2-5

「――落ちる、落ちるー!」


 黒い触手に襲われた後、どこかへ飛ばされたようだ。湊はいま、空中遊泳をしていた。が、別に楽しんでいるわけではない。

 みっともなく手足をバタつかせ、少しでも滞空時間を稼ごうと必死でもがく。

 そんな主人を見かねたように、嘆息しながら堕天使は襟首を掴んできた。


「ぐえっ」


 カッターシャツは第一ボタンまでしっかり留めてあるため、首元に遊びがない。おかげで首を絞められたカエルのような声が出てしまった。

 ゆっくりと着地すると、ルシファーは雑に湊を放り出す。先ほどまでいた土の感触ではなく、滑らかな石の硬さを体全体で感じた。同時に饐えた臭いが鼻をつく。

 えずきそうになりながらも、湊は起き上がり周囲に目を配る。


「なんだ、この臭い。それにここは……?」


 そこには、異様な光景が広がっていた。

 シャボン玉みたいに大小さまざまな黒い光が漂う中。淡い紫をした蝋燭の明かりの下、あちらこちらで繰り広げられる酒池肉林。

 体育館ほどの広間には、いくつもの天蓋つきのベッドが置かれていた。

 蝙蝠の羽を生やした薄衣を纏う女が、透けるカーテンに影絵を作っている。各々数人の女たちがひしめき合い、ただひたすらに快楽を貪っていた。唾液を交換し合う音が淫らに響いている。

