5-5

 ルシファーの翼が緩やかに開かれる。

 振り返ると、そこには悪魔王の姿があった。しかし無傷ではない。ところどころに鎧の破損が見て取れる。だが、それだけだ。


「まさかゲヘナを扱える人間が現れようとはな。ここまで霊魂の結びつきを強めるとは……。ただの虫けらではなかったということか」


 確実にダメージは与えたはずだ。自身が持ち得る最大の魔法をぶつけたのだから。

 けれど、サタンの笑みからはまだ有り余る余裕すら感じられる。

 湊は愕然と立ち尽くした。

 自分がやれることは全てやった。ゲヘナの召喚も、先ほどの威力はもう出せない。それくらいに二人とも疲弊している。

 もう何も、勝つ手立てが見当たらない。本当のどん詰まりだ。

 諦念し、肩から脱力してうな垂れた時――不意に一陣の風が頬をなでた。顔を上げると、黒と白の羽根が舞い、風の流れに沿って追随している。

 次の瞬間、悪魔王の背後から突然現れたルシファーが、拳に炎を纏わせて顔を殴りにかかった。それをサタンは冷静に見極めて、拳を合わせて弾き返す。


「くっ」


 湊の時と同様。闇色の炎がルシファーの紅蓮の焔を侵食し蝕んでいく。

 咄嗟に炎から手を抜くようにして切り離すと、火炎を飲み込んだ黒炎が、細く煙を吐き出しながら掻き消えた。


「無駄だ。貴様が俺に勝つことなど、永劫ありえん。諦めろ」

「それでも――ッ!」


 彼女は叫ぶ。翼を弓のように限界まで引き絞り、思いっきり羽ばたかせた。

 風圧でジュデッカの氷にヒビが入るほどの爆発的な推進力を得たルシファーは、速度に乗せた渾身の一撃を叩き込もうとし、再度拳を振りかぶる。


「煩い蝿だ――」


 鞭のようにしなる腕から繰り出された光速のパンチは、摩擦熱で空気を焼くほどだった。

 しかし、平然と彼女の拳を左手一つで受け止めたサタンは――右手でそっと彼女の体に触れて、それを口にした。


氷魔霊獄ジエル・アンヴラ


 接触部分から瞬間的に発生した氷は、ルシファーの全身をくまなく覆いつくす。ごとりと氷上に落下し、躍動感のある氷像を作り上げた。


「ル、シファー……ルシファー!」


 一瞬、信じられない光景を目の当たりにし、湊はただ名を叫ぶことしかできなかった。


「貴様もずいぶんとこいつに執心しているようだな。まさかベルフェゴールの契約者同様、恋慕しているわけではあるまい?」

「ルシファー!」


 サタンの戯言など耳に入らず。湊は駆け出し、魔道書を開く。


「いま助けてやる――紅焔集束燐砲ロウル・エン=ジアー


 比較的バリの大きい部分を選択し、そこへゲヘナの収束魔法を当てた。加減をして収めると、


「なにッ!? 」


 地獄の業火を当てたにもかかわらず、ルシファーを覆う氷は溶けるどころか焦げ跡ひとつ付いていない。


「ど、どういうことだ……」

「愚かな人間よ。勘違いしているようだから教えてやる。それは氷地獄のものではない」

「ここのじゃないなら、どこだって言うんだ! ゲヘナで溶かせない氷はないんだろ!」

「それはジュデッカまでの話だ。その氷はアバドンの深淵を覆うもの。アバドンでしか溶かすことの出来ない永久氷晶なのだ」

「そんな……。アバドンアバドンって、さっきから何なんだよッ!」


 自分だけが知らないようで。納得出来ない悔しさに拳を握り、湊はサタンへきつく問い質す。


「このジュデッカよりもさらに下層、地獄の中心。アバドンとは深淵であり、黙示録に解き放たれる世界を舐め尽くす劫火でもある。物質界に蔓延る貴様らゴミ共を焼却する、な」


