クライング・ベイビー

 俺の名前は有栖川ありすがわアイラ。少しばかり珍妙な苗字と名前だが、そこにさえ目を瞑ればごく普通の一般人だ。趣味と呼べるほどの趣味はない。人並みに運動し、人並みに遊び、人並みに生きているだけ。ただそれだけだ。ルックスは中の下くらいだろうか。しかし基準とし、比較する対象がこの場にはいないのだから俺一人でどうこう言ったところで甲乙は付けられないのだけど。


 さて。これは先日......確か一ヶ月と二日前に実際に体験した出来事だ。暇を持て余したので、ここに書き記したいと思った次第だ。


 これはいわゆる恐怖体験とかいうやつで、どこか現実離れした、不可思議でシュールな人生のうちのほんの一瞬のことである。ただし、それは俺基準で定められているだけなので、もしかすると他の人......今これを読んでいる貴方からすればへのかっぱかもしれないけれど、恐怖の対象なんて人の数だけあるわけだし、それは仕方のないことだ。


 前述の通り、これはあくまで体験談だ。ノンフィクションだ。ノンフィクションを基にしたフィクションなどごまんとあるが、俺の話は一切の脚色を施していない。故に読者を満足させるに足る秀逸なおちを用意するなど到底不可能なのであしからず。もっとも、全ての読者を満足させるようなおちなど最初から存在していないのかもしれないが。






 一ヶ月と二日前の夜、普段通り、いつも通り、何の変わり映えもしない一日をおくった俺は、特に何を思うこともなく寝室のドアを開け、寝床へとついた。


 普段から、寝床についてもすぐに眠ることをしない俺は、まぶたを閉じずに枕元に置いてあった文庫本を手に取った。茶色のブックカバーに覆われたそれを開くと、しおりの挟まったページを探して薄クリーム色の紙面をめくった。ぺらぺらと小気味良い音に耳をすます。心地よい。



 どのくらい時間が経っただろう。五分か、一時間か、あるいはもっとかもしれない。


 活字を目で追っていると、ふと耳に違和感を覚えた。音である。いや、音がするといるのは至極当然だが、今この場では明らかに不自然で不釣合いな音、という意味だ。


 俺は文庫本を閉じると、耳に感覚を集中させた。その音が一体どんな音なのか、その音は一体どこから流れているのか、誰かに意図的に発さられているものなら、一体どこの誰が発している音なのか。


 時計に目をやる。時刻は深夜の一時をまわっていた。


 耳をすますと分かったことだが、どうやら家族は俺以外皆既に寝静まっているようだった。すぅ、すぅ、とかすかな寝息が聞こえるのだ。しかしこれはくだんの音ではない。深夜に寝息が聞こえて違和感を感じる人がいるだろうか。いるはずがない。


 次に、窓へと耳を当ててみる。例の音が少し大きくなったのが確かに分かった。しかしまだ遠い。まだ何の音か判別はつきそうもない。


「うわっ」


 その時、低くうなるような重低音が俺の耳に響いた。驚き、小さく声を上げてしまう。バイクだ。バイクが家の前を横切ったのだ。俺は何とも言えない気分に苛まれた。


 寝室を出た俺は階段へ足をかけた。ゆっくりゆっくり、忍び足で、音を立てぬようにそっと階段を下りた。


 階段の途中に差しかかったところで、音が随分増して大きくなった。しかし、未だいまいち鮮明ではない。階段を下りた先、玄関へと近づいた時であった。



 玄関の靴が並んでいる辺り......そこへ踏み入った瞬間、まるで霧が晴れるように、覆われていた布を引っぺがした時のように、音が鮮明に鮮烈に、耳へと伝わった。



 赤ん坊だった。



 赤ん坊の泣き声が聞こえる。どこかで確かに泣いているのだ。「何だ、赤ん坊じゃないか」あまりのあっけなさに拍子抜けしてしまった。俺は一安心して胸をなで下ろすと、踵を返して寝室へと向かった。


 はずだったのだが、すぐに安心は疑念へと変わった。


 待て。今は深夜一時だぞ。こんな時間に外で赤ん坊の泣き声? 俺は声には出さずともそう思った。それに加えて我が家には庭がある。決して自慢というわけではないが、それなりの広さがあると自負している。当然夜間は門を閉め、鍵をかけている。そうなると家族以外の人間は必然的に門の外側にいることになる。



 つまり、明らかにおかしいのだ。明確すぎるまでに奇妙で奇怪。思わず後ずさりしてしまった。唾を飲み込む音がいやに大きく聞こえた。


 おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。


 一向に泣き止まない赤ん坊は、俺の耳元に留まり続けた。うるさい。煩わしい。静かにしてほしい。ただの泣き声であるだけなのに何故か俺の頭はかき乱されていた。


 おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。


 こんな状況なのにもかかわらず、俺の頭にはコインロッカー・ベイビーという話が浮かんでいた。ありきたりな都市伝説だ。駅のコインロッカーの一つに、生まれたばかりの赤ん坊が詰め込まれているという内容で、その頃の社会問題から生み出された無象の怪物。しかして、そんな話を嗜んでいる場合ではない。


