5-2

 鏡をくぐれば、そこは雪と氷に閉ざされた静寂の世界だった。これで来るのは二度目となる。ルシファーの、そしてサタンの領域。


「――来たか」


 シンとした無音でさえ音として聞こえてきそうな静寂の中、低く玲瓏な声が響いた。

 見ると、すでに氷上に二人の男の姿がある。一人は膝をついて折り屈み、黒衣の男に恭しく頭を下げていた。黒い道化の衣装からニバスだと思われる。

 そして――


「あれが、悪魔王サタンか」

「ええ」


 確認するように呟くと、ルシファーは静かに頷き答えた。

 頭巾の付いた黒い外套を脱ぎ去り、その男は姿を現す。頭には十本の黒い角。肩甲骨まで伸びる頭髪は黒々とし、瞳は赤く怒りに燃えている。

 二メートルはあろうかという、膂力の強さを感じさせる筋肉質な巨躯を包み込むのは、いかつい漆黒の鎧だ。腕や胴、脚など鎧の各所が黒炎に燃え盛っている。


「やはり最後はこうなるか。なあ、ルシファー?」

「そうね。あなたも、いいえ……私もそれを望んでる――」


 言って、銀髪の少女は翼で体全体を覆う。やがて蕾が開花するように一枚一枚の羽が開き、ベルゼブブの時と同様、大人の姿に戻った彼女が現れた。


「相も変わらず、まだそんなものを背負っているのか。我ながら醜く、嘆かわしいな」


 いまだ一枚だけ純白の彼女の羽を見て、サタンは呆れ交じりにため息をついた。


「確かにこれは未練の証だわ。でも今は、違った考えも出来るようになったの」

「ほう」と感心したように眉尻を上げる悪魔王。

「これは戒めよ。愚かにも神へ叛旗を翻した自分への、そして怒りに身を焦がし、あなたを生み出した事への贖罪の証。たとえ醜いと罵られようが、愚かだと笑われようが。私は黙示録までこの十字架を背負って贖い続けるの。それが大罪を二つ内包する私の宿命だから」


 ルシファーの決意を黙って聞き終えたサタンは、「ふん」と不愉快そうに鼻を鳴らした。


「貴様がそのような答えに行き着くとはな。黙示録までの暇潰しに始めたこの遊びも、存外無駄ではなかったということか。そして――」口元に冷笑を浮かべ、「その答えへ導いたのはそこな人間か?」悪魔王の真紅の瞳が細められ、鋭い眼光がこちらへ向けられる。


 ルシファーの半身と言われれば、なるほど睨まれている感覚は似ている気がする。だが、正面から睨まれているのに、常に背後から殺気を感じるという感覚はまるで別物だった。

 一歩でも動けば即座に刺されそうなほど、全身に悪寒が纏わり付く得体の知れない嫌な恐怖感。

 思わず魔道書を握りしめた右手が震えていることに気づいた。


「見れば『傲慢』ではなく『虚飾』のようだが。ニバス、これはどういうことだ?」


 湊へ冷徹な視線を投げつけたまま、サタンは道化師長へ問い質す。

 折り屈み、恭しく首を垂れたまま、


「たまには趣向を変えてみようかと思いまして。別に他意はありませんよ」


 同時に向けられる殺気を意にも介さず、ニバスは風でも受け流すかのように軽く返事した。


「ふん、まあいい。気まぐれで初めて降り立った地で、気が大きくなることもあるだろう。作為であれ無作為であれ、契約者の選定はお前の恣意に一任してあるからな。……文句はない」


 サタンは半ば不満そうに吐き捨てながらもグッと右拳を握りこむ。すると指の隙間から黒い猛火が噴出し、渦を巻きながら拳から肘までを覆った。


「ミナト、くるわよ」


 至極冷静な声音。緊張なんて微塵も感じさせない、いつも通りのルシファーだった。

 が、


「っ――あ、ああ」


 飲みこみ損ねた唾がのど奥に絡んで、うまく返事が出来なかった。

 いよいよ戦闘が始まる。泣いても笑ってもこれが最後だ。

 物質界で生きることを諦めたつもりなんてさらさらない。どころか、ここへ来るまでは七割くらい勝つつもりでいた。新しい魔法を習得し、気が大きくなっていた。

 しかし、今しがた浴びせられた殺気の気配が常に付いて回っているようで。

 持っていた気迫をどこかへ落としてしまったみたいだ。カクカクと膝が笑っている。今にも脱力し崩れそうだ。

 と、気づけば、今さっきまで目の前にいたサタンの姿が消えていた。


「あれ、あいつは――」

「ミナト、避けてッ!」


 索敵しようと首を振ったところで、突然、左肩に強い衝撃を受けた。脳みそがぐるんと揺れる。次の瞬間には体が吹っ飛ばされていた。刹那、轟音とともに何かが吹き上がる音がする。

