よみさんを抱きしめたい

西田井よしな

第1話 凛としたその人は

 目が覚めると、正方形の傘が付いた昔ながらの和風照明が見えた。もう少し視界を広げると、ベージュ色の木の天井と、この部屋を仕切る障子が見えた。和室だろうか。障子の向こうからはまばゆい日差しが透けて入ってくる。


 どうやらここは私の部屋ではない。それにいつの間にか朝になっている。記憶の糸を辿ろうとしたが、夜、居酒屋で一人酒をあおっていた辺りから煙の中に霞んで判然としない。


 布団に横たわった体をむくりと起こして、改めて周囲を見渡す。若草色が瑞々しい畳が敷かれ、前後は障子に、右はふすまに仕切られた控えめな和室だ。そこには私と布団、そして財布やスマートフォンなどが入った手提げ鞄があるのみ。

「いったいどうなってるの?」

 誰にともなく独り言ちて布団から出ると、鞄を取り中身を確認した。うん、どうやら何かがなくなっていることはなさそうだ。

 スマートフォンのディスプレイは土曜日の朝八時を指していた。酒を浴びていたのは金曜日だ。私は頭をわしゃわしゃとかき回した。やはり一晩越していた。


 部屋の外からすたすたと誰かが歩いて来る音がして、私の体はびくりとすくむ。この家の人に違いない。ああ、もし男の人だったらどうしよう。私の記憶のない間にここへ連れ込んで、何か良からぬことをしようとするのではないだろうか。いやもうすでに事後だとしたら……。

 はっとして自分の格好を確認する。大丈夫、服装は昨日と変わらない。ブラウスのボタンも、ブラジャーのホックもしっかり留まっている。

 そうしている間にも足音は私のいる部屋の前まで迫ってきた。いよいよ頬に冷や汗が浮かぶ。そうだ、深呼吸しよう。吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 それから鞄を手に持ち、障子から離れて、足音の主を待ち構える――。


「もしもし。目が覚めましたか?」


 リン、と鈴の鳴るのが聞こえた気がした。

 障子の向こうから聞こえた声は、女性のものだった。少し低く、それでいて柔らかい澄んだ声だった。


「は、はい」

 虚を突かれた私はおずおずと返事をした。すると障子が開かれ、その人は現れた。

「おはようございます。気分はどうですか」

 その人の姿は鼓膜を甘く震わせる声の持ち主として違和感のないものだった。休日感満載のラフな服装、長いが無造作にはねた黒髪といういで立ちだが、その顔は蓮の花のように凛として美しく、私を通して何か別のものを見ているような不思議な目をしていた。

「少し気持ち悪いですけど、大丈夫です」

「そうですか」

 その人は淡々とした口調で話した。

「大変でしたよ。酔い潰れたあなたが電車の中で寝ているので、声をかけたらもう目的の駅は過ぎていて、放っておくのも危なっかしかったので私の家まで運んだのですが、覚えてませんか?」


 その人は廊下に立ったまま、大変だったという割には感情のこもっていない調子で言う。

 だが、おかげで私の中でも少しだけ記憶が蘇る。

「あ、そう言われてみれば私、飲みすぎて電車で寝ちゃって、その後誰かに声をかけられたような……ごめんなさい、記憶が曖昧で」

「いいえ。取りあえず大事にならなくてなにより」

 そう言ってその人は半歩下がり、すっと右を指差した。私には何のことを意味しているのか分からなくてきょとんとした。

「……え?」

「ご飯を用意しました。食べていくでしょう?」

 私は思わず鞄を落としてしまった。

「いえいえいえ! そんな一晩介抱までしてもらって悪いです。これで帰りますから」

「ああ……そうですか」

 その人は急にしゅんとして、腋を締めた格好で首を掻いた。


 私はその仕草に彼女の女性らしさ、いや彼女が秘める女としての奥ゆかしさというようなものを垣間見て、思わず言葉も忘れて見とれてしまった。それまで冷静沈着で私に無頓着な反応をしておいて、いきなり憮然としてそわそわする様子は私の心をかき乱した。

「あの、やっぱりごちそうになろうかなぁ、なんて」

 我ながらなんて露骨な手の平返しだろう。

「本当ですか」

 その人はじいっと私の目を見つめた。特段嬉しそう、でもない。ただ少し驚いている様子は見て取れた。

「ではこちらへ」

 私は言われるままに歩み寄った。するとその人はさっき指した方とは別の、廊下左を指して、

「トイレと洗面所はあっちです。自由に使ってください。私は奥にいますので」

 と言って自分は右手へと去って行った。


 私が用を済ませて彼女が向かった方へ行ってみると、そこもまた畳張りの居間だった。ちゃぶ台の上にはトーストされた食パンが二枚、皿に乗せられ、そばにはイチゴジャムの瓶とマーガリンがあった。

 ここまで純和風の家で、しかもあんな風に朝食を勧めてくるのだから、てっきり白米とみそ汁、鮭の塩焼きでも出てくるのかと思ったが、拍子抜けだった。ただまさかここでつっこむのも間抜けだ。

