3-6
湊が魔法を放ったのを合図に、堕天使と悪魔の戦いにも火蓋が切って落とされた。
「どうやら始まったようだよ」
ベルゼブブが横薙ぎにした右腕から、凄まじい風圧を伴った黒い光弾が六つ射出される。螺旋に回転するそれらは周囲の風を取り巻いて、一つひとつが先の尖った竜巻状に形態変化した。
「そのようね」
焦ることなく、迫り来る魔力の塊を全て翼で弾き返し、ルシファーは不敵にも口角を上げる。
「どうして笑っているんだい?」
悪魔の問いかけに、彼女は小さく鼻を鳴らしてあしらった。
「あなたが正々堂々と戦ってくれるおかげで、私はミナトに安心して地上を任せられるもの」
「ずいぶんと信頼してるんだ。けど、それはどうだろうね」
言って笑い返すベルゼブブに、彼女は怪訝そうに眉尻を上げた。
「ここはボクの領域だ。何が起こるかは分からない、だろ?」
「あなたこそ、ミナトを見くびり過ぎだわ。彼はゲヘナを召喚した。あんなゴミ共を束にしてけしかけたところで、戦況が優位に傾くことはないのよ」
「それならさっき感じたよ。でも下位魔法だろ。そのくらいで勝利を引き込めるとでも?」
ニッと犬歯を見せるベルゼブブ。おもむろに手を前方へかざすと、どこからともなく光る蝿の群れが現れた。宙を飛び黒い魔方陣を描いた蝿たちは、円環の前で不規則な飛び方をする。
魔方陣から漏れ出す膨大な魔力を糧に、目にも留まらぬ速さで蝿が何かを紡ぎだしていく。
「キミにこれを使うのは何年ぶりだろうね。早々に消えてくれるなよ、ルシファーーッ!」
怒号とともに陣が弾けた。ちょうど蝿が作り終えたのは、直径五メートルはあろうかという漆黒の球だ。土星の輪のように、幾何学な神秘象形の輝く帯が何重にも張り巡らされている。
「これはッ!? 」
ルシファーが目を剥いた。かつて戦った際に、一度だけ目にしたことがあった魔法だ。
球が弾けると散弾のように飛散し、触れるもの全てを消滅させるもの。
あの中では、アストラルとエーテルが複雑に絡み合い、ぶつかり合って乱回転している。その相互エネルギーは物質も霊質も関係なく、分子または霊子まで分解させてしまうのだ。
「いくよ……
感情なく淡々と呟くと、ベルゼブブがそれを放った。
「――ミナトッ!! 黒い球に気をつけてーー!」
突然の下降気流に晒され、それが収まったと思ったら。
今度は天から、ルシファーの声が降り注いだ。それは注意喚起の叫びだった。
球? 見上げると同時。硬いゴム風船が弾けるような音とともに、空から黒いなにかが降ってくる。ルシファーは、それらを放ったであろうベルゼブブの攻撃を必死に避けていた。
――おかしい。契約者は殺したはずだ。なぜまだあいつが存在してる?