 十数メートル飛ばされ、受身も取れず湊は肩から滑らかな氷上に滑り込んだ。何がどうなったのかを確認するため、元いた場所に目を向ける。

 まるで農薬散布のようにもくもくと水煙が立ち込め、中から巨大な水柱が突き上げている。やがてそれはジュデッカの外気に晒され凍りつき、三十階建てのタワーマンションほどもある奇怪な樹氷となって聳え立った。


「ルシファー!」


 咄嗟に自分を蹴り飛ばして非難させてくれたのだろう。透き通る氷柱に閉ざされた彼女は、こちらへ蹴りを入れる形で凍り付いていた。

 湊は静かに魔道書を構える。意思に呼応し淡く輝き、めくれたページの魔法名が発光した。


焦熱炎轟衝ヴォル・イート・ロア!』


 赤熱する魔方陣から、怒涛の如く炎が溢れ出す。大氷河の氷を溶かしながら膨大な水蒸気を撒き散らし、逆巻く波となって火炎が踊り狂う。


『ジュデッカの氷は並みの炎では溶かせない』アスモデウスに放ったルシファーの言だ。それを思い出し、選択してよかったと思える。

 氷柱へと到達した火炎は根元を完全に溶かし尽くし、まるで氷を食するようにして丁寧に舐め上げていく。やがて火柱に包まれた氷の柱は完全に溶解し、水蒸気は雪となって舞い散った。


「けほ、けほっ」


 可愛らしく咽る声が聞こえる。どうやら無事みたいだ。湊は胸を撫で下ろす。

 今しがた溶かした氷河の氷がすぐに凍り始め、その上を湊は駆け出した。


「ルシファー、大丈夫か?」

「え、ええ。だいぶ水蒸気吸い込んじゃったけど、私は大丈夫よ。それよりミナトは? かなり強く蹴り入れちゃってゴメンね」

「なに言ってんだ。痛みは感じないから大丈夫だよ。それに、お前が蹴り飛ばしてくれなかったら、今ごろ死んでたぞ」


 改めて現場を見やる。氷柱が立っていた場所はすでに凍りつき、更地になっていた。しかしよく見ると、薄っすらとだが広範囲にわたって盛り上がる、波打つ円形の線が確認できる。

 おそらくこれは、先ほどサタンが繰り出した攻撃によるものだ。拳に炎を纏わせて――


「まさかあれ、ただ殴ったわけじゃないよな?」

「そのまさかよ。アバドンの黒炎を纏わせて、ただ殴っただけ。でもそれ自体、私たちにとっては魔法みたいなものなの」


 身を以って体感した。掠っただけでもロストしかねない破壊力だ。

 身震いし、今にも恐怖に竦みそうだが、ここで湊は自身の大罪を思い出す。

 そして恐怖心を虚飾で塗り固めた。自己暗示。そんな効果としてもなかなかに便利な大罪だったり。

 なによりも、ルシファーを助けるのに自分の力が役立ったことが嬉しかった。アスモデウスの時は見ていることしか出来なかったから。


「それにしても、いい選択だったわね。焦熱炎劫灼烈弾イグニスキュラーだったら、私までダメージを負っていたかもしれない」


 確か対象の内部にゲヘナの種火を埋め込み、中から爆発炎上させる魔法だったか。

 ベリアルが言うには、あの威力で『ゲヘナの初心者向けハウツー魔法』なのだそうだ。選択肢になかったわけではないが――とそこで、湊にある閃きが生まれた。


「なあルシファー。ジュデッカに大地はないのか?」

「いきなりどうしたの?」彼女の瞳がまん丸く見開かれる。

「いいから答えてくれ。っていうかサタンは?」

「さっきの攻撃で、今はたぶんこの下深くにいるんじゃないかしら」


 あれだけの攻撃だ。この氷河の深さがどれほどか想像だに出来ないが、かなり深くまで潜っているのなら好都合。


「それでどうなんだ。地面はあるのか?」

「あるにはあるけど、永久凍土よ? その上には分厚い氷が張ってるわ」

「岩石なんかは……?」

「マモンが言うには、ごろごろ混じってるらしいけど――」

「よし決まりだ! 俺をそこまで連れて行ってくれ」

「どういうこと?」


 切迫している状況にもかかわらず、ルシファーは説明を求めてきた。


「いまは説明してる時間が惜しい。とにかく俺を信じてくれないか」


 真っ直ぐに彼女の瞳を見つめると、不意にルシファーがふっと笑った。


「ミナト、いい顔をするようになったわね」

「そうか?」

「いいわ。あなたに考えがあるのなら、私もそれに乗ってあげる。つかまって」


 そう言って差し出してきた彼女の手を、湊はしっかりと握り締めた。翼を羽ばたかせて静かに浮上すると、ルシファーは大地のあるその場所へと飛行する。

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