2-4
森の中は、闇かった。
月も雲に隠れてしまっているようで、地上を薄黒いヴェールが覆っている。
教会を囲う木々は背が高く、空が窮屈に見えるほど。
なるほど、これでは屋上からは認識できないはずだと、湊は一人納得する。
突然――どこかで鳴いていた虫と獣たちの声が、示し合わせたように鳴り止んだ。
幽かに光が漏れる校舎の方から、小枝を踏み折る音がした。人の気配だ。
注意を払い、闇の中に目を凝らす。木立を抜けてきたその人物は、数歩進んで立ち止まった。
「見つけたぞ、桐嶋湊ォオ」
ドスの利いた声が発せられた。人のものなのか獣のものなのか、一瞬判断に迷うほど低いがなり声だ。
やがて雲が払われ月が顔を出し、地上を仄かに照らし出す。闇から浮かび上がった人物は、確かに立花英嗣だった。しかしどこか様子がおかしい。
目の焦点が合っていなく、口はだらしもなく開きっぱなしで涎が垂れ流しになっていた。なにか危ない薬でもやったのかと疑うほど、朝の姿からはかけ離れすぎている。
モデルのような美顔が醜悪に破綻していた。
そして極めつけは――
「あいつ、あんなに目、赤かったっけ……?」
それはまるで悪魔の瞳のように、真っ赤に染まっていた。暗闇の中でもはっきりと認識できるほどに発光している。
朝に見た英嗣の目は確か茶褐色だったはずだ。
庇うように、ルシファーが湊の前に出る。そして、英嗣の左手の中に魔道書が握られていることに気づいた。
「アスモデウス、あなたまさか……」
「そのまさかだよ」
突然、青白い光が闇を切り裂いた。グバッと押し広げながら現れたのは、豪奢な青い法衣に金色のベルトを締めたヤギみたいな巻き角を持つ悪魔だ。
下品な微笑を浮かべながら、悪魔アスモデウスは英嗣の肩に手を回す。
「何をそんなに怖い顔をしているんだ、ルシファー」
「……そいつを、堕としたの」
キツく睨み付ける堕天使の視線と悪魔の視線が交錯する。
「ああ、堕としたよ」
糾弾するような視線を意にも介さず、アスモデウスはあっさりと肯定した。
「なあ、堕とすって、なんの話だよ?」
「なんだ、まだ主人に教えていないのかい」
ククッと肩を揺らし、悪魔は小気味よく嗤う。
チッと少女の舌打ちが聞こえた。
「それが君の甘さだ、ルシファー。俺は勝つためには犠牲を厭わない、もう悪魔だから。ましてや相手は人間だ。躊躇も遠慮もすることなんてない。それが当然の思考だよ」
悪魔は英嗣の肩をポンと叩く。
「見せてやりなよエイジ、君の力を」
おもむろに魔道書を開くと、英嗣は右手をこちらへ向けてきた。
何かが起こることは容易に想像がつく。挙動を注視し、湊はそのなにかに身構える。
「
呟くと、英嗣の手の先で瞬間的に発生した紫の魔法陣から、どこかで見たような黒煙が発生した。細かな黒い粒子が宙を漂いながら湊を取り巻く。
捕えられる! そう判断した湊は、反射的に身構えた。
そんな彼の背後に、すかさずルシファーが回り込む。そして瞬時に六枚の翼を巨大化させた。突然、湊の視界が塞がれる。緊張して強張る湊の体を、彼女が優しく包んだ。
刹那――
「
頃合を見計らった英嗣の声と同時だった。
真っ赤な閃光が翼の隙間から差込み、大気を震わす爆発音が耳を劈く。あまりの轟音に湊はたまらず耳を塞いで目を閉じた。
いったい何が起きたのか分からないまま、やがて翼が開かれる。眩む眼で現状を確認。地面はところどころ抉れ、爆発が一点だけで起きたものではないことを物語っていた。
爆風で舞い上がった土煙を切り裂くように、宙には赤い線がいくつも引かれている。それはまるで導火線を伝う火のようだ。
「くっ……」
どさっと背後で音がする。振り返ると、朦々とした煙の中、ルシファーが膝をついて蹲っていた。
「ルシファー!」
湊は屈んで彼女を抱き起こす。
綺麗だった翼は先の攻撃で焼け焦げ、かなり傷付いている。
「俺のために……」
「主人なんだから、仕方ないでしょ。あなたが死んでも、負けなんだから」
悪態をつけることには安堵したが、それ以上に湊には気がかりがあった。
