第三章 桜狂詩曲(ラブソディ)
「舞、気分は悪くないか?」
「もう。お兄ちゃんたら、子ども扱いしないで」
「そういうわけでもないんだけどな」
軽口をたたく俺に、舞はぷくりと頬を膨らませる。
「じゃあ、どういうつもりなのよ」
「そりゃあ、お兄ちゃんは舞をレディとして扱ってだな」
「こういう時のお兄ちゃんの言うことって、いつもどこかどこか嘘くさいのよね」
「……ひどいな」
和やかに会話を続けながらも、周囲に注意は怠らない。できるだけ負担をかけないように、細心の注意を払って舞の車いすを押す。
ここは、舞が入院している医療センターから三時間ほど離れた、六本木にある国立の美術館だ。
毎週土曜にここに来るのが俺の日課だが、今日はたっての願いで舞も連れてきた。舞はこの日を楽しみにしていたようで、桜を思わせる淡いピンクのワンピースを着ていた。可愛くて、とてもよく似合っている。
パリのルーヴル美術館とも親交が深いこの美術館は、日本の美術界における最先端の一角でもあり、今年のパリ国際サロンコンクールもここで行われる。
常設展示をゆっくりと廻っていると、不意に舞がある一角を指さした。
「あ。お兄ちゃん! あの絵」
「ああ………よく気づいたな」
指先が示したのは、階段をはさんで向こうのフロアから垣間見えた「桜の女性」シリーズ、七枚目の油絵。
女性の姿に見える桜の絵は、まるで幽霊か精霊のようだと評する人もいる。
七枚目の絵の中でも特に不思議な印象を受ける、俺の父、志方健十郎傑作と称される一枚だった。
ちょうど人の目線の高さの位置にガラス越しに展示されていたその絵は、二年もの間、ずっとこうして飾られていたのだ。
今日は、ちょうど先週まで行われていたヨーロッパの印象派絵画の大規模な企画展が終わったばかりということもあり、人の姿はまばらだった。
「ん?」
入口すぐそばにある常設展示室から別の常設展示室への移動中、入口のイベントスペースも兼ねたロビーから、歓声があがるのが聞こえた。
ついその声の方向を見遣ると、そこでは何かの受賞作品のお披露目をしているようだった。
そして、同時にある人の顔が目に飛び込んできて、ぎくりとする。
白い布をかけられた二十号はあろうかという大きな作品の横に、艶やかな姿で立っていたのは、とても見知った少女だった。
「……彩花」
肩を出した黒いドレスを身にまとい、堂々と振る舞う姿は、とても光輝いて見えた。
この式典がなんの賞かは知らないが、彼女を認めたのは見る目があると、素直に思った。彼女は俺とは違って、成長し歴史に名を残す可能性さえある、
ただ、ほんの少し、人を見る目が無いだけで。
「お兄ちゃん!」
舞の声で、ハッと我に返った。
「……知り合い?」
「いや、そういうわけじゃ。たまたまぼーっとしてただけだよ」
ごまかそうとする俺に、舞はぴっと人差し指を突き立てた。
「へえ。そうなんだー。だったらすっごい失礼だよ、お兄ちゃん」
「手厳しいな」
「だって、お兄ちゃんがエスコートしてるのは、レディなんだからね」
すべてお見通しなんだから、白状しなさいとばかりに胸を張る舞に、俺は立つ瀬がなくて、頭をかくしかなかった。
さて、どうしたもんか……。
思案していると、壇上でスピーチが始まった。
『皆様。今日はお忙しいところ、お集り頂き感謝しています。私は、九条彩花と申します。若輩者ではありますが、今回はこのような過分な賞をいただき、身が引き締まる思いです』
ワッと一斉に拍手の音が鳴り響く。俺も舞も、吸い寄せられるようにその光景を見ていた。
ぼそりと舞がつぶやいた。
「あの人、どこかで見たことがあると思ったら、九条財閥の?」
「よく気づいたな。そうだ。しかも偶然にも俺のクラスメイトだ」
「絵も描くんだ、あの人。あそこにいるってことは、あの人も画家ってことだよね」
「ああ」
舞も、ほとんど出ないとはいえ、社交界を知らないわけではないから、顔くらいは知っていたか。
上の空の様に確認する舞に、俺もほとんど語ることはしなかった。
『では、発表いたします』
司会の声をきっかけに、白い布が降ろされ、キャンバスの絵がついに披露される。
……そこに現れたのは。
―ひまわりだ。軽やかな、明るい色彩に満ちた、一面のひまわりの花。
神々しいまでに眩しい、油彩の輝きだった。
俺は思わず息をのんだ。目から飛び込んできたあの絵が、まるで鋭利な刃物のごとく、自分の心に突き刺さったのが分かった。
「お兄ちゃん?」
微動だにしない俺に、舞が心配そうに声をかけてきた。
「あ、ああ……」
「大丈夫?」
「ごめんな、心配かけて。実はお兄ちゃん、昨日ゲームのやりすぎで、寝不足なんだ」
冗談めかして平然を装いながらも、自分の鼓動が早鐘を打っていたのを自覚していた。
九条彩花は天才ではない。努力の人だ。
永輝先生も、彩花には抜きんでた才能はないが、ひたむきさがある。それは彼女の宝だと言っていた。
いつもじゃれついてきて、うっとおしいと邪険に扱い続けてきた彼女は、陰で努力を続け、もうこんな高みに上り詰めていたのだ。
塗り方、タッチ、構成。どれをとっても、プロとして申し分ない技量だ。受賞作となったのも頷ける。
ただ、俺はなぜかあの絵に物足りなさを感じていた。
……いったい、何がたりない?