疑問を抱きながらも、湊は何をそんなに本気で避けているのかを観察した。
見た目に軽そうなそれは、しかし外見を裏切った。少なくとも野球ボール大のものは、以前立花英嗣が飛ばしてきた火球よりは圧倒的に早い。
だが、球体の大きさによって落下速度が変わるというのが見ていて分かる。バスケットボール大のものになると、風に流されるシャボン玉くらいで避けるのは難しくなさそうだ。
やがて球体の内の一つが、一体のゾンビに直撃した。熱したフライパンに水滴を垂らすような蒸発音。一瞬にして、ゾンビは腕と足の一部を除いて消滅する。
「んな、なんだよこれッ!」
「いいから、絶対に触れないで! 即死よッ」
周囲は完全に生きる屍に囲まれている。音遠に危害が及ばないよう守り、突っ切っていくには道を開けるほか方法はない。黒い球体に触れたら最後だ、考えている暇はない。
再び発光する魔道書。ちょうど空は曇天だ。
「
雷鳴が轟き、雲に稲光が走る。右手を向けた方向へ、突如として落雷が起こった。直径にして樹齢五百年以上の大木ほどはあろうかという太い稲妻だ。それは地面を舐めるようにして大地を蛇行する。次々にゾンビらを焼き払い、湊たちの活路を開いた。
「よし! 音遠、今のうちに」
「う、うん!」
彼女の手を引き、いったん球体が落下してくる範囲外へと退避する。
そこでもやはり動く死体は待ち構えていた。それどころか、死に絶えた分を補填するようにまた墓から這い出てくる。
「クソッ! これじゃきりが無いぞ」
焦燥に駆られて吐き捨てる。
上空ではルシファーも戦っている。自分が諦めるわけにはいかない。
「ね、ねえ、湊君……」
「どうした?」
「あ、あれ――」
慄きながら音遠が指差す方向へ、湊は目を向けた。そこに見たモノに驚愕し、言葉を失った。
「ずいぶんと手こずってるみたいだよ、キミの契約者」
「まるで見てる風な口ぶりね。そんな余裕はないはずだけど?」
黒い玉をなんとか全て避けきったルシファー。今度は自分の番だとばかりに攻勢に出た。
秒間に数十発も繰り出される壮絶な攻防。傍目には光が弾けているとしか知覚認識出来ないほどで、人間の目では追えない速度で互いに打ち合っていた。
紙一重で避け、時に防御し、魔力を練りに練った必殺の一撃の応酬が繰り広げられている。
ルシファーの右手は蒼炎に包まれ、ベルゼブブの左手はドス黒いオーラを纏っていた。
「余裕は確かにないけどね、ボクには複眼があるのさ。ゾンビたちに埋め込んであるから地上はもちろん、空にも蝿たちを配ってある。だから――」
「ガハッ――!? 」
今の今まで、ギリギリのところで鍔競合っていた両者の均衡が、初めて崩れた。
ベルゼブブの放った渾身の一撃が、ルシファーの防御の甘かった右脇腹を抉りこんだのだ。目に見えるほどの衝撃波が、彼女の左脇腹から突き抜けた。
「こうやって、キミの死角を狙うことだって出来るんだよ?」
脇腹を押さえ苦悶を呈す彼女の口から、鮮血がこぼれる。ヒューというか細い息が漏れ出た。
「あーあ、霊核に直撃しちゃったかな? もう少し楽しめると思ったんだけど」
狩猟の的にされた鳥が落ちるかの如く、緩やかに地上に降下するルシファー。
大地に膝を付き、内からせり上がってくる血液を吐き出した。墓土に、真っ赤な血反吐が滲んでいく。
血の臭いに惹かれたのか、ゾンビが数匹彼女に気づいた。
「ル、ルシファー!」
――遠くでミナトの声がする。焦りを感じる声だけど、まだ、大丈夫みたい。
堕天使は、口元に歪な微笑を浮かべた。
「安心してる場合かな? 彼、ようやく面白いものを見つけたようだよ」
すぐ頭上から声がした。視線を上げると、けらけらとベルゼブブが嘲笑している。
そういえば、湊になにか言い捨てていたなと彼女は思い出す。それが、『面白いこと』――
瞠目し、それが現実なのか幻なのか、湊は判断できないでいた。咄嗟にルシファーの名を呼んでしまったが、それでどうしたいのか分からない。