 悪魔王はありったけの侮蔑を込めた視線で見下してきた。


「今しがたあいつに言ったことだが――もう諦めろ。虫けら風情が俺に楯突いたところで、敗北は必至。人間にしては頑張った方だが、もう奴の中にも碌に魔力は残っていないだろう。それに免じて、せめてもの情けだ。あいつが死ぬまでここで見届けさせてやる」


 王の寛容さに感謝しろとでも言いたげに笑い、それだけを言い残し、サタンは湊に背を向けた。

 ――とことん嘗められている。殺す価値のないゴミだと言われているようなものだ。彼女とともに一息に殺してもくれないのか。

 奥歯が砕けんばかりの力で噛み締め、血が滲むほど強く握った拳は遣り切れない思いに震えた。

 徐々に離れていく悪魔の背中。

 王を名乗るだけあって、とてつもなく広かった。自分なんかがいくら頑張ったところで、到底手の届きそうにない処にある。

 ――だけどッ!


「お前は違うだろ……」


 湊は小さく呟いた。


「お前は強いはずなんだ、なあルシファー」


 彼女が聞いているものとして静かに語りかける。


「このままで本当にいいのかよ。このまま負けっぱなしで、お前はそれでいいのかよッ」


 氷付けされた彼女の胸元へ、湊は思いっきり拳を叩きつける。尋常じゃない硬さに、殴った拍子に手が切れて血が滲んだ。そんなことも厭わずに、力一杯何度も何度もぶん殴る。


「天軍を仕切ってた天使だったんだろ? 最強の天使だったんだろッ! こんな感情だけが一人歩きした奴なんかに、いつまでも負け続けたままでいいのかよッ。本当にそれでいいのか! 聞こえてるんだろ、答えろルシフェルッ!! 」


 胸元のネックレスを引きちぎり、止めだといわんばかりに湊は氷像へと突き立てた。すると、ビクともしなかった硬い氷にヒビが入り、亀裂が徐々に大きくなっていく。

 これにはさすがのサタンも足を止めた。わずかに目を見開いたその表情には驚愕が深く刻まれている。

 やがて氷全体にヒビが行き渡り、ルシファーの体が閃光に包まれた。

 瞬間、ガラスの割れるような破砕音が響いて、目の眩むほどの光が迸る。湊は咄嗟に両腕で目を覆った。

 何が起きたのか分からずに、ただ輝きの収束を待っていると――

 バサッ! と大きな羽音が聞こえてきた。いつもの音より幾分か迫力が増して聞こえる。薄っすらと瞼を明けて、湊は音のした方へ目を向けた。

 霞む視界。薄ぼんやりとちらつく影が次第に色を取り戻す。眼前には、眩しいくらいに煌き輝く、純白の白翼を十二枚備えたルシファーの姿が在った。


「お、お前……その姿……」


 まさしく天使だ。ベルゼブブに聞かされた、天界にいた時の彼女の姿そのままがそこにある。


「懐かしい感覚……。ミナト、あなたのおかげで思い出すことが出来た。そう、私は天使長ルシフェル。堕天させてしまったみんなの為にも、私は勝利し力を示さねばならない。いつまでも自分の半身に、負けてられないものね」


 なにか吹っ切れたように気持ちよく笑う彼女。黒い属性は微塵も感じられなかった。


「く、くくく。くははははは!」突如不気味な声でサタンが嗤いだす。「十二枚の羽。その姿、まさしく熾天使! そうか、ようやく解ったぞニバス。貴様が傲慢を選ばなかった理由がな」


 どこからともなく、今の今まで姿を消していた道化師長ニバスが現れる。


「怒ってますか?」


 どこか楽しそうにも聞こえる無機質な声音で、道化は問う。


「いや。全盛期のルシファーを殺す楽しみが出来た。この戦いは無駄ではない。貴様に感謝する。俺は一度でいいから潰してみたいと思っていたのだ。堕天する前の、あいつをな――」


 より一層低く、深みを増したサタンの声。突如としてアバドンが悪魔王の体を包み込み、さらに火の勢いが増してゆく。やがて山のような大火となったそれは、中に何かを孕んでいた。

