4-2

「ルシファー……」


 自分は彼女の契約者で主人だ。だから自分がなんとかしなければ。そんな想いに駆られ名を呼んではみたものの。

 ――続く言葉が見つからなかった。湊はそのまま言葉ごと息を飲み込む。


「……慰めなんていらないわ。そんな安っぽい同情、ケルベロスだって食べやしないもの」


 ドレスの袖で涙を拭うと、俯いたままでルシファーは続けた。


「そうよ。私は未練がましい女だわ。ベルゼブブが言うとおり、いつまでもこんな半分になった翼を醜く背負ってる。王になれば、願いを一つ叶えられるのよ。もしかしたら……そんな淡い期待を抱くのも仕方ないでしょう。夢くらい、見たっていいじゃない」


 自嘲するように思いの丈を打ち明ける。

 悪魔王になればその特権が与えられる。そこに希望を抱いているということだ。何百年何千年と否定され続けても、その思いだけは持ち続けていた。

 いつか叶う日がくることを信じて。


「でも夢は、いつか覚めるものなんだよ、ルシファー」

「…………そうね。ベリアル、その通りだわ。いまさら人間を憎んでもどうしようもないこと、理解してる。堕天した者が救われないことも、解ってるわ。けどね、救いを求める願いが、私の支えになってたことも変わりない事実なの。それさえも失ったら、私は何を拠り所とすればいいの? 何を目的に、あのつまらない地獄で生きていけばいい?」


 まるで聖母像に救済を求める終末の人のような、懇願する瞳がベリアルを見上げた。


「ルシファーにはボクがついてるよ。悠久の時を傍で見守ってきたんだよ。生まれも近いから、ずーっと君の事をお姉ちゃんだと思ってた。だから頼ってきた。けど、君が心の拠り所を欲するのなら、ボクがその支えになるんだよ」


 迷いなく口にして、なぜかベリアルは湊に向き直った。その顔は優しげに笑んでいる。


「きっと、君の契約者もそう思ってくれるはずだよ」


 急に話を振られて面食らったが、湊も想いはベリアルと一緒だった。心の内を明かすことは、とても勇気がいることだ。

 自分の求めた理解者が心の拠り所を求めているのなら、自分もその柱の一つになろう。悪魔とそんなことで協力し合うっていうのも可笑しな話だけれど。

 ルシファーの安らげる家を、二人で作ってやれればいい。

 湊は心に決意を抱き、躊躇いなく頷いた。


「ありがとう、虚飾の人」


 現れた時と同様、幼い顔に満面の笑みを咲かせるベリアル。

 湊はルシファーの傍らにそっと腰を下ろし、その華奢な肩を抱いた。百年ごとに死闘を繰り広げているとは到底思えない、やわらかな少女の体。

 優しい匂いに包まれた、ルシファーの身体。


「ミナト……」

「目的なんて、作っちゃえばいいだろ」


 えっ、と少女の瞳が丸く見開かれた。


「俺は死んだら地獄逝きなんだろ?」

「……ええ」

「だったら、俺を待っててくれよ。何年生きるか、仲間内で賭けてくれててもいいぞ? 少しは暇つぶしになるだろ」


 肩を抱いていた手をおもむろに頭へ移し、


「そして――俺が地獄に行ったらさ、また一緒にこうして暮らそう。それで、今度はいろんなところに連れてってほしい。お前が見てる景色、吸っている空気。何に感動して何に怒るのか。ぜんぶ俺にも共感させてほしい。ああ、お前と同じところに逝けるか分からないけどさ」


 白い歯を見せながら、わしゃわしゃと銀髪を撫でた。

 せっかくさっき袖で涙を拭いたのに、またルシファーの瞳には大粒の水溜りが出来ていた。しかしその表情は、先ほど見せた悲痛なものではない。

 頬を少しだけ紅潮させた、晴れやかな泣き笑いだ。

 一瞬、油断したと苦い顔をすると、少女は表情を隠すように湊の胸へ顔をうずめてくる。

 背中に回された両腕が、ぎゅっと締め付けてきた。

 まさかルシファーがこんな風に抱きついてくるなんて思いもしなかった湊は、目をパチクリとさせた。しかし、着ているシャツの胸元が濡れているのに気づき、何も言わずに小さな堕天使の体を抱きしめる。壊れないように、そっと優しく。

