有し、わがままな振る舞いをしないと自分で決めたのだ。

 まあ、そうでなくても貧乏は貧乏なんだけどね……。

「ん?」 

 不意に扉から音がした。時間が十二時半を回ったところだ。すぐに扉が開かれ、入ってきた男と目が合う。

「……なんだ、志方か」

 学生ではなく、スーツの似合う男性だった。特徴としては片眼鏡、モノクルを左目に掛け、左手で杖を持っている。とてもダンディーだ。

「こんにちは永輝先生」

「こんにちは、か。まあそうだな。そんな時間か」

 永輝正仁先生。聖フランスシスコ学園では芸術学、主に美術史を担当している。

 俺がここに入学する前、五年前までは専業で芸術家だった。父とは知り合いで、ライバルだったらしい。

 しかし、父が亡くなった時に彼は筆を折った。曰く、

 「芸術をする意味がなくなった、あとは若い世代に任せる」とのこと。

 当時は相当騒がれたらしい。第二世代ピカソとでも言われた芸術家の引退はそれほど衝撃的だったようだ。

 ……俺も、同じ頃絵を辞めたから、そういう意味でもなんとなく先生には親近感がある。

「久しぶりだな。絵でも描いてみたくなったのかい?」

「もう絵は辞めましたよ。今はせいぜい、似顔絵を描いて小遣い稼ぎをするくらいです。永輝先生こそ、こんな時間に珍しいですね」

「ただの気まぐれさ。それにしても、君の年で絵を辞めるのはもったいないな。九条くんが君の事をとても評価していたぞ」

「そうですか……」

 永輝先生は教室に入ってくると、コトンと杖で床を叩きながら、キャンバス一つ一つに目を落としていく。

 やがて、コトンと大きく杖の音が鳴り、永輝先生が足を止めた。

「当てて見せようか。君の絵はどれかを」

「……」

 俺は黙っていた。

 永輝先生は再び動き始め、一つのキャンバスの前に立ち留まった。そのキャンバスに目線を合わせるため、ひざを折る。こちらからでは永輝先生の背中しか見ることしかできないが、どのような目つきで見ているのか想像がつくような気がした。

 昔、父が健在だったころに、何度か永輝先生と一緒に美術館巡りをしたことがある。

 その時の先生の、美術品を見る瞳はとても印象的だった。永輝先生は、芸術作品を見るたびに目を大きく見開く。その表情はとても楽し気で、目で直接作品を堪能しているような、まるでその黒い瞳に作品を飲み込もうとしているみたいな、そんな感想を抱いた。底知れない瞳だと感じたものだった。

「これだ」

 永輝先生は振り返り、杖でそのキャンバスを指した。

「これが君の作品だろう?」

 示されたのは、鉛筆書きで、一見雑で線を交わらせただけの、色のない教室の絵。ひょっとしたらデッサンだと勘違いする人もいるかもしれない、そんな絵だった。

「ご名答、さすがです。よく俺のだってわかりましたね」

「簡単さ」

「簡単?」

「いいかね。芸術は嘘をつかないものだ」

「……というと」

「君の絵は特徴がある。昔からの癖だ。線を描く時、その力点が独特なんだ。しかもその線は無作為に見えるが、実はちゃんと目的があって意図的に描いている。違うかね?」

 永輝先生が得意げに言ってのけたのを聞き、俺は頭を掻いた。

 全く、宮崎おばさんといい、同じことを言いやがる。

 ……線の意図まで、見抜かれるなんて。

「私は芸術を信じない、芸術家を信じる」

「マルセル・デュシャンの言葉ですね」

 マルセル・デュシャン。フランス生まれ。サーリアリズム、超現実主義の代表的な美術家で、二十世紀美術に決定的な影響を残した偉大な画家。

 油彩画の制作は、一九一〇年代前半にやめてしまったものの、後の夜に、輝かしい足跡を残した。

 印象派と比べると日本人にはなじみが薄いかもしれないが、彼の作品は知ればハマる、そういう類のクセになる作品だ。

「君の芸術作品は、すでに完成されている。だから君はもっと堂々と、自分の作品そのものに、評価を求めていいんだ」

「そうですか?」

「芸術は、芸術家の心象表現の発露だ。だから芸術家も、常に無限の可能性を秘めている。むしろそういう職業は、常にこの世を驚かすことができるくらいの存在が、なるものなのさ」