 胎動し、蠢く影。それは少しずつ鎌首をもたげて、起き上がっていく。

 まるで吸収されていくかのように劫火が沈静化し、そこから姿を現したのは、


「――蛇、……いや竜か……?」


 見上げ、湊は愕然としながら呟いた。

 体長およそ三〇〇メートルほどの、真っ赤に赤熱する鱗を持った黒炎を纏う竜だ。まるで伝説に語られる八岐大蛇のような姿をしている。


「見よ、火のように赤い大きな竜である。七つの頭と十本の角があり、その頭には七つの冠を戴いていた」


 唐突に、ニバスは読み聞かすような口調で語りだす。


「なんだよそれ?」

「ヨハネ黙示録の一節だよ。終末に、赤竜となってサタンは現れる。いまは制約があるからあのサイズだけど、あれが彼の、真の姿だ。黙示録の際に現出する彼は、尾の一薙ぎで地上を大洪水に陥れられるくらい巨大だよ」

「――グルォオオオオオオ!」


 七つの頭それぞれが、けたたましい咆哮を上げた。同時に起こった魔力の奔流は衝撃波となって、大地を覆うジュデッカの氷をことごとく、畳を反すようにめくり上げていく。

 スッとルシファーは無言のまま湊の前に立つと、その翼を広げて風除けとなってくれた。淡い光のヴェールに包まれると、飛来する氷塊は一切体に触れることなく全て弾き返される。


「これがサタンの力……。咆哮だけでジュデッカの氷を吹き飛ばすなんて。我ながら、なんて化物を生み出しちゃったのかしらね」


 まるで自嘲するように彼女は嘯く。しかしその声からは、諦念や諦観は感じられない――


「ルシファー、だい――」つい表情に不安を浮かべ、大丈夫か? そう訊こうとしたところ、

「心配しないで。私は負けない」少し食い気味に答えが返ってきた。


 ――どころか、背中で語る彼女からは、余裕すら感じさせる自信が溢れている。


「“私は負けない”か。大した自信だな、ルシファー。この悪魔王サタンがずいぶんと嘗められたものだ。だが黙示録前にこの姿を人間に晒すことになろうとは、俺も思いもしなかったぞ。……人間――」四本の角を持つ中央の首が言う。「貴様はいまの俺をその視界に収めるに値する。眼を見開いて我がアバドンを剋目し、冥途の土産にするがいい……」


 言い終えるなり、サタンは七つの首をもたげ、グバッと一斉に口を開かせた。

 一つひとつがアバドンの黒炎を吐き出しながら、それを集結させて真っ黒い劫火の球を作り出していく。


「ミナト、私の後ろで見ていてね」


 囁くように言って、ルシファーは一、二歩進んで足を止める。

 おもむろに十二の翼を広げると、鮮やかに羽根が散り、背に虹色に輝く光輪を背負った。緩やかに上げられる右腕。手を開いて構えると、刹那、黄金色に煌く魔方陣が掌から広がった。


