2-7

 突如として足元に現れた魔方陣に吸い込まれ、気づいた時には森の教会前に立っていた。

 死ぬ思いで過ごした先の戦闘。あまりにも現実離れした時間だ。

 地上に出てしばらくの間、さっきまでの出来事は全て夢だったのではないか。そんな思いが込み上げ、思考の海に没入していた。


「桐嶋くーん!」


 背後から声がする。

 けれどどこか遠くで聞こえるような、ぼうとした耳鳴りにも思えた。

 疲れた顔をして振り返ると、神代音遠が教会から小走りで駆けてくる。


「だ、大丈夫?」


 彼女の声音はどこか遠慮がちで、不信感を抱いているようにも感じられた。


「俺なら大丈夫だよ、ッ」


 口にしてから思い出す。アスモデウスの領域内で、自分の腕が吹き飛ばされたことを。音遠から視線を転じ、恐る恐る左腕を見やる。

 肘から先はしっかりと存在し、指もちゃんと動かせた。

 ――大丈夫だ。湊は安堵して胸を撫で下ろす。


「ねえ桐嶋君」


 呼ばれた声に目線を戻す。

 音遠の眼は、肩口を浮揚するルシファーに射止められていた。


「この女の子は……?」

「女の“子”ですって。宇宙開闢天地創造から存在する私を、子供扱い……」


 堕天使の声のトーンが下がる。羽ばたき回数が目に見えて増え、白黒の羽が盛大に舞い散った。睨みを利かせ、こめかみをひくつかせているところを見る限り、相当お冠なようだ。

 なんとかして取り持たないと、大変なことに成りかねない。

 ついさっき見たばかりの魔法を思い出し、湊は身震いした。

 いまさら誤魔化しは効かないだろう。現にその存在も、森での戦闘も見られている。ここは正直に打ち明けた方がいい。そして釘を刺すことが大切だ。


「あ、ああ、こいつは」

「こいつ?」


 恫喝的な視線が急に湊の方を向いた。


「んえ!?  違くって! こ、この女性は堕天使なんだ。名前はルシファー」


 咄嗟に言い直したことにより、不機嫌さはずいぶんと鳴りを潜めたようだ。羽ばたき回数が目に見えて通常に戻った。


「堕天使、ルシファー様」

「ん?」


 ぽーとした音遠の呟きに、ルシファーの耳が反応を示す。

 湊の肩に手をやると、「ふふん」と鼻を鳴らしどことなく嬉しそうな顔をした。


「人間のわりに分かってるじゃない。ミナトもこれくらい見習って、「様」を付けて呼んでくれてもいいのよ?」

「誰が付けるかよ」


 やっぱりこいつは『傲慢』だと、湊は改めて思う。

 しかし音遠の様子がおかしい。まるで祈るように手を合わせ、微動だにしない。

 ややあって、


「もしかして、この教会に住んでるんですか!? 」


 と感激した風に声を上げた。

 そういえばここへ連れて来られた時、この教会には幽霊が出るという話を聞かされた。もしかしたらそれと勘違いしているのかもしれない。


「生憎、私は教会が嫌いでね。壊そうと思いこそすれ、住み着こうだなんて考え微塵もないわよ」

「そうなんですか……」


 残念そうに眉をひそめる音遠。神秘が好きだとも言っていた。目の前に本物の堕天使がいる。これほどの神秘は一生に一度あるかないかだろう。

 教会に現れる幽霊、彼女がそれでないと知り落胆しているのかもしれない。


「そんなに肩を落とすなよ。そもそもルシファーは幽霊じゃないし」


 フォローのつもりだったが、音遠から返ってきた言葉はそれを無に帰した。


「うん、解ってるつもり」


 どういうことだろうか。首を捻り顔を見合わせる二人に、音遠は続けた。


「わたしがここにお祈りにきてるって、さっき話したよね」

「あ、うん」

「この教会には伝説があってね。祈りを捧げ続ければ、死んだ人にもう一度会えるらしいの」

「死んだ人?」


 尋ねると、音遠は切なそうに目を伏せた。


「お母さん――」



 聞けば、幼い頃に母親を事故で亡くしたそうだ。父親は音遠とその姉を、母親の実家に預けて雲隠れ。それ以来連絡は取れないでいる。

 祖父母はよくしてくれたそうだが、参観日に両親がいない。進路の相談にも不在。一番頼りたかった人がその度にいなかった。

 だから音遠は、全てを一人で決めてきた。

 こんな時、母がいれば。そう何度も思いながらも、辛さを心の奥にしまい込んで生きてきたのだと。

 両親が健在で、家にいない方が気が楽だ。なんて出張に出ている今を嬉しく思う湊には、理解できない話だった。

 けれど、過去を語る音遠の顔が時折泣きそうになるのを見ていると、なんだか自分まで辛くなってくる。


 その様子を黙視していたルシファーが、静かに口を開いた。


「とんだ甘ちゃんね」


 同情の欠片も感じられない冷たい声だ。

 ハッとして、音遠は顔を上げる。


「お、おい、そんな言い方ないだろ」


 制止しようと肩を掴むが、ルシファーはそれをひらりとかわした。


「祈りを捧げてれば死んだ人に会える? 馬鹿馬鹿しい。どうして人間はそんなくっだらない噂を信じ、実行にまで移すのかしらね。信じるものは救われるから? そんなはずないでしょ。信じてたって救いなんか訪れないッ」

