5-6

「……終わったわね」


 疲れたように呟いて、彼女は静かに翼を畳む。


「ルシファー」


 湊は遠慮がちに声をかけた。

 しかし振り返った彼女の顔は、清々しさに溢れ達成感に満ちていた。


「約束どおり、勝ったわよ。ミナト」


 どこか得意そうに鼻を鳴らすルシファー。


「ああ。でも、一時はどうなるかと思ったけどな。そんなことよりお前、そんな力があるんだったら最初っから使っとけよな」


 最後までハラハラさせやがって。と少し意地悪く言うと、


「これは――」


 彼女が何かを言いかけたその時、突然ルシファーの体に異変が起こった。薄っすらと黒い霧に覆われたかと思ったら、真っ白に輝いていた翼が徐々に黒く染まり出したのだ。

 やがてそれは全体へと行き渡る。

 突如巻き上がった風に一気に霧が吹き飛ばされ、姿を見せた時、完全に羽は真っ黒に染め上げられてしまっていた。

 ただの一枚だけ白かった左上の翼も、羽根一枚すら残さずに黒染まりしている。


「なっ、どうしてッ!? 」

「――あれはたぶん、究極の虚飾だからなんだよ」


 湊の疑問に答えるように唐突に聞こえた軽い声。

 どこからともなく火炎が巻き上がり、棺を携えた悪魔が姿を現した。

 その容姿は湊よりも少し背の低い、十六、七歳くらいの女性のものだった。暑苦しいことに火衣に身を包み、相変わらず腕や角なんかは燃え盛っている。


「ベリアル?」


 自信なさげに尋ねると、


「やほー。サタンに勝てたんだね! す――っごいねー」


 ぺちぺちと、なぜか湊は腕を叩かれた。

 褒められてるのか、からかわれているのか、よく分からない反応だ。


「そんなことより、究極の虚飾って?」


 さらっと流して尋ねると、ベリアルは少しムッとした。


「ボクの本性見て、反応がそんなことってッ! ボクはすっごく悲しくなったよ? 涙で火炎が消えちゃうかも?」


 ウソ泣きの振りをして、チラッとこちらを窺う火の少女。

 少しは涼しくなって、こちらとしては願ったり叶ったりだ。なんてことは口にしたりしない湊だった。


「ベリアル、ややこしくなるから少し黙ってて」


 ルシファーに注意され、お口にチャックをして沈黙するベリアル。子供みたいに素直だ。


「私が天使の姿に戻れたのは、さっきベリアルも言ったとおり。究極の虚飾が発動したからで間違いないわ。私たちを繋いだ大罪の心の結びつき。それが限界を超えて一つになった、というか。なんて言ったらいいのかしらね。私たちの想いが重なったから、かな?」

「想いが……」

「氷付けされた時、湊は私に諭してくれた。自分が傷つくことも厭わずに、私に激励をくれたわ。私もそれに応えたかった。その時、私の中で何かが弾けたの。気づいたら、」

「あの姿に戻ってたってわけか」

「そう」とルシファーは小さく顎を引いて首肯する。「恐らく、もう二度と天使の姿には戻れないでしょうね……」


 そう言って、抱くようにして黒翼に触れるルシファー。その瞳は寂しげに揺れていた。

 今まで背負っていた十字架が、背負う覚悟だった罪の証が消え去ったのだ。喜ぶべきだろうと思いもしたが、そんな単純なことではないのだと、彼女の表情を見て湊は思う。

 簡単に考えられなくなるほどの時間をそうして生きてきたのだ。虚無感に苛まれても、誰も何も言えない。一時の哀愁に浸ることくらい、許されて然るべきだろう。


「でもさ、これでサタンは倒したんだし、一件落着だろ? そんなに次の心配することないんじゃないのか?」

「言っておくけど、サタンは別に死んだわけじゃないわ。大罪としてすでに定着しているから、存在そのものが消えたりはしないの。アバドンの深淵で百年間眠りにつくだけよ。百年経ったら、また大罪の悪魔たちは物質界で戦争することになるわ」

「は? 冗談だろ。じゃあ今回、こんなに苦労して倒しても……」

「百年後には、何事もなかったようにまた一同に会するわね」


 なんてこったと、湊は開いた口が塞がらなかった。


「でもまあ、そうね。湊の言うとおりだわ。次の心配をしたって何も始まらないものね」

「おっ、少しは前向きに考えられるようになったじゃないか」


 皮肉交じりにそう言うと、「あなたのおかげでね」そう言って優しく微笑み、ルシファーは正面を向いた。湊もそれに正対する。


「ミナト。あなたがいてくれたから、私はここまで強くなれた」


 湊はやわらかく首を横に振った。


「俺は別になにもしてないよ。お前は、やっぱり強かったんだ」

「あなたがそれを信じてくれたわ。本当に、心強かった。とてもね」


 言いながら、彼女は噛み締めるように胸に手を当てる。

 気がつけば、視界に蛍のように粒子が飛び交っていた。湊は足元に目をやると、すでに足首までが完全に空間から消えている。


「ルシファー、これって……?」

「もう、お別れの時間のようね――」


 残念そうに呟いて、ルシファーは湊の方へと駆けてきた。ふわりと鼻腔をくすぐった、甘い果実のような香り。

 不意に黒い翼が湊の視界を覆う。そして、いきなり彼女の唇が重ねられた。


「ん~っ! ん~っ!」


 離れた場所から、なにやら呻く声が聞こえてくる。

 ルシファーの唇がそっと離れ、ゆっくりと焦らすように翼が払われた。目の前にあった彼女の顔は、照れくさそうにはにかんでいる。


「不思議そうな顔して、どうしたの?」

「お前、いきなり何を……」


 呆然と湊は立ち尽くす。


「なにって、挨拶みたいなものでしょ?」


 今度は楽しそうに、彼女は悪戯そうな笑みを浮かべた。

 徐々に粒子となって消えていく湊の体。腰元までせり上がって来る頃、ルシファーが急に天に向かって手をかざした。

 つられて見上げると、ひとひらの羽根が舞い落ちてくる。彼女はそれを指でつまんだ。そして流れるように湊の方へと差し出してきた。

 ルシファーが手にしていたのは、光に透ける純白の羽根だ。


「これって、もしかしてお前の――」


 先ほど風に巻かれた際に飛んだものだろうか。

 彼女は小さく頷いて、


「私が天使だった証、あなたに持っていてほしいの。そして忘れないでほしい。あなたは決して、一人じゃないってことを」


 羽根を受け取ると、彼女は最後に伝えたいことのように語りだす。


「ミナトは、私があなたの理解者だってずっと思ってきたようだけど――」


 その言葉を遮って、「ああ、解ってるよ」湊は微笑みながら頷いた。


「音遠なんだろ。俺が願った理解者って」

「気づいていたの?」


 ルシファーは驚いたように瞠目した。


「遊園地くらいからかな、少し意識しだしたのは。もしかしたらって思ったのは、家で話した時だ」

「そう。それならいいわ。でも忘れないで、あなたの一番は私なんだから」

「わ、分かってるよ」


 釘を刺すように言われ、たじろぐ湊。


「まあ、死ぬまではネオンに貸してあげるけど、こっちに来たら覚えていてね」

「来なくても覚えてるから安心しろよな」

「そう」


 わずかに顎を引くと、もうなにも言うことはない。そんな満足したように彼女は笑った。

 もうジュデッカに残っているのは、とうとう首だけになってしまう。


「ミナト、あなたに出会えて、本当によかった。会えるのは何十年か後だろうけど、それまで私は待ってるわ」

「ああ、俺もだ。ルシファーに会えてよかったよ。まあ、死ぬその日を楽しみに、元気に音遠と生きてくさ」


 全てが終わった解放感、安堵感にさっぱりとした笑顔を浮かべると、


「あ、そうそう」彼女は思い出したように手を叩く。「あなたの姉の件、私に任せてね。なるべく早く保護するわ」


 もうすでにジュデッカから口まで消えた。「ありがとう」と、感謝やさまざまな想いを込めたその一言は、もう発せられない。代わりに湊は目で笑んで、その気持ちを彼女へ伝えた。

 そうして耳まで消えかけたその時――


『――大好きよ、ミナト』


 微かに聞こえた気がしたけれど、それに確信を持てないほど遠くぼんやりとした声だった。

 視界を埋め尽くすおびただしい光の粒子。

 最後に湊が目に焼き付けたのは、輝く光の中で佇む、泣き笑うルシファーのきれいな顔だった――――――。



「いっちゃった……」


 涙を拭い、ぽつりと寂しそうにルシファーは呟いて、粒子が天に昇るのを見つめていた。


「んー……」


 突然こもったような呻き声。


「ん?」と、ルシファーはそちらへ振り返る。「どうしたのベリアル、不服そうな顔して?」

「ん~~ッ!」


 火炎の少女はいまにも欲求不満が爆発しそうなくらい、眉間に皺を刻んでいた。


「ああ、黙ってろって言ったから喋らないのね。もういいわよ」


 ルシファーから許しが下りて「ぷはぁー!」っと大仰に息を吐くと、ベリアルは黒翼の堕天使へと詰め寄っていく。


「ひどいんだよ!」

「なにがよ?」


 きょとんとした顔で尋ねると、


「ルシファーのチューはボクだけのものなんだよ! ボクだけのチューなんだよ! チューしていいのはボクだけなんだからね!」


 凄い剣幕で捲し立てられた。

 飛んできた唾の飛沫を煩わしそうに拭いながら、


「なにを訳の分からないこと言ってるのよ。私の口付けは、愛する者に等しく与えられるものだわ」


 銀髪の堕天使は毅然とした態度で断りをいれた。


「ボクはっ!? 」


 目に涙を浮かべる火の少女。心底不安げな顔をしている。

「はぁ、」と小さく嘆息すると、「あなたとはここへ来る前に、したでしょうが」ルシファーは少し照れくさそうに頬を掻く。

 それを見て、ベリアルはにへらと笑って抱きついた。


「えへへー、ルシファー大好きなんだよぉ。んん~~いい匂いがする~」

「暑苦しいわね、離れなさいよ!」

「やだよー。今夜は寝かさないんだからね?」

「誤解を招くようなことを言わないでッ」


 絡み付いてくるベリアルの腕を解き、顔を押しのける。ふと、ルシファーは湊の居た場所に目を向けた。

「寂しくなるね」心情を察したのか、火の少女もまたうら淋しげに呟いた。しかし次の瞬間には、辛気臭さを吹き飛ばすような快活さで、「でも大丈夫なんだよ! ボクがついてるからね!」

 にこにこと笑顔の花を咲かせるベリアルへ、「そうね、」微笑を浮かべて頷くと、「あなたがいれば、退屈しないですむわね」ルシファーは晴れやかな表情を浮かべて告げた。


「さ、そろそろ帰るわよ」


 荒涼とした岩と氷の世界。

 じゃれ合う二人の声が、ジュデッカの高く静かな空にいつまでも響き渡った――。

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