見たい人、見てほしくない人、見てはいけない人

 私は有栖川アイラ。二七歳。仕事は、とある会社の事務処理をしている。


 今日も今日とて、さも当然になりつつある残業を終え、 帰宅している最中だ。


 飲みに行かないかと誘われたが、なぜか今日に限ってどっと疲れていた。恐らく今日飲みに行ったら明日の仕事に支障をきたすだろうと判断して、また別の日にと断った。


 どうやら疲れが相当溜まっているようだ。残業が重なったのが一番の原因に違いない。早く帰ってお風呂に入って寝なければ、そんな心持ちで私は、真っ暗な住宅街を小走りで進む。


 少し走っただけで息が切れてしまった。つくづく自分の運動神経の無さに呆れる。


 息継ぎをする傍ら、ふと視線を色々な方向にさまよわせた。住宅街なので、もちろんのことだが辺りは一軒家やアパートがのきを連ねている。別に何ら不自然のない光景だけれど、私はなぜか気になって仕方がなかった。


 まばたきをして目を潤すと、ふと目についた家を見る。


 ごく普通の一軒家。大きさからして、住んでいるのは四人家族だろうか。なんて、勝手な想像をする。


「あっ」


 声が出てしまう。なぜって、見ていた家の二階。そこの窓から、誰かが私を見ていたからだ。窓には明かりが灯っていて、そこから見下ろしていた。あいにくそれがどこの誰か(分かるわけもない。私と彼、あるいは彼女は恐らく初対面だから)かは、部屋の明かりからくる逆光で見えなかった。


 その人物は私と目があうと、そそくさと窓枠に束ねられていたカーテンを掴み、思い切り閉めてしまった。その挙動のはやさは、晒しあげられている人物を好奇の目で見る群衆のそれとよく似ていた。


 複雑な気分に苛まれた私は、むっとした表情をすると、歩き去った。



 コツコツと、私の足音だけが繰り返されている。中途半端な季節だからか、虫の鳴き声も聴こえず、他の物音もないから、私の呼吸音と、心臓の音とが余計に強調されている。


 いい加減この音に聴き飽きたので、音にレパートリーが欲しいなと思ったとき。


 しゃっ。


 右側から音がした。振り向くと、家の窓に取り付けられたカーテンの隙間から光が漏れていた。


 また見られていたのか私......?


 さっきのは間違いなくカーテンを勢いよく引く音だ。ただの偶然かもしれない。できればそうあってほしいのだけれど、同じようなことが二度も続けて起こると否応なしに関連性を疑ってしまうのが人のさがだ。


 私は立ち止まり、じっとそのカーテンを見つめた。光が透けているが、それ以外は何も見つけられない。


 すると、突然カーテンの向こうにある光源が遮られ、人の影みたいなものがゆらゆらとゆれた。


「あっ......! えっ......」


 その影は、明確に確実に人のカタチをしている。私のことを見ている。カーテン越しに、現在進行形で。


 身体中の血液が、ぐつぐつと私の体を温めていた血液が、徐々に冷たくなっていくのを感じた。私は踵を返すと、その場から逃げようとした。



「..................」



 住宅街の路地の先。闇に覆われて見えないはずのその先に、何か、『変なの』がいることに気がついてしまった。


『何......? あれ......』


 思わず目を細めた。いくら細めたところで見えるはずのないそれを、見ようとした。してしまった。



「ひっ......」


 ひっくり返ったようなか細い声が口から漏れた。私の視線の先には、何か恐ろしいものがいる。見てはいけないものがいる。そう体が警鐘を鳴らしていた。


 私の目が暗闇に慣れたことによる錯覚なのか、あるいは目の前にいるであろう『何か』が少しずつ変化しているのか......。前者であってほしいと願う私を嘲笑うように、『何か』は変化していた。


 目の前の空間が、信じられないことに、確かにねじ曲がっていた。螺旋状だと思えば、今度は夏場の陽炎のようにゆらゆらと不安定な形状をとっている。ねじ曲がった空間は、そのしわ寄せをするように圧縮され、やがてどこかへと消えて行った。


 得体の知れない恐怖に気圧けおされ、私は一歩後ずさる。すると闇に潜む何かも、私と同じタイミングで一歩こちらへと近づいたような......気がする。あくまで私の推量だけど。



 ふと、私の耳に奇妙な音がついた。


 ぎちぎち。ぎちぎち。ぎちぎち。


 そんな音だ。変な音だが、どこか聴き覚えのある、馴染み深いような音だ。私は視界の正面に闇を捉えたまま思考を始めた。記憶という名の本棚を漁り、該当する音を探し出す。



 その音は存外早く見つかった。本棚の、最も一番目につく場所に置いてあったのだ。



『ロープ、もしくは縄を強く締める音』だ。


 なんだ、よく知っている音じゃないか。つい最近耳にしたばかりじゃないか。


 私はまばたきをする。すると音は瞬時に消え失せ、代わりに目の前には人の形をした闇があった。


「ヒトガタ」


 私は目の前の現象をそう名づけた。アレと姿がよく似た存在を私は知っている。人の形ををしているが、人とは最もかけ離れた存在。


 多分、普通に生きる上では絶対に出会わないだろう存在。つまりは......そういうことだと思う。


 形を得たヒトガタは、闇という枷を壊し、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。いや、歩いていない、浮いていた。


 私はその場から動けずにいた。まるで立場が逆転したみたいだ。ヒトガタが人の形を得、私が人の形を失ったみたいな......そんな焦燥感。


 ヒトガタとの距離が一メートル程度まで縮んでしまった。


 なぜだろうか。最初は恐怖で何も考えられなかったのに、今となっては冷静になってこの目の前の現象を受け入れつつある。人は慣れる生き物だとよく言うし、ただ慣れただけかそれとも、もう私自身が諦めてしまったのかのどちらかだろう。まあ、もうどうでもいいこと。



「あ」



 私の脚がふわり、と宙に浮いた。正確には、首から上をヒトガタに掴まれ、持ち上げられていたのだ。



 ぎちぎち。ぎちぎち。ぎちぎち。



 またあの音だ。このヒトガタから出ている音なのだろうか。


 苦しい。呼吸ができない。ヒトガタに首を圧迫されている。......身体中の五感が鈍く、機能しなくなってきていた。


 フェードアウトする画面のように。


 彼方へ沈む太陽のように。


 汚れていく人の心のように。


 私の意識は、途切れた。





 ぎい。ぎい。ぎい。ぎい。



 *



 いわく、この世のどこかに『ありとあらゆる全てを集積した場所』が存在するのだという。そこには死という概念そのものが存在せず、至った者は全てを理解し、永遠に生き続けるのだという。


 しかし、そこへ至る方法はない。


 少なくとも、自らが人としての存在を証明し続けている限りは。その証明がもしも揺らぐときが来たならば、あちら側からやって来た現象が、人の存在すらも『あらゆる全て』に帰属し、帰結させてしまうのだろう。



 ......余談だが、有栖川アイラという人物が出生し、死亡したという記録は、この世のどこにも存在していない。

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二律背反パラノイア 蔦乃杞憂 @tutanokiyuu93

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