「大丈夫、私なら出来る。覚えてる……」


 感覚を思い出すかのように、ぶつぶつとひとり言を呟く。

 悪魔王のアバドンは、その間見る見るうちに肥大し、膨張を継続していく。このままでは天を覆いつくす怒涛の勢いだ。


「まさかあれをぶっ放す気なのか……」


 下手したら次元隔壁が破れて、物質界と地獄が繋がりかねないほどの危険因子と化している。

 どう考えてもルシファーの細腕じゃあ頼りない気がしてならない。

 かといって、今の自分には見守ることしか出来ないのも事実。下手に魔法を使って、彼女の業の邪魔だけはしたくない。

 それに、彼女は「負けない」と言った。

 湊はそれを無条件で信じられる絆を、楔として心に宿している。戦友の彼女が、そう言ったのだ。自分は信じて、あとは見守るだけ。

 見る間に巨大な球体へと変貌を遂げたサタンの奥義。表面が小爆発を繰り返し、火焔を巻き上げるその様は、まさに禍々しい黒い太陽だった。

 対してルシファーの方はというと、先ほどから見た目の変化に乏しい。変わったことといえば、円環が荘厳な輝きを増したことくらいだ。


「ルシファー。今さら貴様がなにをしようが、俺の王の座は揺ぎ無い。自身の無力さを嘆き、未来永劫苦しめ――死黒獄炎アバドン!」


 地鳴りのような声とともに、それは無常にも解き放たれた。

 迫りくる破滅をもたらす黒。この世の全ての闇を寄せ集め固めたような、底の知れない暗黒色。月が太陽を覆い隠すように、光さえ侵食し喰らい尽くす深淵そのものだ。

 だがルシファーは焦ることなく斜め上へ手を掲げ、黄金の魔方陣の中心でアバドンを捉えた。

 キィイイインといった高周波音が、耳鳴りを起こさせる。


「私は、あなたには負けない。……ミナトにそう、約束したんだから! ――神魔滅葬陣ルツェルン=ラディエント!」


 強気な言葉とともに、手元の光輪を火砲がごとく勢いで発射した。それは恐ろしいほど絶大な黒炎を受け止めた瞬間に、円環の周囲へ計十個の光球を放つ。

 やがて光の球は配置変換しながら樹状に並び、それぞれが何本もの光の線によって結ばれていく。

 湊はその形に、見覚えがあった。


「これは、セフィロト……?」


 姉が持っていたカバラの専門書で読んだことがある。

 十個のセフィラと二十二本の小径を体系化したもので、神から流れ出でた聖性がセフィラを通して顕現することにより万物が創造されたとする、神秘思想カバラの概念を表した象徴図だ。


「まさか、その神聖魔法は――ッ」


 サタンが吃驚の声を上げた。


「そのまさかよ。私だけが持ちうる、主より授かりし神の力。自由意志を尊重するが故に、神ですら悪に対しての行使を躊躇う、あらゆる魔を打ち払い滅ぼす究極の禁術。……絶奥義――無限燐光流星乱舞アインソフオウル!」


 ルシファーが唱えた瞬間、十個のセフィラからガトリングガンのように青白い発光体が斉射された。それはジュデッカの大気を焼き払うほど光速で飛び交い、空に幾筋もの焔を引いた。

 まるで惑星の周囲を公転する衛星のような円軌道を描いて周回し、球状の光が黒炎を取り巻いていく。徐々に運動幅が狭まり黒炎へと近づく。

 サタンが放った巨大なアバドンへ絶え間なくぶつかると、消しゴムで消すように虫食い状態に削り、自身は糧とするように肥大していく。やがて何事もなかったかのように、完全に黒炎を消滅させた光球群はサタンの周囲を取り囲んだ。


「クソッ」


 ここへきてようやく悪魔王に焦りが見えた。

 身動きが取れないほど包囲されており、その場で地団太を踏みながら、七つの首がどこか逃げる隙間はないかと忙しなく動いている。

 ――と、光の球に長い尾が触れた。

 ジュッと蒸発する音とともに、尾の一部が消滅する。


「グォオオオオオオオ!」サタンが苦しげな呻き声を咆哮に乗せた。「ぐぅうう、ルシファー――ッ!」まるで怨嗟を唱えるように低く唸る。

「安心しなさい。なるべく苦しまないように一瞬で終わらせてあげるから」

「俺を嘗めるなよルシファー……俺は、悪魔王サタンだぞ!」

「あらゆるモノを自分の下に見てきたその慢心が、あなたの敗因だわ。私の半身なら、仕方ないことなのかもしれないけどね」

「俺は俺だ。他の誰でもない。お前は潰す、潰してやるからな……ッ」


 再びサタンは七頭の口を全て開く。喉奥から黒い煌きがあふれ出す。

 燃え滾る黒炎が口腔内に満たされて、あわや放出されようかというその時、


「――さようなら」


 ルシファーの唇がその一言を無慈悲に紡いだ。

 空を映した水晶玉のような光は、一斉にサタンへ襲い掛かる。まるで空間断絶でも起こったかのように血も肉も残さず、断末魔を発することすら許さずに、悪魔王の体は光の粒子だけを吐き残して跡形もなく消え去った。

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