「ハハハ。くすぐったいです」

「私から見たら君の作品はマルセル・デュシャンを追い越した」

「まさか…」

 嘘に決まっている。

 マルセル・デュシャン。現在芸術で大きく衝撃を与えた芸術か。

 彼が作った作品、『泉』は衝撃的な作品だった。とある小便器を使え、「R.Mutt」と記入された作品。

 芸術業界を驚かせた作品の一つだった。なぜなら、だれも小便器を芸術作品になると想像しなかった。

 そしてその印象過ぎた作品は将来でこの作品を超える事は出来ないとまで宣言された芸術家である。

 なのに、 永輝先生はこうたやすく俺の作品を超えているなんて言う。

 あり得ない話なんだ。

 立て板に水のように発せられる慣れない賛辞に苦笑いを返すと、永輝先生が目を細めた。

「これは君の父がよく言っていたことだよ。志方健十郎、かつての世界随一の芸術家の遺言だぞ」

「父さんが……」

 すんなりと言葉が耳に入ってくる。なるほど、父さんの性格ならそんなことを言いそうな気もした。

 父も超現実主義の絵に、強い影響を受けていた。ことにデュシャンはその傾向が強く、彼の再来とまで言われたこともあった。

 そういう意味では、なんだかんだ言っても、父は本当に偉大な芸術家だったのだと思う。

 ……家庭における一人の人間としては、かなり変人で偏屈な人でしかなかったけれども。



「そして、あいつが旅立ってしまった今、私が世界最高の芸術家……と言いたいところだが、君も知っているように、とうに私も絵を辞めてしまっていてね」

「なんか、もったいないです」

「私はいいんだよ。もう老人なんだから、」

「個人の感想としては、まだ老人を気取るには若すぎる気がしますが」

「言うね。君こそ、私の事より、自分自身はどうなのかね?」

「はあ……」

 永輝先生は鈍い俺の反応を見て肩をすくめ、それからため息交じりに言った。

「君はまだ若い。可能性に満ちている。それほどの才能を持ちながら、もう芸術家を諦めてしまうのは、もったいなさすぎるとは思わんかね。……もう一度、筆をとってみる気はないのかね?」

「あなたがそれを言いますか。先生は知っているでしょう。どうして俺が筆を折ったのか」

「ああ、知っている。だが、あの件は私みたいな老人が背負う業だ。君まで巻き込まれることはない」

「……」

 いい人ではあるんだが、こういう時、返す言葉に困る。

 「あの件」……それは俺と先生だけの秘密。俺はあの時、芸術家あるいは人として、やってはいけない事に手を染めた。

 だから筆を折った。俺が自分の芸術を失ったのは、ルール違反をした者が受ける当然の罰だ。

「今年の十一月末、パリ国際サロンコンクールの選考会が、東京で行われる。君も名前くらいは、知っているだろう? ここで入選すれば、パリのルーブル美術館に展示されることになり、ひとまず世界で活躍する新進気鋭の芸術家たちの注目を集めることになる」

「……」

「一度、挑戦してみないか?」

 パリ国際サロンコンクール。毎年、全世界における才能ある芸術家の発掘と支援を目的として行われる、海外の品評会だ。

 毎年世界各都市を巡回しながら選考会を行うのが特徴で、去年は中国の上海で行われ、今年は東京らしい。その参加には、世界各地の有名博物館のキュレーター、あるいはそれと同等の審美眼を持つとサロンが認めた一部の登録会員の推薦が必要で、そのハードルの高さもこの品評会の価値を高める一つの要因になっている。

 最近ではこのパリ国際サロンコンクールで評判を得れば、世界各国の富裕な美術品収集家や政治家に、パトロンになってもらったり、国家的に優遇されるチャンスを得られることさえあるという。

