恋慕ふ。
亘理てん
歌
今日、俺の生徒達がこの学校を巣立っていく。
その中の一人、3年A組の高遠葉月。俺が古文を受け持つクラスの生徒で、正義感が強く気も強い、真っ直ぐな目をした女子生徒だった。
彼女はただの生徒じゃない。俺こと、椎葉隆弘にとっては大切な恋人だ。
卒業式が終わった教室で、俺と彼女は二人で向かい合っていた。
窓際の一番後ろの席は、高遠の席だ。彼女は席に座り、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。その前に立った俺は、彼女と同じ景色を見つめている。
「先生……」
「なに、高遠?」
高遠は答えなかった。
俺は少し不満げに眉を寄せて言った。
「折角、今日で教師と生徒の関係も終わりなんだ。名前で呼んでくれていいんだぞ」
「……先生」
「強情だな、全く」
嘆息する俺を余所に、彼女は制服のポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。
それは、俺が彼女に渡したメモだった。
卒業式の前日である昨日、今と同じ場所で俺は高遠から告白された。俺はそんな彼女の真摯な表情をまっすぐに捕らえながら、つい悪戯心が出てしまった。敢えて告白には答えず、メモに和歌を書いて渡した。
――卒業式が終ったら、またここで一緒に意味を調べような。
俺は彼女にそういい残して、教室を出て行った。
その言葉通りに、高遠は古語辞典を膝の上に置いている。
くしゃくしゃになっているメモを一瞥して、俺は小さく笑った。
「意味はまだ調べてないのか?」
「実はさ、辞典を後輩にあげちゃったんだ。卒業祝いに先生が使ってる古語辞典、貰ってもいいよね」
「……あぁ、通りで見覚えのある辞典だと思った」
高遠は膝に置いていた辞典を机の上に置き換えると、使い古されたそれをぱらぱらと捲っていく。沢山のページに残る、授業のために引いた斜線や鉛筆の跡が目に付いた。
それを懐かしむように見つめていると、高遠がぽつりと呟いた。
「まだ、意味は調べてないんだ……。先生から渡されたこのメモに全部の答えがあるんだ、って思うと怖かった」
「そっか、案外繊細なんだな。お前は」
少しからかうような口調で話をすると、高遠はメモを見て微かに笑んだ。
「なんてな、本当は知ってたよ。お前のそういう繊細で臆病な部分。何度も告白してくれても、俺から答えを聞く度に震えてた事も知ってた」
最初に告白されたのは、高遠が高校一年のバレンタインだった。それから俺が断り続けても、高遠は何度も好きだと、口にした。いつも真剣に、真っ直ぐ俺を見つめてきた。
「けど、俺はお前に何度も残酷なことを言った。お前になんか興味ないとか年の差がありすぎる、とかな。それでも、お前は絶対諦めなかった。傷付いてるはずなのに、真っ直ぐ俺に向かってきてくれた」
高遠は溜息混じりに、辞典を閉じた。その表面を指先で弄ったりするだけで、再び開こうとはしない。俺はそんな仕草を見つめながら、尚も続けた。
「だからいつの間にか、お前ばっかり見るようになって――」
「先生に、いい加減にしてくれって、言われたこともあったよね?」
懐かしげに語る俺の言葉は彼女によって遮られた。
声を落とし表情を翳らせた高遠は俯いてしまう。
「ああ、そうだった。ごめんな、高遠」
続いていた告白が突然なくなったのは、半年前だ。原因は恐らく俺が言った一言だろう。
俺は、最初の告白から何度も気持ちをぶつけてくる高遠を気に掛けていた。
そうして気付くと、高遠の姿を目で追っている自分が居た。授業中も休日も、彼女のことが気になっていた。それが恋だと気付いた時、俺はまず理性を保とうとした。
教師である以上、生徒と一線は超えられないという思いが、頭を支配していたからだ。
理性やプライドが前面に押し出されている俺とは正反対に、高遠は純粋な気持ちをぶつけてくる。それが嬉しくもあり、羨ましかった。
そんな風に煮詰まっていた俺の『いい加減にして欲しい』という一言で、高遠の告白はぴたりと止んだ。
「諦めたのかと、思ったんだ。けど……お前は昨日、また好きだと言ってくれて」
半年前と何ら変わらない、真っ直ぐな目で俺を見つめてくれて。俺は本当に嬉しかったんだ。だから俺はもう二度と自分の気持ちを誤魔化さないと決めた。
俺も好きだ、と直ぐに言わなかった事には二つの理由があった。
一つは卒業式が次の日だったこと。
二つ目は――
