第2話 愛しきひと時

 それから私は大学とアルバイトの合間を縫うようにしてよみさんの家に遊びに行くようになった。


 最寄りの駅からよみさんの住む田舎町までは、乗り換えの必要こそないものの三十分強の時間と、それ相応の運賃がかかる。それでも私はそれを苦だと思うことはついぞなかった。


 私が駅に着いて小さなロータリーに出ると、事前に到着時刻を伝えておいたよみさんが車で迎えに来てくれた。黒色の軽ワゴン。やや男性的な趣味がある所も彼女らしかった。

 私が車の助手席に乗り、よみさんの車は市街地を抜け、コンビニと住宅がまばらに建つ田園地帯へ。そんな町と村の境界線のような所によみさんの家はある。


 平屋の年季の入った一軒家。決して広くはないが、しっかり庭もあるのに今はよみさん一人しか住んでいないらしい。理由を尋ねるのも無粋だった。

「さ、あがって」

「おじゃまします」

 車を降りて私たちは家に入る。この光景にもすっかり慣れたもので。よみさんに至っては敬語を使うのを止めた。よみさんの方が七つも年上だったので私から頼み込んで敬語を止めてもらったのだ。


 私がよみさんの家ですることと言えば、共通して好きな作家の作品についての談義や、私の日ごろの愚痴や悩みを聞いてもらうこと、そして逆によみさんの執筆活動に関する相談を聞くことだ。そして都合さえ合えば一晩泊まっていく。


 ただし私がただよみさんの家にやっかいになっているわけではない。

 彼女の家に通うようになって分かったが、よみさんは基本的に生活力が低い。だから料理も一人暮らしだというのに満足にできないので、放っておいたらシリアルや冷凍食品、インスタント、その他出来合いの食品しか食べない。そして私が寝泊まりする部屋からふすま一枚挟んで隣にあるよみさんの書斎は、読んだ読んでないに関わらず散らかされた本と、たたみもせずにほったらかされた衣服で混沌としている。


 だから私はよみさんの家に行くと決まって掃除をする。よみさんも促して一緒に本の山を片付け、掃除機掛けやトイレ、風呂の掃除まですることもある。そして食事時になると一緒にご飯を作る。必要なら食材の買い物にも付き合わせた。


 我ながらどうしてこんな使用人のような、いやどちらかと言うと母親のようなことをしているのだろうと思うが、私は酔って前後不覚になったところを助けられた恩返しとして、よみさんにもう少し生活力を養ってもらおうと思ったのだ。


「こんなこと覚えなくたって、一人暮らしなんだから気にしないのにぃ」

 洗濯択したのかも定かではないという服たちをたたみ、あるいはハンガーに通しながらよみさんは悲鳴を上げた。こんな苦行よりもパソコンにかじりついて小説を書いていたいと顔に書いてある。

「駄目ですよ。一人暮らしだったら尚更自立した生活を送れなきゃ心身が持ちませんよ」

「作家というものはね、破滅的な生活を送ってこそ芸術的なインスピレーションを……」

「そういう屁理屈はいいですから早く終わらせちゃいましょ!」

 私は手元にあったシャツを掴んで放り投げた。それは空気抵抗を受けてふわっと宙を漂ってから、よみさんの顔面にきれいに覆いかぶさった。


「ぶふぁっ……はぁ、こんなんじゃ私は一生嫁には行けないね」

 投げつけられたシャツを慌てる様子もなく緩慢な所作で取り上げながら、よみさんは自嘲気味に笑った。

「本当ですよ。大体よみさんって……」

 そこまで言いかけて、言葉が詰まった。


 ――よみさんって結婚する気があるんですか?

 そう言おうとした。その言葉自体に何も変な所はない。だが私の思考はそこからもっと入り込んだ所まで探ってしまった。

 よみさんにもし結婚する気があるなら、それは彼女が自分の知らない誰かを愛する気があるということ。もっと言えば今よみさんには恋人、ないし想いを寄せる異性がいるのかも知れない。

 その考えは、なぜか私の心の手の届かない所に小さな棘を埋め込んだ。ちくりと痛く、しかも毒を孕んでいる。その棘が私の言葉を遮ってしまった。

 この感情に当てはまる名前を、私は持ち合わせていなかった。


「ん、どうした?」

「ひゃっ!」

 よみさんが私の顔をずいっとのぞき込むので、私はびっくりしてのけぞってしまった。

「な、なな何でもないです!」

「? ……そう」

 よみさんは無表情のまま小首を傾げ、それからは大人しく作業に戻った。




 夕方になり、私たちは台所に立っていた。目の前には白菜や長ネギ、豆腐、しらたき、鶏つくね。コンロの上には立派な土鍋が置かれている。そしてよみさんが手に持っているのは「寄せ鍋のもと」。そう、これから鍋にするのだ。