 心配してくれているのはわかっていいたが……永輝先生から、こんなに具体的に絵の話を切り出されたのは、今回初めてだ。

 正直、このコンクール自体は、何度か彩花から誘われている。いつも話半分にしか聞いていなかったが。

「君ならきっといい作品を作る。なんだったら、私が推薦してやってもいい」

 今はただの美術教師に収まってはいるが、この人ももともとは、世界で求められた有数の画家だ。確かに永輝先生なら、サロンに顔がきいても、不思議じゃない。

「……誘ってくれて、光栄だとは思います」

「なら……」

 先を促す先生の相槌に、一拍遅れて答えを返した。

「ですが俺は、もうずいぶん前に筆を折ったんです。今の俺には、荷が重すぎますよ」

 いつも心配してくれているのがわかっている分、目を見てできるだけ丁寧に、きっぱりと断った。目の前の優しい人の好意をまた無にしているのだと思うと、心の底がじくりと痛んだ。

「そうか。君の決心は固いな」

「すみません。俺は、最低の人間です」

「意思があることはいい事だ。だが罪悪感には流されないようにしろよ。強すぎる意思が、身を亡ぼすこともある」

「注意します」

 少しだけおどけた口調で、口角をあげてみせた。

「ハハハ。それにしても、君にこうも取り付く島もない断られ方をすると、昔を思い出すな」

「昔ですか?」

「ああ。あいつが亡くなった時のことだ。私が身寄りのない君たちを引き取ろうと申し出たとき、君は即座に断ってきたじゃないか」

「……あの時は、失礼しました。両親が亡くなったばかりで、必死だったんです」

 有名画家だった父の死後、残された子ども二人に向けられたのは、必ずしも憐憫の情だけだった。

 子どもだから、未成年だから、まだ一人では生きていけないからと色んな大人が、自分勝手な欲をちらつかせながら、無遠慮に近づいてきた。

 ただ、俺に永輝先生を近づかなかったのは、信用できなかったからじゃない。先生は父が生きていたころからの親友でもあったし、亡くなった後もいつも俺たちのことを気にかけて、ずっと面倒を見てきてくれた。

 舞が発作を起こしたときには、その手術費用を援助してもらったこともある。父の遺産で俺たちが自立するだけの資金力を得るまでは、俺と妹を引き取ろうと熱心に口説いてくれていた。