『この絵のタイトルは「ひまわり」です。皆様はこの名前を聞いてゴッホのあの絵を思い浮かべると思います。正直なところ言いますと、確かに私もこの絵を描く過程で、あの狂気と熱を意識はしていなかったかというと、嘘になります』
彩花自身による解説が始まった。
『しかし、皆さまはご存知でしょうか。ひまわりの花言葉には、愛慕、崇拝という意味もあるのです。太陽神の象徴として崇拝され続けたこの花のことを想う時、私は一人の芸術家を思い出します。
桜の芸術家。ここに展示されている『桜の女性』を描いた志方健十郎です。私はあの方の芸術を、崇拝しているといっても、過言ではありません。あの偉大な画家に憧れ、彼がキャンパスに描き出してきたものを、私も表現したいと思いながら、今回の作品を書き上げました』
ああ、そうか。なるほど。だからか。物足りないと思ったのは。
それを聞いて、途端に興がそがれた気がして、再び頭をかいた。
『芸術とは自然を模倣することでもあり、自然もまた芸術を模倣します。私は美には神様が宿っていると信じています。そしていつか私もその神がもたらす美を描し、いつか私の芸術として昇華させたいと思っています』
俺は俯きながら、それを聞いていた。
美の神様、俺にはもう見えなくなってしまった神様。
所詮俺は、美の神様からは見放され、美の世界から追放された身だ。
『なお、今回の受賞作「ひまわり」は今年のパリ国際サロンコンクールの出品の、選考対象となります』
再び司会者にマイクが戻り、その宣言とともに、カメラのフラッシュの洪水が彼女を包んだ。まるで歴史的な才能が出現した瞬間に立ち会ったかのように、周囲の観客は熱狂で包まれていた。
「行こうか舞」
しかし、俺はその場を離れようと、車いすの固定具を外した。
「近くで見なくていいの? あのひまわりの絵?」
少しだけ残念そうに、舞が俺を見上げてくる。
「今は人が多すぎる。焦らなくても、どうせまたゆっくり見られるチャンスはあるから、その時にな」
「……わかった」
ロビーに背を向け、俺たちはそこから離れた。
俺はそっと唇をかみしめた。うっかり興味本位で、立ち止まるんじゃなかった。心にあいつの「ひまわり」が焼き付いたことは、絶対に秘密にしなければならない。
彩花にも……もちろん、舞にも。彩花は、本来俺たちには関わりのない世界に生きてる人間なんだ。
今回の目当ての「桜の女性」にたどり着いたとき、もうほとんどその展示スペースには人はおらず、ただ一人だけ老齢の男性が、佇んでいただけだった。
そういえばすれ違う人がやたら多かったから、評判を聞き、入口ロビーへ「ひまわり」を見に行った人も多かったのかもしれない。
「わあ……綺麗」
「あんまりはしゃぐなよ。初めて見たわけでも無いんだろ、自分の父親の絵なんだから」
「でも滅多には見られないもの。それに私、やっぱりこの絵が好き」
目を輝かせて、舞はその「桜の女性」の絵に魅入っていた。
「興奮しすぎて、車いすから落ちるなよ」
「落ちませんっ! もう! お兄ちゃんはまったくレディの扱いを心得ていないんだから」
「はいはい」
妖精は怒っていても可愛らしい。だが、再び絵に没頭する舞の横顔を見ながらそっと思う。
……でも、舞は笑顔が一番だ。
俺はずっと、この笑顔を守りたい。守るためだったら、なんだってする。
「お嬢さん。この絵が好きかね?」
ふと俺たちと並んで鑑賞していたおじさんが、声を掛けてきた。
ずいぶんと馴れ馴れしいおっさんだなとムッとしたが、舞は迷うことなく、にこやかに肯定した。
「はい! 素晴らしい絵だと思います! 桜の中に切なさや深淵があって、心躍る絵だと思っています」
「ハハハ。これはすごい。お嬢さんは見る目があるな」
嬉しそうに男性は相好を崩し、それから俺のほうを見た。