「よかった、ちゃんとした材料を買っておいてくれたんですね」

「失礼な。私が闇鍋を始めるような破滅的な人間と思っていたの?」

「いやあなたさっき作家は破滅的であればこそ云々って言ったばかりじゃないですか」

「……ああ、そうだけれど……それは……ん、まあいいや」

 何か上手いこと言い返したかったようだが、よみさんは途中で根負けしてしまった。見方によっては拗ねているようにも見えるが、単に彼女の不精のせいだろうか。


「で、でもよみさんがそんな悪戯好きで常識のない人だなんて思ってませんよ」

 ついフォローを入れてしまった。よみさんが困っているところを見ると、サディズムをそそられるとかそういうのではなく、こう無性にときめいてしまって、優しくしてしまう。

 すると、よみさんは無言で手を私の頭に乗せて、微かな挙動で撫でた。彼女の手の温もりが、じんわりと日向のように染みてきた。一瞬思考が飛ぶ。

「っ……!」

 私は声にならない悲鳴を上げたが、彼女は構わずワークトップに向き直った。

「じゃ、野菜切ってこうか。どれからやればいいかな?」

「は、ひゃい……」

 私が動揺で舌が回らず間抜けな返事をすると、よみさんは子猫を眺めるような眼差しでくすりと笑った。



 

「おいしいですねぇ」

 二人で鍋を囲み、私は大好きなしらたきを噛み切った。ぷちぷちと糸状のこんにゃくが切れる小気味よい食感がして、出汁のあっさりとした滋味が冷えた喉に染みる。

「うん。鍋なんて久しぶり。この土鍋もまた使えてよかった」

「昔はよく使っていたんですか?」

 私が聞くと、よみさんはカセットコンロの上でぐつぐつと音を立てる土鍋に一瞥を投げて、遠い目で言った。

「まだ両親と弟と一緒に住んでいた時にはね、よくこうして鍋を突いていたよ」

「そうなんですね……えっと」


 今は元気なのか、とか質問しようかと思ったが、こういうことは人に言いたくない事情があって今独りで暮らしているのではないかと考えると、どう反応したらいいのか分からなくなってしまった。

 しかし、そんな私の困惑もよみさんは想定済みだったらしく、能面のような顔を崩さず言った。

「美沙さんといると、妹ができたみたい」

「えっ?」

「不満?」

「あ、いいえ……いや、ちょっと不満かも、です」

「じゃあ何だったらいいかな?」


 よみさんは箸先を気怠そうにぴっと向けて尋ねた。私は逡巡した。妹と思われることは嬉しいが、それ以上に少し、悪い意味ではなく下に見られている感じがして、まるで私がよみさんにとって年上の余裕であしらい、可愛がるだけの存在と見なされているようで嫌だった。私はよみさんにとってどんな存在でいたいのだろう。

「……もっと、対等に見て欲しい、です」

 そして出した私の返答はこれだった。

「じゃあやっぱ友達かぁ」

 そう言ってよみさんはグラスに注がれた梅酒を舐める。私の方にも同じ梅酒の注がれたグラスがあった。酒に弱い私に配慮してくれたのもあるだろうが、よみさん自身も酒飲みではないらしい。変な所で堅実な人だ。


「ほら、こうして一緒に酒を飲める人なんて久しくいなかったからさ。私は嬉しいなあ」

 グラスを傾け、氷が軽やかな音を奏でた。

「私、ふと思うんですけれど」

「うん?」

 私は酒で理性が緩んできたせいか、ほとんど無意識に言葉を紡ぎ始めた。

「私にお母さんがいたら、こんな感じだったのかなぁ……なんて」

「ふうん……」

 よみさんは少しの間沈黙して、豆腐を一切れ口にしてから言った。


「私はそんないい人間じゃあないよ。年上だからって、若者のその手の孤独を癒す方法なんて知らない」

「でも、誰かが出迎えてくれるって素敵なことです」

 私はにへらと笑って鍋の中身を軽くかき回し、残り少なくなってきた具材をよそった。酒のせいか、ここの暖かい空気のせいか。ふわふわと気分がよかった。

「ああでも、よみさんが本当にお母さんだったら、それはそれで嫌です。やっぱり、よみさんとはもっと対等に仲良くなりたいし、持ちつ持たれつが理想的かなぁ、なんて。欲張りですよね」


「それじゃ、夫婦みたいなものだね」

 なんの気なしに放たれたよみさんの言葉に、私の心臓は電気ショックを浴びたようにどくんと跳ねた。

「ふっ、夫婦っ?」

「そんなに驚くことないだろう。ものの例えなんだから」

「あっ、は、はい。そうですよね。例えですよね……」

「まあ美沙さんみたいな人だったら結婚してもいいかも」

「っ~! ななな何を……!」

「だから冗談だって。ふふ、可愛いなぁ」

 よみさんはおかしそうにグラスを仰いだ。私は恥ずかしさと悔しさで頭が弾けてしまいそうだった。そこに変な嬉しさが相まってしまうともう収拾がつかず、

「よみさんの馬鹿っ!」

 と叫ぶのが精一杯だった。

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