「なあ、あいつ人間だよな? なんであんな魔法じみたことが出来るんだよ」
尋ねると、ルシファーはばつが悪そうに顔を背けた。
「ケチな女だろう、ルシファーはさ?」
二人の会話に、にたつく顔をした悪魔が割って入ってくる。
「仕方がないから俺が教えてあげるよ、ケチくさい天使もどきに代わってさ」
「アスモデウスッ!」
「どのみち、いずれ解ることだろ? いま教えても教えなくても一緒さ。それとも、彼に教えずに戦争を闘い抜くか? それこそ無謀ってものだな。下等だが人間の力があるのとないのとじゃ、俺たちの力の行使出来る範囲は天地の差だ。ああ、そこまでは開かないか」
何がおかしいのかケラケラと笑い転げる悪魔。話がまるで見えてこないことに、湊はじゃっかんの苛立ちを覚えていた。
「なに笑ってんだ、教えるなら早く言え」
「さすがは君の主人に選ばれるだけあるね。憤怒しやすい性質なのかな?」
ルシファーの目に怒気を孕んだ鋭さが宿る。
「おお怖い」
わざとらしく身震いしてみせる悪魔に、湊の苛立ちは右肩上がりだ。
そんな時――
「き、桐嶋君、大丈夫? いまの爆発は……」
あれだけ強く釘を刺しておいたのに、教会から神代音遠が出てきてしまった。
これほどの盛大な爆発音が聞こえれば、何事かと思うのは至極当然のことだが。
「馬鹿、なんで出てくるんだ!」
「ご、ごめんなさい」
強く注意されて気圧されたのか、音遠は肩をビクつかせた。意外そうに目を丸く見開きながらも、音遠は扉の影に隠れる。
自分だけならなんとか戦えるかもと思ったが、他人を守りながらだとそれも難しくなる。悪魔同士の戦いだけならいざ知らず、なんで契約者同士でも殺し合いみたいなことに発展してるんだ。湊の頭の中で不満と疑問が渦を巻いていた。
「くくく、アハハハハ! そんな所に匿ってたのか、桐嶋ァアアアア! 見つけたぞ、ようやく見つけたぞォオオ! 神代音遠! 俺の女にしてやるゥウウウウウ」
音遠に気を取られている隙に、英嗣は右手を構えていた。
再び空中には紫の円陣。
「しまった!」
「
音遠の元へ駆け出すが遅かった。英嗣の魔法は魔法陣から放たれたものではなかったのだ。
音遠の背後、教会内の闇からそれらは突然現れた。無数に蠢く不気味な触手。それらは音遠の四肢を音もなく拘束する。
「きゃぁああああ!」
音遠の悲鳴が森に木霊した。
「くそっ!」
我武者羅に駆け出そうとした湊の襟首が、唐突に引かれた。
勢い余って尻餅をつく。
「どいてなさい」
冷静な声音はルシファーのものだった。
突進しながら右側三枚の片翼を巨大化させると、それを一纏めにして大きく振りかぶった。流れるような動作で黒翼の太刀を縦横無尽に繰り出し、音遠に絡みついた触手を次々と切断していく。バラバラにされた触手の残骸が辺りに散乱した。
異形の生物はビチビチと苦しむようにのた打ち回っている。
「ミナト、この娘を奥へ」
「あ、ああ!」
促されるままに音遠の肩を抱き、湊は教会の奥へと駆けていく。
そして講壇の前に音遠を座らせた。
「桐嶋ァアアアアアアッ!! 」
外から獣の咆哮にも似た、立花英嗣の怒声が響いてくる。燭台の蝋燭の火を揺らすほどの空気振動だ。
ルシファーのところへ戻ろうと踵を返したその時、湊は制服の袖を引かれた。
「桐嶋君……」
不安そうに見上げてくる音遠の顔が、揺らめく蝋燭に照らし出される。恐怖を感じているのだろうか、その瞳は涙で潤んでいた。
「大丈夫だから、ここにいてくれ」
屈んで目線を合わせ、安心させるように言葉を投げかける。腕をつかんできた音遠の手が、震えているのに気づいた。
これ以上どうしていいのか分からない。だから湊は誠心誠意の眼差しを音遠に注ぎ続ける。
泣くのを堪えながらも、湊の真っ直ぐの視線に込められた思いを汲み取るように、音遠はややあってから頷いた。
ぽんっと彼女の頭に手をやって、湊は教会の外へと駆け出す。
朧月夜の森に躍り出ると、ルシファーが二人を相手に戦っていた。アスモデウスが翻弄し、その隙を英嗣が突く波状攻撃。