「兄さんの方はどうかね? 君はこの絵を見て、どう感じる?」
「俺ですか? まあ、俺はこういったことには不案内なので、綺麗な絵だな、と思っただけですね」
「またまた謙遜を。まったくそれだけしか、感じなかったわけでもあるまい」
「本当ですよ。俺、こんな絵のどこがいいのか、全然わかんないんです。ただの付き添いなんで」
まごうことなき、本音だ。むしろこの絵のことを誰よりも知っているだけに、価値は思い知っている。
つまりこの絵は綺麗なだけの……ただの駄作だ。
「君は、嘘が下手だってよく言われないかい?」
「嘘?」
「なんとも思わない絵を見に、何度も通ったりはしないだろう?」
わざと煽るような言い方にカチンときた。
「ずいぶんと初対面の相手に、知った風なことを言うんですね。何が言いたいんですか」
「気を悪くしたのなら、申し訳ない。ただ君がとても慣れた足取りでこの絵に向かってきたから、なぜ知らないふりをするのか、と、少々気になってしまっただけだ」
何食わぬ顔で言ってのける男に、俺はふうっと小さく息を吐いた。
舞と一緒にいるのに、相手のペースに乗せられてどうする。
「ところで、おじさんは「ひまわり」を見に行かないんですか?」
「この年に、あの人込みはこたえるよ」
できればもう行ってほしいと遠回しに行ったのだが、シャーロックハットを被ったおじさんはそのニュアンスに気付いてないのか、あるいは無視したのか、天井からつりさげられた液晶テレビを指しながらこう言った。
「わしは、テレビ越しで十分だ」
テレビにはひまわりと、それを見に詰めかける観客の混雑が映し出されていた。
「ずいぶんと欲がないんですね。美術にはかなり詳しそうなのに。それとも「ひまわり」はあまり、おじさんのお気に召さなかったんですか」
張り合ったつもりはなかったが、さっきの意趣返しの気持ちもあって、多少皮肉が混じってしまった。
「そんなことはない。あれは丁寧に描かれた、とても良い作品だ。筆遣い一つとっても、努力の跡が垣間見える。良さは十分伝わってくる」
ならどうして、実物を見に行かないの? と舞は、そう質問をしたそうな顔をして、俺を見あげた。
「じゃあ、どうして見に行かないのか? と言う顔をしているね。お嬢ちゃん。あれはいい絵だが、それだけだ。あの絵はわしの心には何も生まないんだ。だから、近くで見ようが、テレビ越しに見ようが、大差はない」
「生まない?」
「心に響かない、と言ったほうがわかりやすいか」
彼はそう告げると、まるで崇拝するような目で、「桜の女性」を見上げた。
「君は知っているかね。この絵を描いた、志方健十郎という画家を」
「いいえ」
とりあえず、俺はしらを切ることに決めた。
「この絵は、彼の死後、他の絵と一緒に発見されたらしい。シリーズの連作ものとしてね。しかし彼の息子は、なぜか父の絵を相続することを放棄した。結果、この一連の作品は各地に散らばることとなった……」
「まあ、有名な画家ともなれば、相続に面倒なこともあるでしょう。金にまつわる面倒が嫌だったのかもしれませんね」
自分のことをまるで他人事のように話す俺を、舞が何か言いたそうな顔をして見ているのに気付いた。
ゆっくりと左右に頭を振る。何も話さないでくれ、という合図だ。
「おじさんも、この絵が好きで、よくここに来るんですか?」
逆に質問を返すと、シャーロックハットの男は、ばつが悪そうにこめかみを掻いた。
「いや、実は今日が初めてだ。一目ぼれってやつだな。あっという間に心を奪われてしまった。なるほど、これがデュシャンの後継者の絵か」
「はあ……」
「この作品は本当に素晴らしい。わしはもっと早くに彼の作品を知りたかった」
まるで祈りをささげるように、そっと呟く
「この絵には、永遠の一瞬が閉じ込められている。心血を感じる。……そして画家はきっと、血を吐くような苦しみに耐えながら、幸せに終わらせたんだろう」