 しばらくして落ち着いたのか。湊の胸に顔を押し当てたまま、少女は静かに口を開く。


「安心して――っていうのも変な話だけど。ミナトが落ちるのは、私と同じジュデッカよ」

「そっか。よかったよ」

「ボクもいるんだよー!」


 急に首に手を回されたと思ったら、ベリアルまでくっ付いてきた。


「うわっ、あちっ、あっちーー!」


 顎と首がチリッとして、ジュッとした。なんだか焦げついた臭いがする。


「あ、ごめんごめん! そうだった、火炎を纏うのに物質界の炎使ってたんだ。生身の人間は熱いんだったよ」


 てへっと舌をぺろりと出して、ベリアルは慌てて離れる。その顔は、申し訳なさそうに見えなくもない微妙な半笑いだった。


「お前、わざとやっただろ」

「それは言いがかりだよ? ボクは意外と天然さんなんだよ。だから勘弁して欲しいかな?」

「天然のやつは、自分で『天然さんなんだよ』なんて言わねえよ。尻尾出しやがったな!」

「ボクは最初っから尻尾を隠してないよ?」


 ……確かに。実に悪魔っぽい、トランプのスペードみたいな形をした尻尾が丸見えだ。

 ――ってそうじゃなくて!


「ミナト――」


 火の少女へ猜疑的な眼差しを向けていると、下から声がした。

 見下ろすと、上目遣いのルシファーと目が合う。

 一瞬で釘付けだ。ベリアルなんか視界の端にも映らない。


「決めたわ」

「なにを?」

「私の、願い」

「……聞いてもいいか?」


 問いかけに、黒い翼の少女はこくりと頷き、


「その前に聞かせて。あなたは、お姉さんに会いたい?」

「それは、会えるものなら会いたいけど……って、会えるのか?」

「普通じゃ会えないわ。あの時、ベルゼブブの領域で感じた霊魂の残滓からは、間違いなく罪のにおいがしたの。ベルゼブブに喰われただけならまだよかったんだけど。おそらく彼女は、第六圏である異端地獄にいる」

「異端、地獄」


 名称を聞いて、湊には少し思うところがあった。

 その一瞬の心の機微を見逃さないルシファーは、なかなかに目ざとい。


「思い当たる節があるようね?」

「ああ。以前、姉ちゃんがソロモンの七十二柱の悪魔について話してたんだ。まさかと思ったけど、……まさかな?」

「そのまさかよ。あなたの姉は、七十二柱の悪魔の誰かを呼ぼうとした」

「やっぱりか」


 案の定だった。心配事や気掛かりをことごとく的中させられる悪い姉だ。


「けど、召喚には至らなかったみたいね」

「それならボクも感じてたよ」


 横合いから顔を出す火の少女。


「そういえば、ベリアルは七十二柱を束ねる一人だったわね」

「まあ、大罪と比べたらあんまりパッとはしないんだけどねー」

「それで、姉ちゃんにはどうやったら会えるんだ?」


 なんとなく話が逸れそうだったので、それとなく元の軌道に修正する。


「私が悪魔王になれれば、同じところに落とすことも可能かもしれない」

「第六圏から、第九圏の最終地獄まで、か。リスクは?」

「分からない。今までそんなことを試した者がいないから。最悪、呪力差で霊魂がロストすることになるかもしれないわ」


 消滅って……。でも、それならそれで、永遠に続く地獄の責め苦を受けなくて済むからいいかもしれない。湊はふとそんなことを思う。


「あなた今、それならそれでいいなんて顔してたでしょ?」

「なんで分かったんだよ」

「霊魂に私の霊核の欠片を打ち込んでること、忘れないでよね。言っておくけど、地獄の呪力差は人間が考えるそれとは比較にならないのよ。あなたにも解りやすく言うと、一圏下がるだけで地獄の責め苦を一万年繰り返すよりも遥かに辛く、長い痛苦を味わうことになるの。繋がれた縛鎖を引き千切って落とすんだから、相当なものよ」


