5-4
すると、規則的に揺れていた噴煙が、突然地上から巻き上がる突風に煽られて雲散霧消した。
「――まさかッ!? 」
「クククッ。やはり児戯だったな」
噴火点から微動だにすることなく、サタンは腕組しながらその姿を現す。黒い鎧には、傷どころか燃えた跡一つ付いていない。
「あ、あれだけの爆発で、まったくの無傷だと……」
驚愕と、怖れと、絶望と。さまざまが入り混じった表情で、湊は愕然として立ち尽くす。
「所詮は虫けらの浅知恵か。悪魔王であるこの俺を、たかが自然災害レベルの攻撃で屠れるとでも思ったか。しかし、猿知恵ながらなかなかに愉快だったぞ。原初の人に知恵の実を食させた甲斐はあったということだな」
そう言って、サタンは肩を上下させながら嘲笑う。
「……ミナト、援護して」
言うが早いか、ルシファーは六枚羽を力強く羽ばたかせて急上昇する。そして中空で静止して瞑想を始めた。
掌から広がりを見せる神秘象形の連鎖が、徐々に魔方陣を紡ぎだしていく。
この光景には覚えがある。予想を裏切らないのであれば、恐らく、あの究極の凍結魔法を放つ気だ。
――まだだ。まだ自分にもやれることがある!
湊は気を取り直し、魔道書を持ち直す。いまは彼女のために時間を稼ぐことだけに集中する。
「
収束する一条の火炎が、一寸の狂いもなくサタンの顔面を目掛けて照射された。
露出している弱点部分を狙うのは戦闘の定石だ。
余裕の笑みを浮かべるサタンの顔を焼き払ってやろう。そんな思いをありったけ込めて放ったゲヘナの派生魔法は、しかし寸でのところで防がれた。
それも右手一つだけでだ。
よく見ると、その手は闇のような黒炎に覆われていた。やがて不吉な黒い炎は、喰うかのようにうねりながら火炎を侵食しだす。もの凄い勢いで焔が飲まれていく。
「くっ」
湊は咄嗟に手を引いて放射を止める。ピタリと黒炎の侵攻も止み、サタンの腕へと巻き戻っていく。あと少しでも判断が遅れていれば、あわや右手ごと焼かれるところまで黒炎は差し迫っていた。
「賢明な判断だ」サタンは見下すように鼻を鳴らす。
「くそっ、馬鹿にして!」
湊は再び悪魔へと右手をかざす。すでに頭に血が上り、冷静さを保っていられなかった。
「
魔法名を口にして粒子へ着火。爆発的に燃焼が広がり、悪魔王は四方八方からの爆裂に閉ざされた。
濛々と立ち込める煙の中に、直立する人型を確認する。すっと、そのシルエットが腕を上げ、こちらへ手を振り下ろした。瞬時に危険を察知し、湊はその場から飛び退くと――
今しがた足をつけていた部分から黒い炎が湧き出して、一瞬にして氷を、その下の大地を燃やし尽くした。
「よく避けたものだ。それにしても、貴様は馬鹿か? このような初心者向けの魔法で、俺に傷を付けられるとでも思っているのか。アダムの子孫なら、もう少し頭を使ってみせろ」
「そんなのやってみなけりゃ、分からないだろッ――
掌から発生した目の覚めるような青白い魔方陣。それは初めて目にするものだった。
悪魔王の周りを囲むように、どこからか生じた多数の流体金属。それは銀色をしており、うにょうにょと不気味に蠢きながら形を変え、鋭い針と先の尖った六角柱へ形態を変化させる。
「ほう。これはレヴィアタンの魔法系統だな」
悪魔王は感嘆の息を漏らす。そして、今まで余裕を見せていた表情に少しだけ影を落とし、両の手を広げて構えた。
「いけ!」
湊の号令とともに、瞬時に硬化して針状武器となったそれらは、一斉にサタンへ襲い掛かる。
その瞬間を、湊は目撃した。
刹那的な速さで、悪魔王の鎧から逆巻く黒炎が発生し、薄く体を包みこんだのだ。
アバドンの薄衣に包まれたサタンは、迫り来るすべての水銀を容易く焼却する。パチパチと音を立て、電離した水銀分子が白色の炎色反応を示した。
やがて黒い炎が治まると、空気中に鮮やかな朱い水銀灰だけが舞い、氷上に降り注いで散らされた血模様を描く。
「これでも、ダメなのか……」
ことごとく攻撃が無効化され、湊の表情が諦念に色濃くなりかけた。
その時、
「――ミナト、ゲヘナで身を守って!」
上空からルシファーの急き立てる声が降ってきた。
念のため二歩、三歩と後ろへ飛び、湊は足元へ手を叩き付け、自身を囲う魔方陣を描く。直径にしておよそ二メートル。ゆとりあるサークルの縁が徐々に燃え出し、細い火柱が立ち上る。
地上から見上げると、それを見届けた堕天使が静かに頷き、口にした。
「
全天を覆いつくすほどの無慈悲なまでに巨大な円環から、膨大な冷気が噴出した。
余裕からなのか、サタンは身動き一つせず天上を睨め付ける。やがて音もなく這いよる霧に包まれて、その姿が完全に見えなくなった。
瞬きの間さえ与えずに、ルシファーは魔力を放出し、一瞬にして途轍もない量の氷槍を空中に出現させる。ずらっと整列する様は圧巻だった。
それら一つひとつが非人道的でえげつない形に枝分かれしており、以前見た時よりも遥かに殺傷能力が高そうだ。
「刺し貫け!」
攻撃的な言葉を以って命を下すと、意思を持つかのように氷の槍が降り注ぐ。圧倒的な物量によるその光景は、さながら降りしきる五月雨の如く。
アスモデウスの時と同様。例に違わず、地上に落下した氷槍の着弾点からは、剣山みたく鋭い針山が形成されていく。急激に成長を遂げた氷は、サタンを内包してウニ状に拡大した。
「やったか――ッ!? 」湊の期待の眼差しは、すぐに驚愕に瞠目する。氷獄霊葬の中心点である悪魔王の体から、滲むようにして再び闇が溢れ出していたのだ。
「くっ……硬直を狙ったのに、なんてことなの」
地上へと降りてきて、悔しそうに歯噛みするルシファー。かなりの魔力を消耗したのか、肩で大きく息をしている。
あれだけの量だ、疲れて当然だ。それに奥義と呼ぶべき威力を誇る魔法が通じなかったのだ。これほど精神的にくるものはないだろう。
もう、成す術はないのか……。
「――いや、」湊は強く頭を振って「俺には、まだやれることがある!」
意思をより強固にし、サタンを睨みつける。そして、おもむろに魔道書を足元へ放った。
「ミナト、あれをやるつもり?」
「やるしかない。まだあいつの自由が利かない今しかチャンスはないと思う。ルシファー、下がっててくれ」
最大の威力を発揮できるのは、たったの一度だけ。
『ただでさえ制約を掛けられた仮の器だからね。いくらルシファーの魔力を使うといっても、無限にあるわけじゃないんだよ?』というのはベリアルの談だ。
ジュデッカに来てからというもの、既に二人は相当の魔力を消耗してしまっている。この一撃を外せば次はないと思わなければ。
湊は両の手を広げて対象へ向ける。敵愾心を燃やして精神力と混ぜるようなイメージで。火炎の息吹をその身で感じ、一から神秘象形を紡ぎだす。連なっては組み合わさり、配列を組み換えながら複雑な文様を描いていく真っ赤な焔。
「くぁ……さすがに、きついな」
ベリアルの火焔領域では炎がアシストしてくれていた。だが今はそれもない。
体どころか魂までもが引きずり出されそうなほど、あらゆる力が吸い出されていく感覚。
気張り、踏ん張りながらもなんとか描き上げた炎の円環は、まるで複製するかのように一つ、またひとつと氷の針山へ向かって飛んでいく。
「ミナト、もう少しよ!」
心強い声援を背に受けて、湊は持てる力を振り絞った。星幽体でも負荷に耐えられず、腕の至る所が爆ぜ割れ血飛沫が上がり、血霧となっては一瞬で蒸発した。
唯一、痛覚がないことが救いだった。
最後。勢いよく手元の魔方陣をサタンのいる頭上へと放つと、それは円を広げて静止した。
周囲を取り巻く無数の魔方陣を旋回させ、「敵対者はサタンだ――」目標をはっきりと口にし、極まった害意を剥き出しにする。そして――
「灼熱の業火よ、全てを焼き尽くせぇえええ!
唱えた瞬間、旋回する焔の新円から摂氏六千度を超す火炎が一斉に放出された。
それらはただ一点、サタンを標的に莫大な熱量を吐き出し続ける。
一瞬にして氷獄霊葬の檻を溶かし尽くすと、赤熱円はぐるぐると位置を変えつつ旋回した。辺り一帯は蒸発し、水蒸気も凍り付くことなく霧消する。
ふらりと足から力が抜け、倒れそうになった時、ルシファーがそっと抱きとめてくれた。
「ここは危険ね。離れましょう」
そう言って湊を抱いて、現場の様子が覗える安全圏へと退避する。
氷上から突き出した氷の柱に手を付いて、湊は事の行く末を見守った。
放射された無数の炎。それはサタンの黒炎を押さえ込もうと、寄り固まって球状を成していく。表面が対流し、時折火炎を噴き上げるその様は、まさしく太陽のようだった。
やがて空中で静止していた一際大きな魔方陣から、血の如く鮮やかな炎が垂れ下がってくる。業火の球へそれが触れると、球体は赤から白へ一気に変色し――刹那、衝撃波を伴って大爆発を起こした。
咄嗟にルシファーが翼で覆ってくれ、爆轟波から身を守ってくれる。
彼女に包み込まれながらも、湊は一抹の不安から問いかけずにはいられなかった。
「ルシファー、やったよな? 俺たちの、勝ちだよな? ゲヘナまで使ったんだ。これで駄目なら――」
「駄目なら、なんだ?」
突然、後方から心臓を鷲掴まれるような冷ややかな声がした。いまだゲヘナの火は衰えていない。にもかかわらずだ。
「なん、だと……」
背筋から怖気が一気に突き抜け、体を強張らせる。これ以上ないくらいに、本能が絶望を感受した。
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