「……」
「ああ、つい独り言が。恥ずかしいところを見せてしまったね」
「ていうか……えっと、あの」
「じゃあ、そろそろお暇するよ。またどこかで会えたら、その時はよろしく」
言いたいことだけ言って、照れ笑いを浮かべながら、シャーロックハットの男は、足早に美術館を出て行った。「ひまわり」へは、、もう一顧だにしなかった。
残された俺たちは、思わず顔を見合わせる。
「変な人だったね」
「ていうか、リアクションに困った」
「目力強かったしね。お兄ちゃん、タジタジだったじゃない」
「苦手なんだよ、あのタイプ。それにお年寄りは大事にしないと」
「ふふ、じゃあそういうことにしておいてあげる」
全くこの妹は。一人では生きていけないほど弱いくせに、いつも気ばっかり強くて。
だが愛しい。たった一人の、俺にとってかけがえのない存在。
「……」
「どうしたの?」
「いや。何でもないよ。それよりも他にも見たいものはないか。今日はとことん付き合うぞ」
「ほんと?」
「もちろん、お前の体調次第ですぐに引き返すけどな」
「だ、大丈夫っ。今日はすっごく体調いいし……だから」
「はいはい」
両手に握り拳を作って元気さをアピールする舞に、笑顔ではっきりと頷いて見せる。
そしてこの日俺たちは、閉館時間ぎりぎりまで、この美術館の中を歩き回り続けたのだった。
さて一方、シャーロックハットの男が美術館から出てすぐのこと。
彼が早足に、美術館の目の前の交差点を、渡ろうしたときだった。
男は知人の視線に気付いて、渡るのをやめた。代わりに合図とばかりに、右手を上げる。
その相手は、永輝正仁だった。
「やあ、君も「桜の女性」を見に来たのかい?」
「あれは実に素晴らしい作品だ。奇跡といってもいいくらいだな」
「ほう。君がここまで称えるのは珍しい」
「おいおい。俺だって人間だ。感動すればそれくらいは言うさ」
すると永輝は楽しげに目を細め、くるりとしたそのまなざしで、男の顔を覗き込んだ。
「ところで君、美術館の中に居た少年少女を、いじめたりはしていないよな? あれ僕の教え子なんだけど」
「そうだったのか。じゃあ、あまりやりすぎないでよかった」
「相変わらず、最低だな」
「誉め言葉をありがとう」
気を許さず、だが楽しくお互いに腹を探りあう。これが長年の二人の距離だった。
「それで、「ひまわり」についてはどう思った?」
「ない。ただのお綺麗な絵だね。特に感想もない」
「ハッキリ言うねえ。新人としてはこれ以上ない登竜門、パリ国際サロンコンクールにエントリーされるというのに」
「だが、あの絵が選ばれることはないよ」
「どういう意味だ?」
「君が言うところの「美術館の少年」が、それを越える傑作を描くからだ」
「それはまた、ずいぶんと面倒な男に空君も目を着けられたもんだな。しかし、はりきっているところを悪いが、あの少年はもう絵はやめたそうだぞ。本人曰く筆を折ったらしい」
「いいや。それでも絶対に応募する」
「その根拠のない自信はどこからくるのかねえ。言っておくけど、僕ももう何度もフラレているんだが」
「根拠? そんなものは決まっている。私がそうなって欲しいからだよ」
「……」
あっけにとられる永輝に、男はにんまりと笑った。
「さて、実は急いでいるんだ。ロンドン行きの飛行機に乗る時間が迫っていてね」
「今度はロンドンですか。相変わらずせわしなく、グローバルに動く人だ」
「近いうちに東京へはまた来る。次はパリ国際サロンコンクールでお会いしよう」
言うなり、シャーロックハットのふちをもっておどけた表情で会釈すると、男はさっさと立ち去ってしまったのだった。
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