2-6
緩やかな川の流れに身を任すような、不思議な感覚だった。
目を閉じて、そして開けると、先ほどまでの景色とは一変していた。
「ここは……」
茫漠たる大氷河。
見渡す全てが氷に閉ざされた世界。足を着ける氷はどこまでも透き通り、遠くに霞む氷山は吹雪に覆われている。点在する木々でさえも全てが氷で出来ていた。
聞こえる音は、風の音だけ。こんなところに長時間いたらそれだけで気が狂いそうな、ほぼ雑音の無い空間だ。美しくも寂しい世界だった。
バサッと、不意に羽ばたく音が聞こえた。
隣を見ると、ルシファーがこちらを見つめている。なぜか申し訳なさそうな、気まずそうな表情をしていた。
「ここが私の領域。地獄の第九圏、
「氷地獄……最終地獄、ジュデッカ。……ん、最終? ってことは、ここが一番下なのか?」
「そう、ここが地獄の底。神を裏切った、最も罪深き者どもが落ちる場所――」
「そしてあの化物の住む場所でもある」
どうやら、英嗣とアスモデウスも氷地獄へ落ちたようだ。
ゆっくりと振り返ると、二人揃って身構えていた。
「アスモデウス。決着をつけましょう」
敵に向き直るその目には、強い闘志がみなぎっている。
体から立ち上るオーラから、彼女の魔力が充実していくのが湊にも目に見えて分かった。
「形勢逆転、そう言いたげな顔だな。ルシファー」
呆れたように肩をすくめ、悪魔は首を振る。
「でも、君には弱点があることを忘れていないか?」
ピクリと、少女の柳眉が動いた。
「役立たずな、契約者のことだよッ!」
怒声を上げると同時、アスモデウスは英嗣の背中を撫で下ろす。刹那、物を消すマジックのように英嗣の姿が掻き消えた。
「消えたぞ!? 」
アスモデウスの領域内で、いつの間にか背後をとられていたことを思い出した。あれはそういうカラクリだったのかと理解する。
しかし、タネが解ったところで、いつどこからくるかは分からない。
困惑し慌てふためく湊と違い、ルシファーは冷静だった。
ゆったりとした動作で地上に降り立ち、膝を折る。氷上に手を付くと、湊の足元の氷がパキパキと音を立てながら、小さく隆起し始めた。
「
少女の魔法名と共に、隆起し始めていた氷が急激に成長し、湊の周囲と頭上を完全に覆うドームを形成する。
直後――
「エイジ、契約者を殺れ!」
「言われなくても解ってる! 死ねや桐嶋ァアアア!」
突然、湊の前方数メートルの眼前に、どこからともなく立花英嗣が現れる。コンマ一秒と遅かったらやられていたに違いない。
肝を冷やす湊を余所に、ルシファーはその場から静かに離脱した。数十メートル離れた上空で浮揚すると、静かに目を閉じて瞑想し始める。
「炎竜召喚ッ」
アスモデウスが呼ぶと、燃える鱗を持つ赤い竜が咆哮と共に出現した。口からは真っ赤な炎が漏れ出ている。首にかけられた手綱を握って、悪魔は竜に跨った。
「
英嗣が口にすると、広げた手から黒い円。その中から数本の触手がびちびちと伸びてきた。森で音遠を拘束した時みたいなのっぺりとしたものではなく、今度は触手の先が黒い岩石に覆われている。まるで鈍器のモーニングスターだ。
「
英嗣に合わせるように、悪魔もまた竜を駆る。火竜は大口から牙を覗かせ、喉奥から湧き出す溶岩にも似た粘性の炎を吐き出した。
敵の同時攻撃だ。
英嗣の魔法は氷を激しく打ち付け、上空からは溶岩球が降り注いでくる。
あんなものを被ったら、間違いなく氷の壁は溶けてしまうだろう。
「お、おいルシファー! どうするんだよこれ、逃げられないぞッ!」
内側からいくら叩いてもビクともしない。仮に出られたとしても、四方から触手が襲ってくる。
八方塞がりな氷の中で、湊は堕天使に助けを求めた。
しかし彼女から返事が戻ってくることはなかった。それどころか、ずっと目を瞑ったままで、こちらを見ようともしない。
どうしようもない状況に追い込んだことを、頭を抱え蹲りながら湊は心の中で呪った。
キンキンと氷を鞭打つ硬質な音が響く。休日に鳴る目覚ましよりも不快に思えた。徐々に赤い光が近づいてくる。もう終わりだと、最期を覚悟した。
その時――バシャッと粘性の炎が降り注ぐ。