「卒業式が終わったらな、俺からもう一度告白しようと思ってたんだよ」
高遠の手の平で強く握られ、しわくちゃになってしまったメモへ目を落とす。
「その和歌を渡して、俺の今まで溜め込んだ想いを伝えたかったんだ。そういうの好きだろ? 今まで焦らした分、ロマンチックなシチュエーションってのを演出したかったんだけど」
彼女は暫く眺めていた辞典をゆっくりと開いた。また意味もなくページを捲って遊ぶのかと思いきや、メモと辞典を交互に見つめた。
「何をやってるんだ?」
首を傾げて高遠の顔を覗き込む。辞典のページを捲る音がぴたりと止まった。
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな――これかな?」
「ん?そうそう、それ。ちょっと待ってくれよ、今更ながら恥ずかしくなってきた」
照れ臭くて、頬に熱が集中しているのが自分でもわかった。
高遠はじっと辞典を凝視したまま、俯いていた。しかし、暫くして形の綺麗な唇が弧を描くのを見た。
辞典に載っていた和歌の意味を知ってる俺はそれを復唱する。
「君が僕の事を想ってくれるなら、この命だって惜しくないと思っていました。でも、いざ君が想ってくれると、少しでも永く、この幸せの中で生きたいと想うようになったのです」
「ほんっと、恥ずかしいね、先生」
「はっきり言わないでくれよ。メモを渡した後で少し後悔した。……けど、今はそれで正解だったと思ってる」
「本当、今更だよね?それなら、なんでもっと早く――っ」
ぽた、と透明の雫がページに滴り、円状の染みを作る。
俺は居た堪れなくなり、彼女から視線を逸らした。
「ごめん、高遠」
「もっと早く言ってくれなかったの! 私はまだ何も……先生の口から何も聞いてないんだよ?」
今まで必死に塞き止めていた何かが溢れ出したように、彼女は手の平を机に叩きつけた。
ばんっという激しい音が閑散とした教室に反響した。それはまるで彼女の悲痛な叫び声のようだった。
嗚咽を漏らしている高遠の頭を撫でようと、右手を伸ばす。
「なんで……なんで、死んじゃったの?先生っ」
その台詞を聞いた俺は、伸ばしかけた右手を引っ込めた。高遠は俺の存在に気付くこともなく、目の前で泣き崩れた。
「ごめんな、高遠」
俺は震えている高遠を静かに見下ろしていた。見下ろす事しか、出来なかった。
再び頭を撫でてみようとしても、実体の無い右手が虚しく空を切るだけだ。
「本当に、ごめんな」
聞こえるはずも無いが、それでも俺は謝らずにはいられなかった。
卒業式までの担任は何かと忙しく、俺の身体は疲弊しきっていた。その為、帰宅途中で横断歩道に突っ込んできた車に気付くのが遅れ、事故に遭った。
意識が次第に闇へ沈んでいく中で、俺はずっと彼女を想っていた。
和歌の意味を知った時、どんな反応をするのか。とても楽しみにしていた。
きっと照れながらも嬉しそうに笑ってくれた筈だ。
決してこんな風に泣かせたかった訳じゃない。
もう二度と触れることも出来なければ、俺の声が聞こえる事もない。
それでも、机に突っ伏している高遠の頭部に唇を寄せる。艶のある長い黒髪に口付けを落として、俺は切実な願いを込めて言った。
「飛鳥川 ふちは瀬になる 世なりとも 思ひそめてん 人は忘れじ。――もう一緒に意味を調べてやれないけど、この和歌だけは忘れるなよ」
***
ふいに、高遠は顔を上げた。
泣き疲れて眠っていたらしく、辺りはすっかり夕暮れに染まっていた。
涙で濡れた表情を隠すことも忘れて、誰も居ない教室を見渡す。
「……先生?」
高遠は夢の中で、確かに椎葉の声を聞いた気がした。
「えっと、あすかがわ、ふちはせに……」
今も耳に残る和歌の意味を調べようと、慌てて辞典のページを開いていく。
「あ、あった……」
和歌の意味を理解した途端、文字が滲んで霞む。
――何があっても、好きになった貴女のことは忘れません。
それは椎葉が最期に伝えたかった想いだ。その事を思うと、涙が止めどなく溢れてくる。
けれど、そんな涙を拭いながら高遠は笑う。
それは椎葉が見たかった、嬉しげに綻ぶ彼女の表情だった。
「先生。私、ちゃんと覚えておくからね?……絶対に、忘れないから」
小さく囁いた声は、暖かな西日が差し込む教室に溶けていった――。
恋慕ふ。 亘理てん @hadukimottin75
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます