第3話 孵った卵
その夜。私が初めてこの家で目を覚ました時と同じ部屋には、一枚の布団が敷かれていた。障子からは蒼い月光が差し込み、眠るには少し眩しかったせいもあったのか、私は布団の中で寝付けず寝返りばかり打っていた。
「んん……」
身体はとっくに休息に入ろうとしているのに、意識は冴えてしまっている。私の頭の中は、よみさんのことを考える余り休まることがなかったのだ。
彼女の黒い羊毛のような髪を思い浮かべる。
彼女の華奢だけれど柳のようにしなやかな立ち姿を思い浮かべる。
彼女の深海のような瞳を思い浮かべる。
彼女の決して豊満ではないが女神像のような曲線美を描く胸を思い浮かべる。
彼女の柔らかく包み込むような低い声を思い浮かべる。
彼女の時折見せるどことなく哀愁を帯びた笑みを思い浮かべる――。
無条件に胸が真綿で締め付けられる。心の臓がきゅうと甘い音を立てる。よみさんの声が聴きたくて堪らなくなる。
私の心は病に冒されてしまった。よみさんに抱くこの感情は、本来あり得るはずのない感情だった。女が女に抱くはずのない感情だった。名付けようもなかった。
昼間に刺さった棘の毒は、完全に全身を巡って私を壊そうとしていた。それまでの私が死んで、この病が私に成り代わってしまう気さえした。
制御することができないのだ。私はよみさんの全てが欲しい。
今まで誰かを愛おしむことがなく、またそんな余裕もなくて今まで生きてきた。それなのにこんなところで私の中の雌が影をちらつかせる。
卵が、割れてしまう。
私はそれを抑えつけんとばかりに胸に手を押し当てた。指を立て、必死に病の孵化を妨害する。
止まれ、止まれ、止まれ、止まって……!
――その時、じわりと押し寄せる潮の気配に気付いた。
私の下腹部で、ひんやりとした湿り気を感じたのだ。
まさか、私は。
全身を硬直させ、胸を抑えつけていた指を恐る恐る下へと這わせる。へそを通り越し、パジャマの下へ手を入れ、そっと下着に触れる。
「あっ……!」
下腹部から全身へと波紋のように駆ける電流に、私は体を震わせた。指先にはぬめり気を帯びた潤いをはっきりと感じた。
私、濡れている。
ああ、私、よみさんのことが好きなんだ。性的に好きなんだ。
私の中で、何かの糸が切れる音がした。糸の切れた指先は、そのまま私の恥部を愛撫した。そこは下着の上からでも敏感に反応して、ジュクジュクと蜜が染み出してくる。
どうしよう、止まらない。
理性が最後の抵抗をとばかりに頭の中を駆け巡るが、一度でもよみさんの姿を、声を思い浮かべたら、思考は白の果てに散った。
それから私は一心不乱に自慰に耽った。
布団を噛んで漏れ出す嬌声を押し殺し、湧き上がる快感に身を委ね、心の中でよみさんの名前を呼び続けた。
遂に絶頂に達した私は、虚ろな目で喘いだ。
「……ごめんなさい、よみさん、私……」
子宮で打っていた波が引くのを待ちながら呟いた言葉は、彼女を脳内で犯したことと、彼女に相応しくない感情を抱いてしまったことへの謝罪だった。
しばらく放心して仰向けになり、頬の紅潮が冷めてきたところで私はむくりと体を起こした。
「下着、汚しちゃった……」
私は是非もなく、鞄から今日穿いていたショーツを取り出し、今穿いているものと取り換えた。
心の中には捉えどころのない虚無感と、熱っぽい高揚感が同居していて、二つが相殺するからか表面的に私はニュートラルで、冷静だった。
ただ、このまま眠れそうにもない。
そう思って障子の向こうを見遣る。空には月が出ているだろうか。私はフラフラと部屋の端へ歩き、障子を開け放った。
すうっと夜風が舞い込んできた。縁側に面した小さな庭にはは梅や芝桜が植わっていて、その向こうは刈り取られた後の枯れ草色の田んぼが広がっていた。またその向こうには市街があり、街頭や店の灯りがぽつぽつと煌いていた。
空を見上げれば雲はなく、私の住むアパートからは想像もつかないくらいに星が綺麗で、紺色の帳の中で一際輝くは、満ち切る手前の小望月だった。
「綺麗……」
私はそっと呟いた。
「綺麗だね」
「きゃああああ!」
にわかによみさんの声がして、私は心臓が口から飛び出るかと思った。
「大丈夫だよー。私お化けじゃありませんよー?」
そのなだめる声のする方を見ると、よみさんは私の左側で縁側に座っていた。手には手持ち花火のような細い棒があって、それを指先でふりふりと弄んでいる。先端はタバコに火を点けたように赤く発光し、白い煙をゆらゆらと立ち昇らせていた。確かお香だったはずだ。実際辺りにはほのかに花の香りが漂っている。
「よみ、さん。い、一体いつからここに……?」
さっき自慰をしていた時の声を聴かれてしまったのではないかと、私が青ざめながら恐る恐る尋ねると、よみさんはいつもと変わらぬ希薄な表情で答えた。
「今いま来たところだけど?」
「そ、そうですか。ならよかっ……んんっ。何でもないです」
「美沙さんも、眠れないの?」
よみさんが優しい声色で聞いてくる。
「はい。ちょっと悩み事っていうか、なんていうか」
「そっか。私でよかったら相談に乗るよ」
そんなことを真顔で言ってくるあたり、やはり聞かれてはいなかったのだろうか?
