第一章 妹というもの。
「さむ!」
寒風にさらされ、思わず黒い手袋のまま、自分の体を思い切り抱きしめる。滑稽なのは承知しているが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
十月に入ってから、急激に気温が下がった。一週間前までは熱くて汗だくだったのに、今日はもう鳥肌しか立たない。当然汗は一滴も流れない。
「なんで舞に会いに行く今日に限って、こんなに寒いんだ」
一人ぶつぶつ言いながら、足早に目的地へと急ぐ。
実際、これ以上もたもたしていたら凍え死ぬと思った。
そもそも貧乏な空にとって、寒さは天敵だ。なぜなら寒さは人の体力を奪う。いつもより洋服が必要になって、電気代やストーブ代で金がかかる。
金がなくなれば……いろんなものを手放さなくてはならなくなる。
中でも空が最も手放したくないのが、この黒い手袋だ。これは自分に取って大切な物だ。
だから志方空は、冬と言う季節は苦手だ。
だが今年、気象庁は十月に早くも「冬入り」を宣言した。秋がなくなった異常気象は、ニュースによると、核が原因らしい。
そういえば、隣国が一発、核実験していた。……そんなことで環境変動が起きるのか?
ぼんやりと思う。核と言われても、どうにもピンとこない。
「やっと着いた……」
5分弱、ようやく目的地に着く。
広い場所に、白くて大きな建物が何棟も建っている。ここは病院だ。
毎週の水曜日の放課後、俺はここに足を運ぶ。別に俺が病気を抱えているじゃない。
会わなければいけない人物が、ここにいるからだ。
病院のエントランスを抜け、慣れた足取りでに階段を上る。エレベーターも近くにあるが、ほとんど使わない。単純に俺がエレベーターを使うのを、あまり好きではないからだ。
四階の端。「4055」の数字がプレートに描かれた病室。
ここには―――
「舞、いるか? お兄ちゃんだ。入るぞ?」
――大事な妹が入院しているからだ。
あまりしつこく呼びかけて、寝ているところを起こしてもいけない。返事も待たず、扉を開く。可愛い……俺の、大事な妹。
「え?」
「きゃ……」
扉を開けた瞬間に、小動物みたいな声が漏れだす。
俺の視線の先には、妖精がいた。小柄で、青い瞳に白髪。肩の白雪のような肌に、目が奪われる。
ていうか、上半身裸だ。かろうじて胸だけが髪に隠され、見えそうで見えない。右手にパジャマを持っているところを見ると、どうやら着替え中だったらしい。
「あ……すまん……」
「バカあああああ!」
思わず閉めたドアの向こうから、妖精の可愛い怒鳴り声が聞こえてくる。
まあ相手が妹で、よかった。ほかの女性だったら、これだけじゃすまないだろうし。
うん。たしか、高氏が言っていたな。こういうシチュエーションはラッキースケベだって。
「もう! お兄ちゃんたら! 部屋に入る前にノックしてって言ったでしょう?」
「すまん。すまん。寒さで頭が回らなくて」
黒い手袋のまま両手を合わせ、ベットの上から睨みつけてくる舞に必死に謝る。
数分後再びドアを開けてみると、舞はこれ以上はないほど顔を真っ赤にして、膨れていた。とはいえ童顔だからか、怒っていてもどこかあどけない。
それにしても俺と舞は二歳しか違わないのに、どうして舞はこんなすぐに折れそうな妖精みたいな身体つきをしてるんだろう。
「わかればよろしい」
結局舞が折れ、苦笑いしながら許してくれた。
「あ、そうだ。お詫びってわけじゃないが、お土産があるんだった」
「え?」
勿体ぶりながら手を鞄に入れ、がさごそと探し始める
「これだ」
取り出したのは、パステルカラーでデザインされた表紙の、舞が好きな少女漫画雑誌だ。
「今週号。楽しみにしてただろ?」
毎週水曜日発売のこの雑誌を、毎週ここに来る前に買ってきていた。
「ありがとう。お兄ちゃん」
舞は、ピンク色の唇をゆっくりと動かした。
花が咲くような笑顔。妖精が、無邪気に喜んでいる。それはまるで、雨あがりの空に虹がかかったのを見たように、こちらまで嬉しくなる光景だ。
「どういたしまして」
妖精の微笑みに恭しく答え、そっと彼女の手を取る。
―――その手はもろく、今にも壊れそうに細い。
―――その微笑みは無邪気で無垢なままで。
―――妖精は、いまだこの鳥籠の外を知らない。
俺はこの妖精を守らなければいけない。
これは父と母から託された任務でもあり、兄としての義務でもある。
舞は俺のたった一人の家族だ。だから、俺はこの妖精を守らなければいけない。
三年前に亡くなった父と母のためにも。
自分の存在意義をかけて、最後まで。
「いつも似顔絵を描いてくれてありがとうねえ」
「いやいや。こちらこそ。いつも俺を指名してくれてありがとう」
宮崎のおばさんは、微笑みながら俺が描いた似顔絵を満足げに見つめている。
俺はその宮崎のおばさんを横目に見ながら、鉛筆とスケッチブックを手早く鞄に仕舞った。
宮崎のおばさん。毎日夕方ごろに公園へ来て、似顔絵を描かせてくれる年配の女性。白髪を後ろに丸め、分厚いメガネを掛け、白いコートを着ている。そして俺の常連客であった。
もともとこの駅前の公園は似顔絵商売が盛んだ。まだあまり売れていない芸術家、画家がここに集まり似顔絵を描いて、生活費の足しにしている。
俺もそういった集団の一人ではあるが、画家ですらない分、もっと立場は中途半端だ。一応アウトローな学生で通している。アウトローな学生ってのも、我ながら良くわかんない立ち位置だが。
俺の似顔絵は、基本的には色は塗らないモノクロの鉛筆書きだ。無理をしない分、多くは望まない。まあ一日一人描ければ、いいと思っている。
「あなたの絵は、いつ見ても素晴らしいわね」
「褒めすぎですよ。宮崎のおばさん。俺にそんな才能があったら、こんな貧乏な高校生してませんて」
「そんなことはないわ。あなたの絵はとても素晴らしい」
「……あの、芝木さんの方が、俺よりずっとうまいですよ」
慣れない言葉に居心地が悪くなり、つい目線を右の方に移す。自分たちから数十メートル離れた場所に、中折れ帽を被った優男が、目の前の客の男性の似顔絵を描いている。人気が高いらしく、気が付くといつも行列が出来ていた。
芝木さん。下の名前は知らないが、公園にたむろしている画家たちは、みんな芝木さんと呼んでいる。とある有名芸大の美術の学生らしい。
芝木さんの作風は顔の特徴をよくつかんだ、デフォルメ。カラフルな水彩絵の具で色を塗り、大きな顔に小さな身体で描くコミカルな作風だった。その親しみやすさとわかりやすさが口コミで評判になったと聞く。
「確かに、芝木さんの絵も面白いわ」
宮崎のおばさんは俺に同意するように頷きながら、優しい声で答える。
「でもね、面白くて目を引くけれど、あなたのように素晴らしい絵ではないのよ」
「それはどういう意味です? 宮崎のおばさん」
「私に取って、あなたの絵は力の源泉そのもの。鉛筆一本一本の線からも生命力を感じる。さらにその線が合わさると……まるで私の似顔絵を通して、別の作品に生まれ変わるようだわ」
「……」
さて、ここはどう返すべきなんだろうか。
笑って受け流すべきか、それとも素直に礼をべきか悩ましい。
それに、俺自身も多少は自覚はあった。似顔絵に没頭する自分は、一本一本の線を集中して描いた。
……でも
「大袈裟ですよ、宮崎のおばさん。おばさんは俺の絵を気にいってくれてるから、多少ひいき目に見えちゃってるんです」
わかっている。……俺には才能がない。宮崎のおばさんの優しい励ましに、調子に乗ったりできたらどんなによかったか。
片時も、忘れたことはない。自分が描く絵は凡作だ。本物の芸術ではない。
―――落書きだ。
「……ええ。志方空。あなたは天才芸術家。だからあなたが描いた絵は、全て芸術よ」
内心で渦巻くどす黒い感情に飲み込まれそうになったその瞬間、後方からよく通る女性の声がした。
振り向くと、赤い髪をなびかせて美しい少女がこちらに歩み寄ってくるところだった。彼女は俺と同じ学校の制服を身に纏い、凛とした姿で自分の真横に立った。
「お前は……」
その少女の名前は……
「白河ことりだっけ」
「違うわよ! 髪の特徴だけしか、同じじゃない! っていうかあなたなんで知っているのよ!」
あーそういえば、その名前は高氏から借りたゲームの登場人物だった。赤い髪が特徴的だから、うっかり混乱して間違えたんだ。うんうん。
もちろん、彼女の本当の名前はわかっている。ていうか、いつもしつこく付きまとってくる人間の名前を忘れられる訳がない。
「あら、珍しいわね。九条ちゃんがここに来るなんて」
「お久しぶりです、宮崎のおば様。実はここ、私のお気に入りなんですよ」
少女が満面の笑みで返す。
「まあまあ」
九条彩花、世界有数の企業グループ、九条財閥の娘。第二次世界大戦後の復興景気の波に乗り、資材を蓄えた後、満を持して金融業界も進出。現代ではIT関連のトップ企業としてその名を知らない人はまずいない。そういえば九条彩花は、そんなお偉いご令嬢様でした。
それにしても、宮崎のおばさんと知り合いだったとは。これはある意味想定外だ。うすうす宮崎おばさんからは物腰の上品さは感じ取っていたが、九条とここまで親しく話せるとは、この人もただものじゃない。
世間って狭いな……。
「じゃあ。俺はこの辺で」
笑顔をキープし、ゆっくりと後方へ一歩。
逃げるチャンスはここだ。さっさとここから撤退するべきだ。だって、この女は九条は……
「待ちなさい。あなたにも話があるわ」
「あちゃー……」
「いつになったら絵画コンクールに出すの?」
九条は顔を合わせればいつも、この話題を吹っ掛けてくる。
もともと九条自身、かなり美術に精通していて、自分でも絵を描く。
その手腕たるや有名で、高校生ながら日展には三度出品。非凡な才能の持ち主として、その知名度は海外にまで知れ渡っている。
聞くところによると、パリ国際サロンコンクールで賞を取るか取らないか争うぐらいな実力を持っている。そんな彼女がなんで俺なんかに構うんだろうか……。
苦虫を噛んだ表情を作り、チェ、と舌打ちをしながら九条に顔を向ける。
予想通り、彼女は赤鬼のように腕を組んで、仁王立ちになっていた。
「似顔絵を描く余裕はあるけど、絵画を描く余裕はないってわけ?」
「ああ。俺は金が要る」
「一枚千円って、たいして稼げもしないくせに」
「そうでもない。案外いけているぞ?」
ピリピリと二人の間に火花が立った。
俺は、この口うるさい彩花が苦手だ。まったく価値観が合わず、いつも顔を合わせると口論になる。彩花は彩花で、俺がなぜ似顔絵を描いているのか理解できないらしい。お互いの溝は深い。
「あなた、奨学金もらってるのでしょう? 学園生活を送るのには十分な額をもらっておいて、なんでそんなにお金が要るのよ」
「学園生活を送るだけなら、問題ないけどな……」
ため息交じりに返事をすると、彩花がきょとんとした顔をした。どうやら、本当に俺の事情を何も知らないらしい。
舞が入院していること。俺が大切にしている妹が、大きな病を抱えていること。
だが、その事を伝えるつもりはない。彩花には全く関係ない話だ。
変に同情なんてされたくもないし、第一こちらにだって、プライドというものがあるのだ。
「俺は怠け者だからね。キャンパスの前で、じめじめ鬱々、努力するのは嫌いなんだよ」
「あんたねえ!」
肩をすくめてみせると、キイキイと彩花は悔しそうに反発する。睨む双眸は、完全に怒り一色だった。
……まったく、綺麗な顔が台無しだ。いつもは可憐なお嬢様なのに、なぜか俺に対してはいつも怒っている
「あらあら。二人は仲がよろしいねえ」
ずっと見守っていた宮崎のおばさんが、優しく声を掛けてきた。
「わかりました? 実は僕と彩花、つきあってるんですよ」
「違います! って、宮崎のおば様……なっ!?」
俺の冗談に、彩花は声を詰まらせた。
赤い面は変わっていないが、明らかに怒りとは違う困惑の表情が広がっていく。目が合うと、一瞬瞳を開いて、顔をそむけた。ははん、これは照れているな。
にやついていると、雷が落ちた。
「あ……あ……あ、あんたねえ! マナーとか常識とかないの!? バッカじゃないの!」
怒られた。
「へいへい私が悪うござんした。すんまへん」
少しやり過ぎたか。まあ、これで話題を逸らせたし、結果オーライだ。
そんな俺たちを見て、宮崎のおばさんは「あらあら。本当に仲がよろしいわ」と、嬉しそうに見ている。
あれ……ちょっと待てよ。この流れ、冗談でしたってバラすタイミングを外してないか。
まさか本当に付き合っていると思ってたりして……ありえる。あれは、目が結構本気で信じている眼だ。
こいつとくっついたなんて、公園のあちこちで噂にされたら本当にしゃれにならないぞ。
ああ、今更後悔して来た。もっとよく考えて行動すればよかった。
……全く、俺の大馬鹿やろう。
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