溶ける! ハッとして見上げると、表面を伝いながら赤黒い液体が氷上に流れていく。氷のドームは溶けなかった。それどころか、千度近くもありそうな赤熱の溶岩が、氷上に流れた瞬間に黒く固まった。
「火力は以前より上がっているんだぞ!」
聞こえた怒声はアスモデウスのものだった。
英嗣の方に目をやると、攻撃の手を休め、まさかといった表情でたじろいでいた。
「どうなってるんだ……?」
物理的におかしなことになっている。溶岩に入れても溶けない氷が、この世に存在するのだろうか。
「氷地獄の氷は普通の炎じゃ溶かせない。ゲヘナか、もしくはアバドンの黒炎でも持ってこない限りはね――」
湊の疑問に答えるように、堕天使は嘯いた。
「ミナトを殺せばどうにかなると、焦りのあまり前のめったあなたの負けよ、アスモデウス」
「ルシファぁああああ!」
余裕の笑みを浮かべていたアスモデウスの姿はもうなかった。負けを想起したのか、悔しげに歯軋りしている。
そんな悪魔に心の臓が凍るような冷徹な視線を注ぐと、彼女は涼やかに紡いだ。
「相変わらず学習しないのね。元の姿に戻ることも出来たでしょうに、そんな火竜にせっかくの魔力供給を無駄に浪費して。冷静であったのなら、まだ少しはチャンスくらいあったかもしれないのに。――でも、これで終わりよ」
右手を前にかざしたかと思ったら、手元から青い幾何学が発生し、連鎖してルーンのような象形文字を紡ぎだす。
やがて今までとは比べ物にならないくらいの巨大な魔法陣が天を覆った。
幾何学な神秘象形を刻む大小いくつもの青い円環は、風景にも負けないくらい冷たく無機質だ。
見上げる誰しもが、絶望を感じるほどに。
「
可憐な唇で、少女はそれを囁いた。
魔法陣からとてつもない冷気が噴出すと、辺り一帯を霞ませる。次いで氷の槍が幾千も空に出現した。
それらは悪魔と英嗣に標的を定め、「いけ!」その一言で、圧倒的物量の矢雨となって人智を超えた速度での落下を始めた。
赤竜に跨るアスモデウスは翻りながらなんとか避けるが、人間である英嗣に氷槍を避ける術はない。
腕、肩、腹、足と被弾し、貫通した箇所から一瞬にして氷の剣山が生成される。氷上へ次々に着弾しては、上へ上へと針山が成長していく。
氷槍を避けるのに必死なアスモデウスは、英嗣にすら気が回らないようだ。
もはや英嗣は鉄の処女にでも容れられたように、血液まみれの氷の中で死を待つばかりだった。
悪魔は下からやってくる、驚異的なスピードで成長を続ける剣山にも気づかず、自分が針の筵に晒されていることに感付きもしない。
やがて、高層ビルほどもある鋭利な氷刃が、赤竜とアスモデウスを真下から貫いた。
「グハッ」
口から鮮血を垂らしながら、アスモデウスは力なく四肢をだらける。さながら百舌の早贄だ。
赤竜はうねり血を撒き散らしながら、光の粒子となって消えた。
広範囲に針を広げるウニ状の氷山と、天から降り注ぐ氷の雨の板挟みにあい、悪魔は蜂の巣にされた後、氷中に閉ざされた。
その様子を一部始終、湊は氷のドームの中から見上げていた。あまりの迫力と非現実を目の前にして、圧倒されて言葉が出てこない。
「終わったわよ、ミナト」
空から凛とした声が響いた。
立花英嗣はどうなったのかと気になり、ドームの外を見る。さっきまでは確かにあったはずの英嗣の姿は、アスモデウスと共に消滅していた。
負ければ死んで罪を贖う。その言葉通りだとするならば、英嗣は地獄のどこかに送られたのだろう。
勝ったというのに、湊は言い知れぬ虚無感を感じていた。
こんなにもあっさりと人は死ぬのか。ルシファーが倒しはしたけれど、その主人になっている自分も間接的に関わっているのだ。
頭では解っていても、湊の心は整理がつかないでいる。
「ミナト、今から物質界に送るわ。そこでじっとしてて」
そんな思いとは裏腹に、何も感じていなさそうな暢気な声音で、ルシファーが言葉をかけてくる。
「……ああ」
返事する湊の心中では、複雑な感情が渦を巻いていた。
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