 交わる体液と汗と酒、空間にかかる怪しげな瘴気。それらの混合臭が筆舌に尽くしがたい悪臭となっていた。


「相変わらず悪趣味な場所だわ。淫魔をこんなに飼って。反吐が出るわね」


 これ以上ないくらいの嫌悪感を顕にして、ルシファーが吐き捨てた。


「ようこそ俺のハーレム城、ヴィフヌスカイトへ」


 聞こえた声に振り返ると、部屋の奥、アスモデウスと英嗣が揃って玉座らしき椅子に現れた。


「城?」


 言われてみれば、確かに洋館を思わせる内装をしている。

 市松模様の床は全て大理石。壁面や柱には女体の浮き彫りが施され、天井からは凄惨な地獄絵図のフレスコ画が見下ろしていた。

 謁見の間と言うべきかダンスホールと呼ぶべきか。とにかく、テレビか何かで近いものを目にしたことがあった。


「ここがアスモデウスの領域よ。油断したわ、まさかすでに仕掛けられていたなんて。用意周到さは相変わらずね」

「君相手に油断はない、過信もない。ただ俺は全力で君を潰して、王への階段を一つ上るよ」

「それはどうかしら、ね!」


 言うが早いか、ルシファーは後ろへ飛び六枚の翼を広げた。前方へ大きく羽ばたかせると、激烈な風圧と同時に幾百もの羽根が黒い光弾となって発射される。

 軋むベッドをいくつも貫通し、淫魔たちを貫きながら玉座へ向かう光の羽根。

 断末魔の悲鳴がそこら中から湧き上がる。

 まるでマシンガンのように蹂躙した光弾は、文字通り玉座を蜂の巣にした。しかし悪魔と英嗣の姿はどこにも見当たらない。


「君は本当に短気だな。だからあんな化物を生み出すことになったというのに」


 ベッドの一つから声がした。アスモデウスは、血の海に伏す動かなくなった淫魔を無感情に突き回している。


「いつの間にッ!? 」


 湊は驚愕に目を剥いた。


「なまじ完璧に作られたせいで、可哀想に」


 カーテンの隙間から顔を出し、悪魔は同情の言葉を口にした。しかしそれを感じさせないほどに、表情は下卑た笑みで塗り固められている。

 忌々しげに歯を軋ませると、ルシファーは再び翼から光弾を射出する。

 しかしまたしてもアスモデウスは別のベッドへ移動していた。その後も彼女の攻撃はことごとく避けられ、永遠に捕まえられない鬼ごっこを見ている気分だ。

 ベッドの残骸と淫魔の死体が、血塗れた瓦礫のオブジェを成していく。

 歯痒くてもどかしくて、湊は見ていられなかった。


「ルシファー、あの魔道書があれば俺だって戦えるんだろ? なに躊躇ってるのか知らないけど、一人より二人の方がいいに決まってるだろ」

「あなたは黙ってて!」

「そうだぜ桐嶋ァア、お前は黙って死んでればいいんだァアアア」


 いつの間に背後を取られていたのか。聞こえた声に振り返るが、すでに遅かった。


「ミナトッ!! 」

炎牢魔陣ヴィルベンフラム


 閃光の後、湊の周囲で爆発が起きた。空気中を無数に漂う黒い粒子を伝うように、燃焼が広がっていく。森の時と同じ魔法だ。

 咄嗟にルシファーが翼で覆ったために、被害は最小限に食い止められた。と思われた。

 しかし――


「う、うわぁああああああ!」


 湊の悲鳴が広間に響き渡る。

 左腕が、なくなっていたのだ。上腕部分を残し、肘から先の前腕が、全て吹き飛んでいた。熱い血潮が止め処なく零れている。

 目の前の信じがたい光景と絶望感に、湊は戦意を喪失し膝から崩れ落ちた。

 天井に描かれた地獄絵図が、それを嬉しそうに見下ろしている。

 アスモデウスと英嗣から距離を取るため、ルシファーはいったん湊を部屋の隅へ避難させた。


「ミナト!」

「腕が……俺の、腕、が……」


 空ろな目に涙を浮かべて、湊はうわ言のようにぶつぶつと呟く。

 肩を揺すられる感覚も、どこか夢うつつで感じていた。


「ミナト、しっかりしなさい!」


 急に胸倉をつかまれて、直後、パアン! と軽快な音が響いた。次第に左の頬が熱を帯びる。じんじんとした痺れが頬を這った。


「ルシ、ファー……」


 どうやら、気付けに一発見舞われたらしい。

 しかし同時に湊は思い出す。自分の左腕がないことに。


「俺の腕が――」

「よく聞きなさい。ここは地獄の領域なの。物質界の生者の体は星幽体に置換されている。現に、肉体の痛みはないはずよ」

「……言われてみれば、確かに」


 腕を動かしてみても、切断面におっかなびっくり触れてみても、別段痛みは感じなかった。


「星幽体は精神を司る体。この中での戦いは精神が先に死んだら負けでもあるの。気持ちを強く持ちなさい! 首が飛ばない限りは基本どんな怪我でも大丈夫よ」


 そうは言われても、自分の腕がないビジョンをこうもまざまざと見せ付けられたら、精神的にダメージを負うのは必至だ。

 今の今まであったものが急に無くなる。指を動かす感覚すらも絶たれている。違和感を通り越して気持ち悪くなってくる。


「気持ちで負けちゃダメ! あなたは死なせないわ。私が必ず守ってみせる」

「ルシファー」


 先ほど見せた冷酷な顔が嘘のようだった。

 自信に溢れ、信じさせる魔力を秘めた真剣な表情だ。