 要約してくれたのは有難いが、正直よく解らなかった。地獄の責め苦とやらがどんなものか、湊には想像だにできない。


「それじゃあ打つ手なしじゃないか」


 だが、第六圏にいても、第九圏まで落としても、苦しむことになるんなら結局は同じことだ。


「でも、」


 しかしルシファーは、どこか納得してないように眉間に皺を刻んで思慮している。

 その時だ。肩をちょいちょいと突かれた。


「あのさ、ボクに考えがあるんだけど」

「どうせまたロクでもないことでしょ?」

「そんなことないんだよ! 一生懸命考えたんだもん」

「とりあえず、聞かせてくれ」


 この際だったらなんでもいい。藁にもすがる思いで、とにかくアイデアが欲しかった。


「あのね、いま建造中の万魔殿が、たしか第五圏までほぼほぼ完成してるんだよ。もしかしたら、万魔殿の中からなら呪力差を気にせず落っことせるかなって思ったんだ」

「万魔殿?」


 そういえば、さっきの話にも出ていたっけ。強欲のマモンはそれの建造指揮を執ってるんだったか。


「悪魔たちの家みたいなものなんだよ。最終地獄ジュデッカから第一圏の辺獄までぶち抜きで、二兆六六五八億六六七四万六六六四人の悪魔と、一億三三三〇万六六六八人の堕天使をぜんぶ収容出来るすごい建物! を予定してるんだよ」

「いったい全部で何人いるんだよ……」

「知らないよ?」


 おい……。


「けどあれは、各圏各階層ごとに分厚い障壁で隔絶されてるじゃない。もし穴なんか開けたら、ここぞとばかりに罪を軽くしようと氷地獄から抜け出そうと考える馬鹿も出てくるはずよ?」

「そこはルシファーが王になった時にでも威厳を発揮して、抜けようとするやつらはみんな氷漬けにしちゃうって脅せばいいんだよ。そのための氷獄霊葬コキュートスだもん――」

「違うわよ。そんなことの為に、氷地獄の名を冠した魔法を生み出したわけじゃないわ」


 間髪を入れずに黒の少女は呆れた顔で否定する。

 火の少女はつまらなそうに口を尖らせると、半ば投げやりに言った。。


「だったらブブに頼めばいいよ」

「ブブって、……まさかベルゼブブか?」


 湊は不安を顔に刻む。

 それはそうだ。自分の姉を殺したのはベルゼブブなのだから。


「そうだよー。ブブの蝿さんたちは呪力や重力なんてものともせずに動けるんだよ。ブラックホールの超重力の中でも飛び回れるくらい平気なんだから。おっきな蝿さんに連れてってもらえば万事解決!」

「ベルゼブブねー」


 先の戦闘で辛酸を舐めさせられたことを思い出したのか、ルシファーはあからさまに嫌そうな顔をする。そもそも、他人に頼ることを彼女のプライドが許さないのかもしれない。


「ブブならきっとなんとかしてくれるよ! ルシファーの契約者のこと、面白いやつって褒めてたし」

「そうかしらね」


 面白いやつ? 湊は少し馬鹿にされているような気分になり、ぐぐっと眉根を寄せる。


「まあなんにせよ、サタンに勝たなきゃこの話し合いもぜんぶ無駄になるんだけどな」


 湊の一言に、室内が時を止めたように沈黙した。


「あれ?」


 おかしなことを言ったかな? 頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、「はあ……」ルシファーがため息をもらす。「でも、そうね」言って彼女は続ける。


「今まで一度も勝てたことのない相手だもの。本当にこの談話が無意味になることは十二分にあり得るわ」

「けど後悔しないためにも、俺は砕けるなら全力で当たって砕けたい。やれることをやり切って、それで負けて死んだとしても文句は言わないさ。まぐれで勝てたら儲けもの。たとえ免れない死であったとしても、姉ちゃんの分まで最後まで生きて、悪足掻いてみせる」