 だが、俺は断った。俺は自分の力で生きたい。そう言い続けていた。

 いまだそうあり続けようとしていることを、バカみたいに意地を張っていると自分で感じることもある。

 だがこれもある意味、俺の存在意義だ。俺の悲願だ。自分の足で自分を支え、一番大事な肉親……妹の舞も、俺の手で絶対に守って見せる。

「いいさ、どんな選択も君の人生だ。君は、君が成すべきことをすればいい」

「ありがとうございます」

「だが、私は何度でも言うよ。あの時君が起こした行動は、間違ってはいない。芸術家は人々に虚構を見せながらも、その中から現実を自覚させる存在なのだからね」

「励ましてくれているんですか?」

「いいや。単に繰り返される歴史の一端を論じたまでだ。事実を述べているだけさ」

「……そうですか」

 永輝先生も目を細めながら、こう続けた。

「空君。私は君に期待している。応募したくなったら、いつでも連絡をくれたまえ。たとえ直前だったとしても、選考会にねじこむくらいのことはできるからな」

「ありがとうございます」

 俺は微笑みながら、受け流した。

 全くお人よし過ぎるよ。教授は……。俺にはもう、そんなことをしてもらう資格なんてないのに。



キーンコーン、カーンコーン。

 下校時間を知らせるチャイムが、校内に響き渡った。

「はい。今日はここまで」

 きびきびと明日のホームルームの連絡事項を伝えると、女性教師はさっさと教室から出ていった。

 周りも一気に帰り支度を始める。今日は金曜日なので、いつもより空気が浮ついている気がする。

 週末の相談をし始める者然り。友達同士連れだって、部活に向かう者然り。

 そんなクラスメイトを、ぼんやりと座りながら見送る者然り。

 そう、俺みたいなやつだ。高氏はというと、先生を除けば誰よりも早く教室を出て行ってしまった。

 奴曰く、今日は待ち望んだゲームの発売日ということで、売り切れる前に並びたいらしい。

「さて、そろそろ行きますか」

 俺も、公園に移動することにした。そこそこ気候もいいし、いつもよりは客足が多いといいなと、淡い期待を抱く。

 よいしょ、と軽く自分に気合を入れながら、席から立ち上がる。その時だった。

「少しだけ、帰る前にお時間をいただけませんこと、志方様」

 呼ばれて振り返ると、いつもの九条彩花だった。黙っていれば凛とした美少女なのに、なぜこいつは俺にこんなにこだわるんだろう

「お前、本当にどこにでも現れるな……ストーカーか?」

「失礼ね。スカウトに来たのよ。あなた、芸術部に入りなさい」

「このやり取りも、さすがにもう飽きたな。何度も答えたけど、返事は同じノーだ」

「だからって、この私がおとなしく諦めるとでも?」

 彩花が腕を組み、仁王立ちになって、俺をこの場から放してくれない。

 ……ああ、貴重な公園のゴールデンタイムが消えていく。

「いい加減、諦めるってことを覚えろよ、お嬢様。それとも、もしかしてあれか? お前実は、友達がいないさみしい奴なのか?」

「違うわよ!」

 キイッとばかりに彩花が大声を出したので、注目を集めてしまった。あーあ、普段の清楚なお嬢様の化けの皮がはがれる日も近いな。

 仕切り直しをするように、彩花はゴホンと咳払いをして、続けた。

「私はあなたがその才能を放置しているのが、気に入らないのよ」

 彩花は挑戦的な顔で、笑いかけてきた。口角はあがっていたが、目が笑っていない。……本気だ。

「そうか。じゃあ、また明日な」

「ちょっと、待ちなさい!」

「あ、それと、俺の引出しから笛を持ち出して舐めるんじゃないぞ?」

「なんで私が、そんなことしなきゃいけないのよ!」

 ……からかい甲斐のあるやつだ。

 おっと、だいぶ時間ロスした。急がないと。

「あの! 志方君!」

 今日はやけに話しかけられるな。今度は誰だ。

 声がしたほうを見遣ると、一階の昇降口の靴箱のところに、彩花とは違ったタイプの、色白でスレンダーな女の子が立っていた。

「ああ」

 その弱弱しい声の主は、黒いショートボブをした生徒。真っ赤になりながら涙目で俺を見据え、まるですがるように前のめりに立っている。……これは、緊張しているのか?

「三島。どうしたんだ、放課後に声をかけてくるなんて、珍しいじゃないか」

「はい! 三島真理で…っす!」

 彼女は舌をかんだ。痛そうだ。彼女も一応、クラスメイトだ。

 極度の人見知りで、教室ではいつも友達の後ろに座っている。影が薄いというのが彼女の第一印象。

 最近偶然芸術基礎の授業で、席が近くなったことがあり、それ以来、時々授業の分からないところを聞いてくる。

「どうした? また授業でわからないことがあったのか?」

「……うん。この間の基礎芸術のレポート課題。どうやったらいいか、ヒントが欲しくて」

「ああ、なるほど」

 俺は手に顎を添え、思案する。

 永輝先生が出した芸術基礎の今週の課題は、芸術家と作った芸術をレポートにし提出する事。できるだけ一人の芸術家を掘り下げ、その作品の世間的な評価と自分が持った印象を比較しながら論文にすることだった。

「で、志方さんは、誰を調べることにしたの?」

「えっと。ピカソかな? 有名だから」

「あちゃー」

 天を仰ぐ俺に、三島が慌てた。

「えっ、えっ……ダメだった?」

 見事、永輝先生の術中にはまってしまったな。

 この課題の隠された目的。実はこの課題、芸術に対する知識が浅い生徒に対する、軽い補習も兼ねている。

 芸術にまだあまり親しんでいない生徒は、ついこういった時、知名度が高い芸術家を選択しがちだ。そして有名な美術家は、実はその作品の多さと複雑さも半端ではないことが多いから、結果とても時間をかけて勉強する羽目になる。

 また逆に芸術に一定の理解度を持つ場合は、もともとほどほどの作品群を持つ芸術家をピックアップしてから課題に取り掛かるため、そういった手段をとることができた生徒は、それほどの労力を要しない。