ただ今は、夢なら早く覚めてほしかった。この現実から、一秒でも早く逃避したかった。
そこにいたのは、間違いなく自分の姉だったのだ。友達の家に泊まるといって帰ってこない、怪しげなオカルト部の部長、
自分と同じで一度も染めたことのない、腰まで伸びる墨のような髪。黒曜石みたいな真っ黒の瞳。黒魔道士でも、もう少し色味に気を使うであろう暗黒一色の私服は地味ながらも、しかしよく似合っていた。
自慢の服がところどころ破れ、泥にまみれて汚れていることに、生前であれば泣いて喚くだろう。露出する肌にはそこらじゅう欠損が見て取れ、骨が露呈している部分もあった。瞳は空ろで視線は宙を彷徨い、どこを見ているのかすら分からない。
目も当てられない容姿だが、目を背けられない。在りし日の姉の姿が、眼裏に重なって。
「なんで、……姉ちゃんが」
「ダメだよ、湊君!」
姉に歩み寄ろうとしたその時、湊は腕をつかまれた。
「離してくれ! 姉ちゃんが、姉ちゃんがいるんだよ! 助けないとッ」
「――フフフ、……救えると思うのかい?」
楽しそうに嗤う声がした。
次の瞬間、どこからともなく姉の隣にベルゼブブが現れる。
「ベルゼブブ! ルシファーは……」
見渡すと、遠くにぽつりと一人蹲る彼女を見つける。すぐ近くにはゾンビが三体、今にも襲い掛かろうとしていた。
「ルシファー!」
叫ぶが彼女はピクリとも動かない。どうやら、相当なダメージを与えられたらしい。
「無駄だよ。霊核に魔力を込めた一撃を叩き込んだからね。しばらくはまともに動けないはずさ」
「霊核?」
「ボクたちの心臓みたいなものさ。それぞれが多重に呪界や結界で守ってるものだけど。残念ながら防御に回す力を、攻撃に当ててたみたいだね。見てごらんよ。腹を空かせた好色ゾンビどもが、今にも喰らいつきそうだよ?」
歌うように悪魔は言う。
翼でゾンビを追い払っていた彼女だが、吐血で隙が出来てしまった。
一体がルシファーの腕に噛み付くと、残り二体も群がった。いかにも好色そうな太ったゾンビが、豪奢なドレスを乱暴に引き裂く。黒いレースの下着が露になる。
好物を前にした犬みたく股間に顔を埋めると、白磁のように滑らかな内腿に噛み付いた。彼女の頬が朱に染まり、表情が苦痛に歪む。
それぞれに噛まれた箇所から鮮血が滲み、綺麗だったドレスを汚していく。
「くそっ!」
「おっと、キミの相手はこっちだろう? 肉親を見捨てる気かい」
ルシファーの元へ駆けつけようとしたところで、悪魔に呼び止められた。彼女のことは心配だ。でも、姉を見捨てることなんて出来ない。
せめぎ合う二律背反、湊は必死に思考する。
離れたルシファーを救い出す! 強く思い描いたビジョンを現実にするために、魔道書を開いた。鈍色に輝く魔方陣が緩やかに大地に引かれ、
「来いっ! ドラーニーナッツォ!」
それは沼から浮かび上がるようにして姿を現す。
呼び声に応えたのは、漆黒の鱗を持つ西洋の竜に酷似した悪魔だった。
硬い竜鱗に覆われ、三メートルほどの身長を有している。両手には今しがた付着したばかりに見える血塗れの刀を携え、ふしゅるると白い息を吐き出した。
「へえ、“残忍な竜”を召喚するとは。キミ、人間にしちゃやる方だね」
悪魔に感心されても、別段嬉しくもなんともない。
「んげ! そのお声はベルゼブブ様!」
「やあ、ドラーニー。相変わらず地獄で人間を切り刻んで楽しんでいるのかい?」
「は、はぁ……それが役目なものでして。なにかご迷惑おかけしてますか?」
へこへこと、召喚したばかりの仰々しい名前の竜が、ベルゼブブに頭を下げている。その光景がいちいち癪に障った。
「おいお前!」
「あ?」竜人が刀を交差させて、凶悪的な形相で振り返った。「なんだ、くせえと思ったら人間か。殺すぞ?」
「うるさい黙れ。召喚したのは俺だ! 無駄口叩いてないで、さっさとルシファーを助けに行け!」
「ああん?」
ゾンビに襲われているルシファーを指差すと、強面だった竜人の表情が一変する。デレデレに緩み切り、だらしなく崩壊した。