悪魔たちの戦いにおいて、人間の力など大して役に立たないだろう。湊はそう思っていた。
しかし、先ほどの爆発といい苦戦を強いられている今といい、人間の力も馬鹿に出来ないのではないか。それもこれも『堕とす』というルシファーの言葉が関係しているような気がする。
「ルシファー!」
「ようやく来たわね、ちょっと遅いわよ」
出来るだけ早く駆けつけたのに、相変わらずの憎まれ口。
ダメージは負っていても、まだ余裕はありそうだ。
「ルシファー、俺はどうすればいい。どうすればあいつみたいに力が使える? 見たところ、あの本が関係してるんだろ、あるなら貸してくれ」
手を差し出す湊に、堕天使は目を瞠った。
しかし次の瞬間には首を振って拒絶を表す。
「なんでだよ! このままじゃ、お前一人で戦う羽目になるんだぞ!」
「そんなことは分かってるわ」
「だったらなんでッ!? 」
「今までも、そうしてきたからよ。人間の力なんて借りない、借りられない!」
なぜそこまで頑ななのか、湊には理解できなかった。ただ、そう言い放つ彼女の顔は真剣そのもので、何か決意のようなものが表れていた。
「ミナト、覚悟を決めて」
覚悟……。それは『死ぬこと』への覚悟だろうか。負ければ契約者は死んで罪を贖うと、以前彼女に聞かされた。契約してしまった以上、それはいつでも付いて回る現実だ。
枷からの解放は、勝利することでしか得られない。だが、サタンには――
「……、覚悟なら、出来てるさ」
どのみち、目の前の敵に勝たなければ、ここで死だ。
不安要素はあるが、この際それは排除する。湊は腹をくくって答えた。
「本当に?」
しかし少女から返ってきた言葉は、それを疑っているようだった。
「当然だろ。俺とお前は異体同心だ。一蓮托生、どうせ死ぬ時は一緒なんだからさ」
「勘違いしないで」
「えっ?」
「死ぬ覚悟じゃないわ。そんな生半可な気持ちでは戦い抜けない、サタンとは戦えない。私が言っているのは、『殺す』覚悟よッ」
怒りを灯した瞳は見たことあれど、こんなにも冷酷に細められた瞳を見るのは初めてだった。そこになんの感情もない。心を殺したような深い闇が、真紅に混じって斑に見えた。
出会ってから初めて、湊は心の奥底から恐怖を感じた。全身の毛が今にも抜け落ちそうなほどに総毛立つ。慈悲なんてない、これが堕天使なのだと。
「あはははっ! 聞いたかいエイジ? あいつら、俺たちを殺すつもりだってさ」
「殺すのは俺たちだ、なあ桐嶋ァア? 死ぬのはお前だよなァアハハハハッ」
相手は確実に殺す気でくる。
その殺意に気圧されないよう、湊は心を強く持ち睨みを利かせた。
「気に入らない目だァ。まあいい。さっさとお前を殺して、あの女は頂くぜ。快楽漬けにして牝奴隷にしてやるゥウ!」
その色欲に呼応し、英嗣の持つ魔道書が不気味に発光する。
『下衆野郎』
珍しく二人の言動が重なった。ルシファーも女性として嫌悪感を抱いているらしい。無慈悲ってわけではないのかもしれない。
「ミナト、私に掴まって。奴らを領域に引きずり込むわ」
「おっと、そうはさせないよ」
ルシファーが翼を大きく広げた瞬間だ。二人の周囲を囲うように、黒い霧状の触手が何本も地面から湧き出した。
「これはッ!? 」
「俺がただ飛び回ってただけだと思うかい? 相変わらずの甘ちゃんだね」
黒い触手は津波のように、湊とルシファーに覆いかぶさる。
大量のうなぎが桶で蠢くが如くうねりながら、ずぶずぶとそのまま地面に沈み込んで二人の姿ごと消えた。
「さて、俺たちも行こうか、エイジ」
にやりと口の端を歪め、アスモデウスは宙を指で切り裂いた。
青白い線が空中に引かれている。両の手でそれをこじ開けると、悪魔は英嗣の手を引いて異空間への扉をくぐっていく。
やがて何事もなくぴったり閉じた亀裂は、細かな粒子を吐き出して消失した。
風に揺られて、さわさわと梢が音を奏でる。
森はようやく静寂を取り戻した。
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