 真剣な眼差しをルシファーへ注ぐ。それに対して、彼女は真正面から想いを汲み取り、頷きで応えてくれた。


「おお、初めて君がちょっぴりかっこよく思えたよ。どうやら嘘は付いてないみたいだよ?」

「いちいちそんなことを報告しなくても解ってるわよ、ベリアル」

「いやまあ、一応ね」


 にへらと笑い、火の少女は頬を掻く。


「どういうことだ?」

「ベリアルは最もらしく嘘をつく悪魔。故に、嘘を見破ることにも長けているってだけ」


 それを聞いて、ある疑問が急浮上してきた。


「今までのことが全て嘘である可能性は……?」

「ボクはいま、単純にメッセンジャーとして来てるんだよ? 大罪の代理で戦争に参加しているのならまだしも。だから嘘はつかないんだよ。それに――」


 ベリアルはいったん言葉を切り――


「少なくとも、ルシファーへの想いは決して嘘じゃないんだよ。それだけでも信じてくれれば、ボクは嬉しいかな」


 そう言って笑う少女の顔は、本当に無垢で穢れのない清涼なものだった。

 ベリアルも、心から好きなのだ。この少し不器用で、ちょっと傲慢な堕天使のことが。


「わかった。俺はお前を信じるよ」


 人間不信な自分が、悪魔に対しこれだけはっきりとその言葉を口にしたことに、湊は自分でも驚いた。虚飾の罪に引きずられ、エントロピーがマイナスへ大きく傾いているようだ。


「相手はあの憤怒のサタンなんだよ。油断大敵だよ?」

「そうね。我が半身みたいなものだけど、にもかかわらず、途方もない彼我の戦力差は目に見えてるけど。油断なんてものは当の昔に捨ててるわ。全力で当たるだけよ」


 いま、聞き間違いじゃなければ、“我が半身”って耳が拾った気がした。湊は顔を引きつらせ、控えめに手を上げる。

 質問を尋ねる生徒に向かって、「どうしたの?」とセクシーな女教師のように胸を抱え、少し斜に構えながらルシファーが促す。


「あのさ、サタンがお前の半身って聞こえたんだけど。それは一体どういう……?」

「言葉通りの意味よ。サタンは、私から生まれた悪魔なの」

「おいおい、マジかよ……」

「――いや、これじゃ語弊があるわね。訂正するわ。私の憤怒の感情が体を得て、一人歩きした存在なのよ――」


 ルシファーは語る。

 天使の三分の一を率いて天界で叛乱を起こし、副官であったミカエルに敗れて最初に堕天させられた。その際、エデンの重力に引かれて落ちるところまで落ちたルシファーは、物質界とは次元隔壁で隔絶された高次元の世界に、すり鉢状の大きな穴を穿った。その大穴こそが地獄だ。

 地獄の底から彼女は神を憎んだ。今までに感じたことのない怒りに身を焦がした。その際に発現した憤怒の感情が霊的質量を持ち、サタンが生まれたそうだ。

 純粋な怒りをもって生まれたサタンは、天界最高位の天使だったルシファーの半身ともあり、最初から強大な力を備えていた。

 彼はリリスという夜の女王と毎日のように交わり、たくさんの子供を作った。それが、いまも無尽蔵に数を増やしているという悪魔たちだ。

 そうして彼は全てを統べるべく、地獄で悪魔王を名乗るようになったという。


「そういう事だったのか」


 ようやく合点がいった。アスモデウスが言っていた「化物を生み出すことになった」という言葉。ルシファーの領域へ落ちた時に彼女が見せた憂いの表情。ベルゼブブの「キミに次ぐ」という台詞。

 やっと全てのピースが組み合わさり、一つの絵となって完成した。

「んん?」と唐突にベリアル。

 なにやら自分の背後を気にしているようだ。湊は振り返る。

 音遠が呆けた老人のように、ベッドに腰掛けぽかーんと口を開けて放心していた。


「音遠、大丈夫か?」

「……ぜんぜん話がわからなかったよ」


 そりゃあそうだ。関係のない人間からしたら、ちんぷんかんぷんな話だろう。もし自分が同じ立場であったのなら、もうお手上げだ。

 音遠の翠眼と視線を交換し合っていると、ぐぅーっと緊張感のない音が聞こえた。ぼけーっとしていた音遠の頬が朱色に染まり、仕舞には耳まで真っ赤になった。腹の虫がなったらしい。


「お腹、……空いてるのか?」


 恥ずかしそうに俯き、彼女はこくりと、遠慮がちに小さく頷いた。

 気づけば、窓の外はもう黄昏ている。そろそろ夕飯時だ。


「それもそうだわ。あなたが目覚めるまでのこの二日、まともに食事してないんだから」

「なっ――それを早く言えよっ」


 湊は部屋の扉を押し開けて、音遠を連れてリビングへと向かった。

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