でも、どちらにしたってズルい。
私の眠りを妨げているのは他でもなくよみさん、あなたなのに。あなたがいなければ、私は背徳的な病に身を焦がさずに済んだのに。ああ、でもあなたがいなければこんな甘く幸せな感情を知らなかったでしょう。
もし私の想いを知ったとして、あなたは私を許してくれますか? 今までと変わらず、いえ、それ以上に触れ合ってくれますか?
私には分からない。誰かを好きになったことがないから、好きな人にどう接したらいいか分からない。まして年上で、女同士なのに。
「よみさん……」
そう呼びかけた私の声は、自分でも思っていた以上に色っぽく、すがりつくような声音だった。
「ん?」
「……いえ、やっぱり何でも」
「どうしたの? 遠慮しなくても、何でも言ってごらん」
よみさんは振り返って私の瞳を覗き込んだ。だからズルいのだ。普段だらしないくせして、こういう時だけ気が回って、格好良くて、甘やかそうとしてくれる。
「私、恋愛という感覚がズレているみたいなんです」
私は遠回しな切り口から話し始めた。
「誰かを好きになることがなくって、友達にもあまり執着がなくて、一人でいる方が落ち着きます。男の人に告白されても一度も付き合おうとはしませんでした。相手が求めるものに答えられる気がしなかったから。このままずっと自分の世界に閉じこもって生きていくものだと思っていました。でも、それはただの強がりだったのかも知れません。恋愛という感情も、私の中には存在していて、それもずっと歪で、どうすることもできない儚いものなんです」
私の告白を聞いていたよみさんは、指先でお香の端をぴんと叩いて灰を落とした。
「分かるよ。私も孤独に慣れ親しんだ人間だから。誰かを好きになるのは怖いし、信じるのはもっと怖い。自分が間違っているんじゃないかって思えてくる。……私たちは互いの孤独を埋め合うために出会ったのかもね」
その台詞はリンとした音色で私とよみさんの心を共鳴させた。彼女もまた私を必要としているのだろうか、そうだったら私は嬉しい。
「よみさんにとって私って、何ですか? 妹みたいな存在ですか?」
そう尋ねると、よみさんは「うーん」と楽しそうに唸った。
「それも悪くないけど、強いて言うなら特別な女の子、かなぁ……」
「っ……!」
私ははっとして、よみさんの目を見た。思えば、ここでようやく彼女の顔を正面から見ることができた。私の頬が赤らんでいるのは、月明かりには照らせない。
「抱きしめても……いいですか?」
その言葉はほとんど無意識に口を突いて出た。ただただ愛おしかった。後先なんて考えていなかった。
よみさんはとっくに短くなっていたお香を庭の土へとやおら投げ捨てると、そわそわと首を掻いた。そして視線を夜空の月に投げたまま言った。
「私はあなたを拒まない」
その言葉だけで、十分だった。私は縁側に座るよみさんを後ろからそっと、愛の赴くままに抱きしめた。家主に甘える野良猫のように、母親の愛情をすする幼子のように、愛を確かめ合う恋人のように。
暖かい。安心する。夢の中のような二人の世界で、私はそっと目を閉じた。
好きです。大好きです、よみさん。ずっと一緒にいたい。こうして温もりを感じていたい。あなたのことを、もっと知りたい……!
好きです。
言葉にするのは、今少し
よみさんを抱きしめたい 西田井よしな @yoshina-nishitai
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