 つまりテーマ選定の後の展開までばっちり考え抜かれた、永輝先生らしい課題だ。

 さて、本題に戻ろう。

 ピカソ。本名はパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ。

 さすがにここまで長すぎると、誰もフルネームで呼ぼうとはせず、実際彼自身もパブロ・ピカソと名乗っていた。

 ここまで名前が長いのには、もちろん理由がある。当時のスペインの流行で、親の名前を順番に並んでつけるのがあった。その影響だ。

 まあ、それは余談にしろ、ピカソを選ぶのが最悪な理由は他にある。

「ちなみに聞くけど、ピカソの作品はどれぐらい知っているの?」

「あんまり知らない。見たことあるのは、名前は知らないけど、四角ぽい絵?」

「……」

 四角ぽい絵、キュビズムの絵か? おそらくピカソが終盤に描いた作品のどれか。

 ただピカソはキュビズムの絵だけではなく、印象派の絵やシュールレアリスムも描いている。ピカソが有名なのは絵から受ける印象の強さだけではなく、その制作した絵画の枚数も桁外れだった。

 例えば14歳で世の中を轟かせた。「初聖体拝領」。これはまだ全くキュビズムやシュールレアリスムの要素を取り入れる前の、印象派の絵。姉・ローラの初聖体拝領の様子を描いたものであった。

 この作品でピカソは才能を見出されたとされ、現在この絵はピカソ美術館に飾られている。

 もちろんキュビズムの絵も数多く描いている。「庭の中の小さな家」や「ヴェールの踊り」それ以外にもある。しかもキュビズムの絵だけでも、年によってその傾向が違っているときている。

 というわけで、ピカソを論文のテーマにするには、基礎知識と調べることが多すぎる。正直、初心者には難易度が高すぎる相手と言わざるを得ない。

 しかもピカソの絵は、その当時の彼の生活と密接にかかわっているから、その時代の風俗や詳細なヨーロッパ史も調べなければならない。一生芸術に身をささげた美術家の、語る作品世界の情報量は膨大だ。

「ひょっとして、……やめておいたほうが、よかった?」

「いいや。そんなことはないけど、ピカソをレポートにするなら、どのピカソの絵について論じるか、テーマを絞りこまなきゃ行けないよ」

「絞る?」

「例えばさっき三島が言った四角い絵。実はこういった絵をピカソはたくさん書いてて、これだけで十分一生研究できるくらいのテーマになりうるんだ。だからどうせなら、一枚に絞って、それについて集中的に論じたほうがまとまりやすいと思う」

「あ! それなら気に入っている絵があるの。三人の絵で楽器をしているような」

「有名だね。三人の音楽家」

 ピカソのキュビズム時代の傑作である「三人の音楽家」。道化師、ピエロ、修道士が演奏している姿を描いたものであり、それはピカソ自身、友人のギヨームとマックスがモデルだと言われている。

「すごい。よくわかったね」

「昔、誰かさんに、無理矢理覚えさせられたおかげ。別にこれくらい、すごくないよ」

「そんなことない! それにしても志方君、愛されているんだね……その誰かさんに」

「どうしてそう思う?」

「だってその人、あなたに芸術の美しさを教えようとしたのでしょう」

 うーん、この子と話していると、どうも調子が狂うな。

 天然手ごわい。そもそも芸術基礎を選択した理由が、ただ趣味で絵を描くのが好きだからと言ってのけた時、その素朴な理由に羨ましくさえなった。そうだよな、学生はかくあるべき、だよな。

 ……特に、俺みたいな汚れちまった罪人には、時々まぶしい。

「そんなことより「三人の音楽家」だろ」

「あっ……そそ、そ、そうでしたっ」

「この三人が道化師、ピエロ、修道士であることは知ってた?」

「いいえ」

 ふるふると首を振る三島に、俺は苦笑した。

「この三人には実際のモデルがいる。その辺りのネタを軸に、当時のピカソの環境を調べていったら、いい感じに課題は達成できると思うよ」

「さすがだなあ、志方君。芸術系にはやっぱり詳しい。助かっちゃった」

「どういたしまして」

 ひと段落して、ほっとして一息つく。こういうアドバイスはなかなか教えすぎてもいけないし、突き放すわけにもいかない。ちょうどいい塩梅が一番難しいんだ。

 親父が生きていたころなら、なんて言ったかな……。

「あ、そうだ。志方君は課題、誰にしたの?」

「知りたい?」

 俺は鞄から一つの写真を出し、三島に見せた。

「この写真見て、どう思う?」

「どうって……人が料理しているようにしか、見えないけど?」

 そう、人が料理をしている写真。眼鏡を掛けている男性が、何かの麺類を炒めている情景だ。

「じゃあ、次の質問。彼は何を作っていると思う?」

「焼きそば? うーん、なんか違うみたい。これはソースを使ってないし、麺もパスタみたい……」

「惜しい。実はこれタイ料理のパッタイを作っているんだ」

「パッタイ? あのタイ料理の?」

「うん。この写真はニューヨークのポーラ・アレン・ギャラリーにあるんだけど、眼鏡の彼が、パッタイを自ら調理して客に振るまっているだけの写真だよ」

 俺の言葉を聞いて、三島はきょとんとした顔をした。

「……そんなんで、芸術になるの?」

「うん、そう。関係性の美学っていうらしい。パレ・ド・トーキョー現代美術館館長のニコラ・ブリオがそう言ったんだけどね」

「あの志方君。それで、ここに写っている芸術家は誰なの?」

「タイ王国からの芸術家、リクリット・ティーラワニット」

「リクリット・ティ……いたっ」

 また舌をかんだらしい。

「東南アジアの名前だから、慣れないと発音が難しいかも。だから日本では略してティラワニ、ティーラワニって彼のことを呼ぶ人も多いよ」

 リクリット・ティーラワニット。アルゼンチンブエノスアイレス生まれのタイ王国現代アート芸術家。ニューヨーク、ベルリン、バンコクなどを拠点にしている。

 苦笑しながら補足した俺に、三島は感嘆したような視線を投げかけてきた。

「へえ。そういう芸術もあるんだ。なんか志方君って、現代美術にも通じてて凄いね」

「身内が好きだったから」

 リクリット・ティーラワニットはもともと知っていたけれど、パレ・ド・ドーキョーは現代美術が好きな親父に、パリに渡航したときに一回だけ連れて行ってもらった。

 確かに今思えば、俺は優れた現代美術に触れる機会が、人よりは多かったかもしれない。

 もっとも俺のパレ・ド・トーキョーの記憶は、幼すぎて、まだ慣れない外国で落ち着かなかったことしか覚えていないけれども。

「ねえ志方君。あの今度……あっ」

「ん?」

 いきなり三島の顔がこわばった。視線をたどると、それは俺の背後に向けられている。

「あら、仲がよろしくて大変結構なことですけれど、もうお話は終わったのかしら」

「あ……」

 ひんやりとした声。絶対零度の眼光が背中に向けられているのを、痛いほど痛いほど感じる。

 おそるおそる振り返ると、そこにいたのは憤怒の表情をした女魔人。揺れる赤い髪はまるで炎のようで、俺は思った。……鬼だ。

「私のことはお気になさらず、続けて頂いて構わないんですよ。ねえ、志方様?」

「その妙に情念がこもった言い方が、怖いんだよ」

「いえいえ、私の誘いは無下に断った挙句、逃げておきながら、まさかこんなところでナンパにいそしんでるとは、ちっとも思いませんでしたもの」

「ち、違うよ、誤解してる。彩花ちゃん」

「え?」

 意外な三島のリアクションに、今度は俺が驚かされる番だった。

「お前ら、知り合いだったのか」

「ごめんね。私がちょっと目を離したすきに、志方が迷惑かけて。首根っこ捕まえておくから、真理ちゃんはもう行っていいよ」

「いや、彩花ちゃん。違う……」

「というより、勝手に話を進めんな」

 しかし、もともと彩花は人の話を聞く女じゃない。

「あ、そういえば、私。彩花ちゃんにお礼を言わないと」

 不意に、水島がぽんと手をたたいた。

「そういえば、この間教えてもらったカフェ、日曜日に行ってみたの。すっごく美味しかった」

「うんうん、そうでしょ! あそこ、すごいオススメなの」

 するとつられたように、彩花も満面の笑みになった。お前、さっきまですんげえ顔してたくせに。

 本当に表情がころころ変わる奴だ……。

「そうだ、今度よかったら、真理ちゃん一緒に行かない? 実はあそこ、ジェラートもすごく美味しいんだよ。あそこのマスターの手作りでね、とっても濃厚なのっ」

「うん。いいねいいね!」

 しめた。話がそれた。

 お嬢様の彩花と影の薄い三島。珍しい取り合わせだが、これはチャンスだ。

 そっと二人の表情をうかがうと、デザート談議に夢中になっていて、こちらを見ていない。

 ……よし。

 一歩足を引く。このままそっと、フェイドアウトしよう。

「そういえば、真理ちゃんは、志方と何の話をしてたの?」

「えっと、芸術基礎の課題でわからないことがあって」

「志方に? こんなぶっきらぼうで無愛想な男に、なんでまた」

「ううん、志方君は優しいよ。美術の知識は豊富だし、美術初心者の私にも丁寧に教えてくれる。すっごく、いい人だよ」

「ふうん、私の時とは、ずいぶんと態度が違いますこと」

 あ、見つかった。彩花と目が合う。

「それは、三島は丁寧にお願いしてくるからな。彩花みたいに、いつも不躾じゃない」

 一瞬、ぐっと彩花が傷ついたような眼をした。心が痛んだが、否定はしない。

 じゃれあいくらいなら応じるが、最近の彩花は、俺の踏み込んでほしくない境界線に、平気で踏み込んで来ようとする。

 ……辟易しているのは、事実なんだ。

「ごめんね、二人とも。あの、さっきのは、私が強引に、志方君を引き留めたの。どこかへ急いでるみたいな感じだったんだけど、私も課題に行き詰ってて、必死だったから」

「真理ちゃん……」

「さっきも言ったでしょ。志方君、優しいから、私がとても困っている様子を見て、放っておけなかったんだと思うの」

 ぎゅっと握りこぶしを胸のところで握りしめて、水島がたどたどしく訴える。

「それに、もともと志方君、芸術についてここまで詳しくなるくらい想いを持ってる人だから、余計に芸術をよく知らない私に、こんなとこでつまづいてほしくなかったのかもしれない。……少なくとも、彩花ちゃんが思っていたようなことはないよ。本当だよ」

 最後は消え入りそうな声になりながらうつむく三島に、彩花はああもう、とうめいた。

「わかった! わかったから! ……ごめん! 真理ちゃん、私が悪かったから、顔を上げて」

 彩花が本気で困っている。傍若無人で、周りの空気なんて読まない彩花のくせに、珍しい……。

「変なこと言ってごめんね。さすがの志方も、真理ちゃんには変なことしようったって、できないよね。だって真理ちゃんは、こんなにピュアなのに」

 いや、三島をフォローしながらも、さりげなく俺をディスるのはやめろ。

「あー、じゃあ、俺はもう行くぜ」

「待って、志方」

「まだ何かあるのか?」

 不機嫌な表情を隠そうともせず、踵を返そうとする俺を、彩花が呼び止めた。穏やかな、そして少しだけ辛そうな表情で、彼女が俺を見据えている。

「さっきの。私が誘ってるの、迷惑だったのなら、……ごめんなさい」

「……おう」

「でも、私は諦めたくないの。あなたの絵が好きだから。いつかまた、あなたの新作が見たいの」

「何度も言ってる。画家だった俺は、もういないんだよ」

 俺の作品を好きだと言ってくれる彩花の言葉は嬉しい。だけど、俺にも譲れないものはある。

 答えず、振り切るように、俺はその場を後にした。

 同じやりとり。同じ会話。

 いつも俺と彩花の会話はこうして終わる。

「ほんと、こんなやつ、もう放っておけばいいのにさ」

 彩花や三島の視界には届かないほど離れてから、そっとつぶやいた。

 あいつは買い被り過ぎだ。俺が絵を描いていたのは、もう昔の話なんだ。

 そして時間は、二度と戻ることはない。



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