「ルシファー!」


 突き放すように吐き捨てる少女に、湊は叱責の意味を込めて名を叫んだ。「ふんっ」と不機嫌そうに顔をそらした少女は、腕を組んで明後日の方を見やる。

 そこまでして母親に会いたいという音遠の気持ち。それは藁にも縋りたい想いだろう。他人に、ましてや堕天使なんかに人の気持ちが分かってたまるか! 湊はそう言い出しそうになる口を必死で閉じた。


「…………私が、そうなんだから」


 尻すぼみで聞こえ辛かったが、湊には何を言ったのかがはっきりと聞こえた。口にした時の物悲しげな表情も、湊は見逃さなかった。いつか見た顔に、よく似ていたから。

 ふと音遠に目線を戻す。彼女の両目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。

 自分の行いを、そして願いを否定され打ち砕かれたのだ。慟哭してもおかしくはないだろう。

 音遠は涙を手で拭う。顔を上げると、なぜか笑顔をこぼしていた。


「ルシファー様、ありがとうございます」

「はぁ?」


 ぽかーんと口を開けるルシファー。

 これには湊も唖然とするほかない。


「わたし、薄々気づいてました。そんな都合のいい話があるわけないって。それでも心のどこかに、まだ祈りが足りないからかもしれない。そんな甘えた考えがあったんだと思います。そして今、はっきりと分かりました。誰かに私の行動を叱って欲しかったのかもしれないって」


 キラキラとした翠瞳が真っ直ぐにルシファーを見つめている。その真摯な眼差しに、珍しく少女もたじろいでいた。


「わたし、ここへ来るのはもうやめますね!」


 溌溂と言う音遠の表情は晴れやかだ。呪縛から解き放たれたような清清しささえ感じた。


「そ、そう? 私には関係ないけど」


 じゃっかん顔を引きつらせながら返事をする堕天使。

 横目でちらちらと音遠の様子を窺っては、またすぐに視線をそらす。「なんなのよ、一体」その呟きが、彼女の戸惑いを如実に表していた。


「ま、まあ何はともあれ、話がまとまってよかったよかった」

「何がよかったのよ、まだ話は終わってないでしょ」


 ルシファーの突っ込みがなかったら、危うく忘れるところだった。

 そうだ、自分の現状はなにも変わっていない。目撃者がいて、それを他言されるのは不味いんだった。


「……あのさ、神代さん」


 何から言うべきか、そもそも何を言わないべきか、湊は迷いながら慎重に口にする。


「ここで見たことを、黙っててほしいんだけど」


 探るような視線を投げると、驚いた表情が返ってきた。


「どういうことかな?」

「言ったとおりだよ。先週金曜日の歌番組、知ってるだろ?」

「久遠時雨って新人歌手が忽然と姿を消した、神隠しのこと?」


 やっぱり彼女も知っていた。そりゃあ新聞やテレビで報道されれば、誰でも耳にする機会はある。しかしこの先はどう説明したものか……。

 ちらと隣に視線を転ず。ルシファーはそ知らぬ顔で月を眺めていた。

 ――自分で考えろということか。

 湊は自己判断で先を話すことにした。

 久遠時雨の事件に七つの大罪の悪魔たちが関わっていること。立花英嗣もその内の一人との契約者であったこと。敗北者である彼は地獄に落ちたこと。死を免れるためには、他の悪魔たちを倒さなければいけないこと。

 そしてそれは……殺人と同義であること。

 音遠は真剣に話を聞いてくれていた。自分たちが立花英嗣を殺したようなものなのに、それを咎めるようなことすら口に出さなかった。

 湊は、それが逆に辛かった。糾弾してくれた方が気が楽だ。殺しは殺し。直接手を下していないにせよ、ルシファーの主人は自分なのだから。

 正当防衛だと言われればぐうの音も出ないが、それでも殺してしまった。実感の沸かない殺人という事実に、湊は心を持て余している。


「殺らなきゃ殺られるっていうのに、いつまでそんな甘い考えでいるつもりよ」

「いてっ」


 突然頭を小突かれた。

 振り返ると、少女がむすっとした表情をして腕を組んでいる。


「あなたは覚悟を決めたんでしょ? だったらいつまでもウジウジしないで。私の主人なら、いつでも堂々としてなさい」


 彼女なりの叱咤激励なのだろう。

 一蓮托生の身となった今、もう弱音は吐かせてもらえないみたいだ。

 湊は両手で頬を叩いた。乾いた音が静かな森に響く。


「そういうわけだからさ、外部の人間にこの事が知れると不味いんだ。だから、黙っててください」


 そう言って湊は頭を下げた。だがしばらくしても反応がない。仕方なく顔を上げると、音遠がなにやら首を捻って考え込んでいる。


「どうかした?」

「うーん。……桐嶋君は、他言されたくないんだよね?」

「え、うん」

「じゃあ、わたしの言うことを一つ聞いてくれない?」

「この期に及んで交換条件を出すなんて。見た目によらず強かな女ね」


 ルシファーが珍しく唖然としている。

 確かに、外見からはそんなイメージはない。誰に対しても人当たりが良く、控えめな彼女。他人の迷惑が考えられないタイプではないだろう。

 日直の変わりに仕事を引き受けているところなんかを見ていても、自分と違い善意でやっているのだ。少なくとも彼女自身は、やらされているなどという感覚でやっていないことは、傍目に見ていてなんとなく分かる。

 そんな彼女がいまはどうだ。口封じのかたに交換条件を押し付けてこようとしている。

 やはり人は見かけによらないということか。湊はそう一人で納得した。


「女はみんな、強かなんですよ、ルシファー様」


 ウインクを一つ飛ばし、神代音遠は小さく舌を出しては、たっぷりの茶目っ気を振りまいたのだ。

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