 今気がついたが、声が徐々に大きくなっている。まるでじりじりと、こちらへにじり寄ってくるかのような不安感。ちりちりと背中が焦げつくような焦燥感。


 おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。


 何なんだ。全く分からない。理解が追いつかない。いや、むしろ脳が理解すること自体を拒絶しているようにも思えてしまう。考えも持たぬまま、背中に固い感触。振り返るとそこには壁があった。どうやら壁までずるずると後ずさっていたようだ。


 おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。


 理由は分からない。分かるはずもない。後ろへ退けば退くほど、泣き声は大きく、近くに聞こえた。最早、その声は、脳に直接流れ込んでくるのではないかというほどその大きさを増幅させていた。


 やめろ。やめろ。やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろっ‼︎


「これ以上家の外で泣くんじゃない!」


 叫んでいた。深夜ということも忘れて。家族が寝ていることも忘れて。切羽詰まっていたんだ。論理的に思考することも知らず、ただ思ったことをわめく。こんなの。これではまるで赤ん坊みたいじゃないか。



「そうだ。お前は赤ん坊だ」



 声がした。後ろからであった。しかしただの声ではなかったのは直感......もとい、体が感じ取っていた。まるで質量を持っているかのように確かなる『重み』を含んだ声は、俺を押し潰してしまわん勢いで迫る。


 前には赤ん坊の泣き声。後ろには『重い』声。俺は声に挟まれていた。俺は首を必死に回して、『重い』声の主を見た。




 そこには、家族の姿があった。間違いようもない、紛れもない俺の家族だった。しかし決定的に欠けているものがあった。顔だ。見ると、顔が丸々赤ん坊のそれになっているのだ。それも全員。俺以外の全員が赤ん坊になっていた。体に合わないフルフェイスマスクを着けているようにも見えた。


 その中の一人(恐らく母だろう)は不意に大きく口を開けた。未成熟なままの皮膚がぶよぶよと蠢く。


「お前は自分が赤ん坊という事実を受け入れられず、自分以外を排除することで自分自身を正当化しているに過ぎない」


 皮膚と同じように、まだほとんど発達していない顎を動かして言った。俺が呑み込めたのは言葉を発しているという事実のみだ。


「自分のやりたいことを選び取り、やりたくないことを捨てる。思い通りに物事が運ばないと嘆く、喚く。赤ん坊とどこが違うのか。いいや、どこも違いやしないさ」



 たった今確信した。この人たちは......いやこれらは、俺の家族などではないと。彼らは間違っても俺にこんなことは言わない。本当の家族はもう既に、遠いどこかへと行ってしまったに違いない。その抜け殻となった死骸を乗っ取り、被ったのがこいつらなのだ。


「その人たちの体から......出て行け......この化け物」


 恐れを抱きながら声を振り絞る。目の前の化け物たちの動きが止まった。そして、互いに向き合い、見つめ合うと、途端に笑い始めた。けたたましい笑い声が家中に反響して俺の耳へ、痛みとして伝わった。


「面白いことを言う。お前、自分がこの家の主にでもなったつもりか?」


「お前は赤ん坊。私たちに育てられたままの哀れな赤ん坊よ」



 一体、これはどういうことなんだ。俺は頭を抱えた。何の変哲もなく何の変化もなく、それでいて何の脅威もなかった毎日が、今では非現実と非日常が眼前を錯綜しているではないか。


 どこかで何かを間違えたのか。......否、間違ってなどいないのだろう。......一生には様々な選択肢がある。俺たちはそれを取捨選択しながら生きていくが、それらの選択肢に間違いは一つもない。間違いだと思える選択にも価値はあるのだ。


「俺は俺だ。赤ん坊だと。そんな勝手なことは言わせやしない」


「言うじゃないか。......なら、私たちはもう少しの間、お前を観察させてもらおう。お前がどう成長し、どう私たちの疑念を打ち砕くのかを」


 覚えているのはそこまでだった。





 気がつくと俺は、布団の上に寝転がっていた。それもただ寝転がっていたわけではなく丁寧に毛布を胸元までかけてだ。時計を見ると朝の七時を回り、もうすぐ半になろうとしていた。布団から跳ね起き、部屋を飛び出して階段を駆け下りると、そこにはただただ普通の玄関があるだけであった。


 リビングには家族が揃って朝食をとっていた。(余談だが、朝食はトーストと目玉焼き、そしてサラダだった)


 頭部は赤ん坊のそれではなかった。ちゃんとした顔があった。外からも当然声はしなかった。昨夜のことを聞いたが、家族は皆、漏れなく赤ん坊の声など知らないと言うのだ。それどころか、昨夜は一度も一階に来ていないときた。


 しかし、俺は昨夜の出来事をただの夢と割り切ることはできなかった。ある種の白昼夢か......あるいは、誰かからの『警告』か。





 あれから特に音沙汰もない日が続いた。再び何の変哲もなく、何の変化もない日々が戻ってきたのだ。ただ、外出中に周りの雑踏の中から赤ん坊の泣き声が聴こえると、あの夜の出来事を思い出さずにはいられないのだ。

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