「――んああああ! ルルルシファー様!! なんてこった今助けに参りますー!」
両翼をこれ以上ないくらい強く羽ばたかせ、砂塵を巻き上げながら爆発的な推進力で竜人は急行する。風を置き去りにして猪突猛進する様は、まるでロケットだった。
すれ違いざまにバッサバッサとゾンビを切り伏せ、あっという間にルシファーの元までたどり着く。
「おい薄汚ねえゾンビども、俺俺、俺様のルシファー様に、ばばばばっちい手で触ってんじゃねえ! 殺すぞ?」
「問いかけてないで早く殺れよ、馬鹿!」
「誰が馬鹿だ薄汚ねえ人間のクズ虫が! 俺様は竜で、馬とか鹿じゃねえ! 殺すぞ?」
「ば、っか! 余所見すん――」
こちらに獰猛な視線を投げつけながらも、腕だけは動いていた。いや、動いたように見えた。宙に写る腕の残像は、確かにゾンビに二本ずつ、クロスするように重なっている。
刹那――、三体のゾンビが同時に血飛沫を上げると、バラバラになって絶命した。
竜人はさりげなく両翼を広げ、ルシファーに汚い血肉がかからないように身を呈して傘となった。口は悪いが意外と紳士だ。湊は少しだけ感心する。
「人間の指図を受ける気は毛頭ねえが、ルシファー様に危害を加えるつもりなら容赦はしねえ。それがたとえベルゼブブ様のアンデッド兵だとしてもだ。ゾンビどもは俺様に任せな!」
「頼んだぞ!」
これで一安心。あとはこちらをどうするかだ。
湊はベルゼブブに振り返る。悪魔は姉の肩に手を回して、嘲るように嗤っていた。
「まったくしょうがないやつだね、ドラーニーは。まあ仕方がない。さっきルシファーにはああ言ったけど、地獄には彼女の熱狂的なファンもいるもんだからね」
「……姉ちゃんを返せ」
湊は出来る限り怒りを抑えて、静かに口にした。
「それはどうだろうね、キミ次第だよ?」
「問答する気はない。返す気がないのなら――」
すっと手をベルゼブブに向ける。眼球が焼けるような熱を帯びていく。
真っ赤な魔方陣が緩やかに宙に描かれ、発火する。そして魔道書が開き魔法名が輝いた。
「へえ、怒っているね。ゲヘナを使用した経験からか、扱うことを覚えたか。それはゲヘナの派生系でも三番目に強力な――」
「ヴォル――」
「おっと待ちなよ」魔法名を唱える寸前、ベルゼブブがそれを静止した。「キミがその手を向ける相手は、残念ながらボクじゃない」
やれやれと、まるで分かってないとでも言いたげな仕草で悪魔は首を振った。そして、姉のブラウスに手をかけて、第三ボタンまでを乱暴に引き千切る。
浅い胸の谷間を分断し、見覚えのある黒い意匠が飾られていた。
それは、骨が絡みつく逆十字のネックレスだった。
「なッ!? どうして――」
「ハハハ! 驚いているね」
「暴食の契約者は、さっき殺したあいつのはずじゃ……」
「その通りさ。契約者はトシヤで間違いない」
「なら、なんでそいつのネックレスが姉ちゃんにかかってるんだ!」
「鏡の間で彼女を見た時に感じたのさ。霊質が、テーマパークとやらで見たキミによく似ているってね。だからトシヤを喰って、大罪の契約者に植え付けられる楔、つまりはボクの霊核の欠片を取り出し、代わりに彼女に埋め込んだんだよ。面白くなると思ってね。そうしたら案の定さ! こんな芸当が出来るのは、死霊術に長けたボクだからこそだね!」
高らかな笑い声が天に響く。
湊は愕然としながらも、悪魔の言葉を理解しようと必死で頭を働かせた。
久賀俊哉がゾンビになっていたのは、ベルゼブブに喰われたからだ。普通はそれで人間は死ぬ。けれど悪魔は生きていた。なぜなら、契約者に埋め込まれた霊核の欠片とやらを他人に移植していたからだ。その対象が、自分の姉だった。
俊哉を殺してもベルゼブブは生きていた。それは、姉が契約者としての新たな器になっているからだ。つまり、ベルゼブブを殺せば、姉も死んでしまう。
……自分には、出来ない。
救うためには、殺さないこと。つまり――『キミ次第だよ?』
この言葉の意味するところ……は、