「コーヒーは?」

 キッチンに立っていた彼女が聞いてきた。

「はい、飲みます」

「お砂糖、ミルクは?」

「結構です」

 その人はコーヒーを淹れて持ってくると、リモコンを取ってテレビを点けた。土曜のワイドショーが流れだした。


「いただきます」

「どうぞ。こんなものしか出せないけど」

「い、いえ」

 あ、一応自覚はあるんだ。まあいい。トーストは誰が作ってもおいしい。特にイチゴジャムを出してくれるとは趣味がいい。

「あの、昨晩から色々とありがとうございました。と言うかご迷惑をかけてすみません」

 私が頭を下げると、テレビに目を移していた彼女はくっと片眉を上げてこちらを振り向いた。

「構いませんよ。今度からは気を付けてくださいね」

「ほんと気を付けます。私酒弱いのに昨日はちょっと羽目を外してしまいました。ところでここはどこですか?」


「日本ですよ」

 その人は大真面目な顔してそう答えるのだから、私は飲んでいたコーヒーを吹くところだった。

「……けほっ、けほっ。そんなことは分かりますよ!」

「あ、そうですよね。まだ前後不覚に陥っているのかと」

 その人は微かに苦笑いを浮かべ、改めてここの地名を教えてくれた。するとここはどうやら私がアパートを借りて住んでいる街から郊外に当たる、他県の土地であることが分かった。

「学生さんですか?」

 彼女が尋ねる。

「はい。あなたは?」

「私ですか? 恥ずかしながら小説家をしています。『夜見よみよだか』って名前で執筆しているんですが」


 その人はまた首を窮屈そうに掻きながら答えた。

 私は「あっ」と短く叫んだ。そのペンネームには見覚えがあったのだ。

「『君を殺せなかった日』の作者さんですよね! 私以前読んだことがあります」

「はは。恐縮だ」

「私あの小説好きでした。まさかこんな所で夜見先生と出会えるなんて!」


 私は芸能人にでも会えたかのようにはしゃいで――それもあながち間違いではないのだが――身を乗り出した。酔い潰れてよかったとさえ思ってしまった。今手元にその小説を持っていたらなばサインをお願いしたところだろう。

「先生なんて呼ばなくていいですよ。私の本名は千田よみ。よみは平仮名なんです」

「じゃあよみさん、でもいいですか?」

「ええまあ、それなら。そう言えばあなたのお名前は?」

「伊藤美沙です。『美しい』に沙羅双樹の『沙』です」

 するとその人、よみさんは小さく笑って表情を緩めた。


「ふふ、面白い喩えですね」

「あう……変、ですよね……」

 自分の名前のつづりを人に説明することもあまりないものだからとっさに浮かんだものであったため、そう指摘されると照れてしまう。普通に、さんずいに少ないと言うべきだったと気付いても後の祭りだった。

「別に変と言っているわけではないです。文学的で羨ましいと思って」

 不意に褒められて、私の顔は内側から発した火に当てられて熱を帯びた。

「そ、そんな。よみさんに比べたら私なんて」


 そう言って少し乱暴にパンに食らいつく私を、よみさんは相変わらず表情の読めない静かな目で見ていた。多分そうしていたのだと思う。そのような視線を、私は朝食を取っている間しょっちゅう感じた。

「美沙さん、私の小説はどうでしたか?」

「え?」

 唐突に質問されて、私は聞き返してしまった。

「あ、いや、こんな聞き方をしたらつまらないとは言えませんよね。ただ純粋にどう思ったか、悲しくなったのか、感動したのか、あるいは今一つ物足りない感じだったとか。私の小説は美沙さんの心にどういう形で残ったのか、というようなことが聞きたいのです」


 何やら、ここで面白かったとか、よかったとか、そんな凡庸な感想を述べたらがっかりされてしまうと思った。私は食事の手を止めてしばらく唸る。

 そして私がよみさんの小説を読み終えた時、どんな印象を抱いたのか、その時のことを慎重に脳内再生し、適切な言葉を探した。そしてこう言った。

「……虚しくなりました」

「虚しい」

「あ、それは決して内容が悪いって意味ではなくてですね! 何て言うかこう、読み終わった後に胸にぽっかり穴が開いたような、それでいてその感覚が気持ちいいっていう感じで……ってマゾか私は!」

 私は一人相撲を取ってわちゃわちゃと手を動かしていたが、よみさんの表情をうかがううと、彼女はほうけたような顔をしていた。


「……」

 それは辟易していると言うよりは、嬉しさと湧き上がる感激で我を忘れているように見えた。

「よみさん……?」

「嬉しい。私はまだ無名で数は出版できていませんが、こんな感想をずっと待っていました」

「本当ですか」

「ええ。美沙さんと出会えてよかった。本当に、何と言ったらよいか、って私小説家なんですけどね」

 そう言ってよみさんは頬を緩めた。


 この人が冗談を言うことに少し驚いたが、それ以上にこんな穏やかで柔らかい表情もするのだということに私は目を見張った。

 そして次に私の胸に浮かんできたのは、これでさよならするのは余りに心残りだという思い。またこの人に会いたいという、甘く痺れるような感覚が蜜のように私の心を埋め尽くすのだ。


「あのっ、もしよかったらまた来ても……いいですか?」

 私は竜頭蛇尾になりながらもそう頼んだ。

 すると、よみさんは少し間があってから、

「今度は素面で来てくださいね」

 と答えてくれた。優しく、水底から響いて来るような声だった。

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