「見える?」そう言って少女は広間を指差した。

 辺り一面、淫魔たちの夥しい血液が飛び散り、スプラッター映画でも見ているような惨状が広がっている。饐えた臭いと相まって吐き気を催してくる。


「酷い有様だな……」


 口を手で覆い、頬をひくつかせながら湊は吐露した。


「これからこういった現場は嫌と言うほど見ることになるわ。慣れるのに丁度いい機会でしょ。それより、見てほしいのはそこじゃない。羽根よ」

「羽根?」


 改めて言われた物に注視してみる。

 さっき派手にばら撒いた羽根の光弾は、いまは通常の羽根に戻っていた。

 その中の一つ、ルシファーが指差していたのは白い羽根だ。黒い羽根にカムフラージュされ、よく見なければ気づかない。それは六芒星の形で点在していた。


「あれがどうかしたのか?」

「これから奴らを私の領域に引きずり込む。いつまでもこんな辛気臭い所にいるつもりはないし、このままじゃこっちが不利だわ」

「そのための羽根か」


 銀髪少女は小さく顎を引いた。


「ミナト、奴らをあの中へ誘き寄せるわ。手伝ってくれる?」


 魔道書を渡すのは躊躇うくせに、協力は仰いでくる。わがままな堕天使だと、苦笑いを浮かべながら湊は頷いた。


「気づかれないでよ」

「分かってるって」


 返事するなり、湊は一歩前へ出た。


「ようやく立ち直ったようだなァ、桐嶋ァア。爆発であのまま死んでればよかったのによォ」


 唾を吐くように叫ぶ英嗣をシカトし、


「おいクソ先輩」

「ああッ!?  誰に口利いてるゥウ!」

「アンタだよエロ魔人」

「このクソ野郎がァアアア!」


 こめかみに青筋を立て、よだれを撒き散らしながら英嗣が叫ぶ。

 左手で魔道書を開き、右手を構えた。次の瞬間、手の先から赤い円が広がり、中心から火球が飛んでくる。スピードはそんなに速くはない。バッティングマシーンで言うところの百二十キロくらいか。

 手元から離れたのを見届けても、十分に回避可能な距離をとっている。


「おっと」


 湊はそれを危なげなく横へ飛んで交わす。爆発音と共に着弾した壁面が大きく抉れた。パラパラと、女体の浮き彫りが首を残して崩壊している。見た目に反して大した威力だ。


「そんな遠くからじゃ、さすがに何発撃っても当たらねえよ下手くそ」


 しかし冷静に見極めれば避けることは容易い。不敵に笑み、湊は英嗣を煽る。

 挑発にとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、英嗣は「上等だゴラァ!」と怒り心頭を露わにして足を踏み出した。

「よし!」湊は心の中でグッと拳を握る。

 一歩二歩と踏み出し、六芒星の頂点の一つを英嗣が踏み越えた。微かな風が舞い、黒い羽根を吹く。白い羽根が露呈したが、敵はそれにまだ気づいていないようだ。


「エイジ、一人で先行するなよ。やるなら二人でだ」


 契約者の死は敗北を意味する。

 それを危惧したのか、アスモデウスが英嗣の元へ飛んでいく。


「るせえよ役立たずが! テメエはまだ何もしてないだろうが!」

「なんだと、お前に攻撃のチャンスを与えただろう」

「あいつの腕を吹っ飛ばしたのは俺だぜ」

「その力を与えたのは俺だよ」


 互いに不満をぶつけ合うように、敵は口論を始めた。


「なにしてるんだ、あいつら?」

「思わぬ儲けね。奴ら、あんまり仲が良くないみたいだわ」


 ……自分たちはどうなんだと、湊は内心思う。


「でもチャンスだな」


 なおも英嗣と悪魔は言い争っている。この期を逃すルシファーではない。

 ここぞとばかりに六枚の翼を大きく開く。おもむろに両の手を前方へ伸ばすと、湊の身長程もある魔法陣が目の前と、英嗣とアスモデウスの頭上に出現した。


「なにッ!? 」


 魔力に気づいた悪魔が天井を見上げる。光り輝く白銀の円環が奴らを見下ろしていた。その顔には、はっきりと焦りが見える。

 咄嗟に英嗣の腕を引き、悪魔は六芒星の中からの脱出を図ろうとした――


「遅い! 天魔月鏡反転トータルイクリプス!」

「しまった!」


 堕天使の手元の魔法陣から、光の波動が迸る。天井の魔法陣がそれを反射し、床に刺さった白い羽根目掛けて光が分割された。

 それぞれが六芒星の頂点に降り注ぎ、床から眩いばかりの閃光が立ち上る。瞬間、広間を埋め尽くしていた黒い羽根が一気に巻き上がり、吸い寄せられるかのように光の柱を覆いつくした。さしずめ敵を閉じ込める牢獄だ。


「すげえ……」


 湊は口を開けたまま、ただ感心するばかりだった。

 ルシファーは間を置かずに右手を振り下ろす。天井に止まっていた魔法陣は、勢いよく床に落下した。羽根で覆われた黒い牢獄に蓋のように被さると、そのまま圧縮していく。みるみるうちに押し潰され、ついには広間から消失した。

 英嗣とアスモデウスの気配はすでにない。


「ミナト、いくわよ」


 少女に手を引かれ、湊は残された前方の魔法陣の中へと連れられた。

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