「俺が……死ねば、返してくれるのか……?」
ベルゼブブの眉が訝しげに吊り上げられた。
「――ミナト!」
ルシファーの叫びが耳に届く。大きな羽音は、ドラーニーナッツォのものだろう。ズシンと重そうな音をたてて背後に降り立つと、駆けてきた堕天使が肩を掴んできた。
「ミナト、よく聞いて。ベルゼブブに喰われた人間は、もう戻ってくることはないの。もう、死んでるのよ。あなたが死んだところで、彼女はどうしようもないわ」
諭すように、宥めるように、静かに語りかけてくる。
どうしようもない、戻ってこない。家に帰ってこない、もう口喧嘩も出来ない。くだらない自慢話に適当に相槌を打つことも、テレビを見て一緒に笑い合うことも、もう出来ない。
姉との思い出が走馬灯のように脳裏を巡った。小さい頃に一緒に風呂に入ったこと、おねしょを笑われたこと。そんなどうでもいいことまで回想する。自然と、涙が溢れてきた。
「どうしようもないってなんだよ……戻ってこないってなんだ! 勝手なこと言うなよ! こいつは言ったんだ、俺次第だって……。救えるんだろ!? なあ返してくれるんだろッ!! 」
湊は唇を震わせて悪魔に詰め寄った。
楽しかったおもちゃ遊びに興味をなくしたように嘆息すると、ベルゼブブは冷ややかな視線で見下ろしてくる。
「返すとは言ってないし、救えるとも言っていない。ルシファーの言うとおりだよ。キミ次第だと言った意味は、言葉にしなくても解るだろう。虚飾の少年?」
それは最悪の結末だった。考えないようにしていた。考えたくもなかった。
――姉を苦しみの呪縛から解き放つ唯一の方法……、肉親を、この手にかけること。
絶望感で目の前が真っ暗だった。なんの光明も見出せない闇だった。
気を抜けば足先から崩れそうで。先ほどまで感じていた眼球の熱も、今はすっかり冷え切っている。
「なんだか興醒めだね。そうだな、キミが自らの手で姉を殺せたのなら、この戦いはキミたちの勝ちでいい」
心底興味をなくしたように悪魔は吐き捨てた。
「ベルゼブブ……」
「どうしたんだいルシファー? その顔は穏やかじゃないね。まだやり合いたいのなら付き合わないでもないけど。こんなやる気のない契約者の元で力を発揮できるのかい? まだまだキミはこんなものじゃなかったはずだよ」
嘆かわしいと、大きなジェスチャーで悪魔は頭を振る。
怒りとも憐れみとも取れる、しかし感情を感じさせない無機質な声音で彼女は返した。
「あなた、最初から勝つつもりなんてなかったでしょ」
「それは穿ち過ぎだよ」
「勝利にこだわるのなら、さっき私に止めを刺したはず。でもあなたはそうしなかった。あなたはミナトにこれを見せて、何がしたかったというの」
彼女の咎めるような視線をいなすことなく、悪魔も正面からそれを受け止めた。
ややあって、嘆息した後、ベルゼブブは降参した風に肩を竦める。
「……強いて言うのなら、究極の二択を迫られた人間がどうするのか。それを見てみたかった、かな」
「なんですって?」
「興味があったんだ。神が愛し仕えよとまで命じたアダムの末裔が、罪を犯す時になにを感じなにを思い、どう選択するのかをね。人間は地獄に罪の結果でしか来ないだろう? 過程を見てみたかったんだよ。弟殺しの罪を犯したアダムの長子カイン、その逆再現とでも言うのかな」
「そんなことのために――」
「それに、確かにキミの言うとおりだよ、ボクは勝つ気がない。王になる気もない。だって煩わしそうだろ、悪魔王ってさ? それに、今の魔王のポジションが気に入ってるんだ。これといった楽しみは百年越しのディナーくらいだし。王になって望む褒美も何もないしね。キミにはあるみたいだけど」
悪魔は目を細め、含みをもった笑みを浮かべる。
ルシファーは何かを言いかけてから、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「未練を捨て切れてないようだから断言しておくよ。願いは永劫叶わない。もっと直接的に言ってやると――救いは決して訪れない」
耳の中が水に満たされているような、ぼやっとして聞こえてくる二人の会話。湊はどこか遠くのことのように聞いていた。
「堕天した者が救われないことは、ボクたちが証明しているじゃないか。それなのにキミは王になって何を望む。いつまでも天使の名残を背負い引きずって。惨めだね。いや、醜いよ」
悪魔の罵声に、ルシファーは何も言い返さなかった。静かに目を伏せて、ただ拳を固く握り締めている。
「さあ、どうするんだい虚飾の少年。ボクはいつまででも待てるけど、そんな悠長に考えてる時間はないと思うよ。後ろを見てみなよ」
背後を指差され、湊は渋々振り返る。
そこには、胸元を手で押さえ苦しそうに呼吸する音遠の姿があった。
「音遠!」
「ご、ごめんね……わたしは、大丈夫だから」
青白い笑顔が引きつり、無理をしているのが一目瞭然だ。
「さすがに契約者でもない人間が、デッド・サンクチュアリの瘴気に長々と中るのは不味いだろう。早くしてあげないと、キミの彼女までここで死ぬことになるよ」
さも愉快気に笑みを浮かべる悪魔。
湊はどうしていいのか分からず、たまらずルシファーに視線を投げた。
「ミナト、これはあなたの問題だわ。私がどうこう言う筋合いはない。あなた自身で決めなさい。でも、これだけは言わせて――」
瘴気から守る為だろう。音遠を翼で包みながら、ルシファーは真剣な眼差しで見つめてきた。
「ネオンは、生きているのよ」
その一言が、これ以上ないくらいに現実を突きつけ、そして気づかせてくれた。
姉はもう、どう足掻いても救えない。でも、音遠は生きている。彼女を死なせることを、きっと姉も望まないだろう。
心が痛い。今にも張り裂けそうだった。
優しかった姉、変わり者だった姉。時に面倒くさくて、でも憎めなくて。好きか嫌いか、聞かれたら……きっと好きだった。救えるのなら救いたい。いますぐ闇の中から引き上げたい。
――だけどもう、それは出来ない……出来ないんだッ!
湊は姉に振り返る。零れた涙が宙に煌いた。
震える右手を姉に向ける。再び緩やかに描かれた赤い魔法陣が発火し、魔道書がにわかに輝きだす。
「へぇ、殺すのか。ボクの中でキミへの評価が改まったよ。実姉を殺すんだねー、実に残酷で残忍で、非道で外道だね。キミはもうボクらの側だ。罪に罪を重ねて、完全に魔道に堕ちる」
脳内から、悪魔の戯言を一切排除する。そして、たった一つ――
姉を、楽に死なせてあげられるようにと、ただそれだけの願いで思考を満たす。
「……姉ちゃん、ごめん」
思い出を抱懐し、涙しながら口にする。
一瞬だけ姉が、微笑を浮かべた気がした。
「――
炎上する赤い魔方陣から火花が弾けた。
刹那、鉄砲水みたく勢いよく火炎が放射される。奔流は大地を大きく抉るほどの高出力で、高濃度の瘴気を焼き尽くし、周囲に群がるゾンビどもまで熱伝達によって焼却した。悪魔曰く、ゲヘナの派生魔法三番目に強いものだそうだ。
火炎が収まると、姉の姿は骨すら残らず跡形もなく消失していた。炎が大地を舐め尽し蹂躙した跡が燻り、マグマ溜りが川となって流れている。
「ふふふ、キミの悲しみ、やる瀬無い怒りの炎。実に心地いいものだった」
足先から光の粒子となって消えてゆくベルゼブブ。彼は満足そうな笑みを湛えていた。
「地獄でまた会える日を、楽しみに待ってるよ」
今生の別れを告げ、やがてベルゼブブも消滅した。最期までその笑みを崩すことはなかった。
領域の主の死とともに、遠景を埋めるゾンビたちも続々と崩壊し土へと還る。
「終わった、んだな」
いままで張り詰めていた緊張の糸が切れ、気の抜けた瞬間に意識が遠のいた。
後ろ髪を引かれるようにして仰向けに傾ぎながら、湊は微睡みに誘われて静かに瞼を閉じる。
気を失うその瞬間、最後に感じたのは羽毛の柔らかさと……人の手の、温もりだった――。
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