2-3
放課後。
昼休みに音遠と交わした約束を果たすべく、湊は講堂裏で彼女を待っていた。
学校の西側に位置し、敷地をぐるりと囲うようにして広がる森は陰鬱としていて気味が悪く、あまり人は立ち寄らない場所だ。
「こんな辺鄙な所を待ち合わせ場所にするなんて。あの娘、少し変わってるわね」
湊の頭に腰掛けて、ルシファーは偉そうに足を組んでいる。
少女の蠱惑的な尻の柔らかさを差し引いても、顔の前に垂れる黒いすだれが視界を遮り、煩わしいことこの上ない。
こめかみをひくつかせながらもなんとか堪え、「そうだな」と湊は大人な対応を心がけた。
「それにしても遅いな」
すだれを手で払い携帯で時刻を確認する。約束の五時はとっくに過ぎていた。
陽はだいぶ傾き、空はオレンジに群青が混じり始める。もうじき日が暮れるだろう。
――しかし裾が邪魔だ。
それとなく湊は堕天使の腰を掴む。力を加えれば崩れてしまいそうな繊細な腰に気を遣う。でもさすがにこのままでは鬱陶しい。
そのまま彼女を頭から下ろして、鳩のように宙に放った。
「んもうっ!」
便利な椅子だと思っていたのだろうか。放たれたルシファーは翼を羽ばたかせて脹れている。
「ん?」
何かに気づいたように、ルシファーは急に霊体化した。
直後、駆ける足音が聞こえてくる。
「ごめんなさい、遅れちゃって!」
息を切らせながら走ってきたのは、神代音遠だった。
「先生に頼まれごとされちゃって。手伝ってたらこんな……」
「いや、俺もいま来たところだから」
『人間ってなんでいちいち気を遣うのかしらね。一時間近くも待ってたのに、いま来ただなんて』
呆れたように堕天使は言う。
相手に気を遣わせないための心配りだと、湊は声に出して教えたかった。だがここではそれも出来ない。
「……桐嶋君って、嘘下手だよね」
虚を突かれた言葉に、本質を見抜かれたのかと思ってヒヤリとした。思わぬ指摘にルシファーも瞠目している。
「なんでそう思うんだ?」
どちらにせよ、その理由を知りたくなって湊は聞き返した。
「だって、ホームルーム終わってからすぐに教室出て行ったじゃない? 掃除当番でもなかったし、部活もやってないよね? 真面目な桐嶋君のことだから、すぐにここに来たのかなって」
音遠は推測を自信あり気に語る。にこやかに話す顔が夕陽に照らされて綺麗だった。
確かに、ホームルームが終わってからすぐに来たのは事実だ。部活もやっていないし、掃除当番でもなかった。
けれど早くここへ来たのは、居残っていれば掃除当番を手伝わされる羽目になりそうな気がしたからだ。そんなことに時間を割くくらいなら、待ち合わせ場所に早く来て時間を潰したかった。ただの口実だ。
だから決して、音遠の思っているような真面目な人間なんかじゃないのだ。
「当たり」
だが湊はにこやかに肯定した。別にそこを否定する必要もない。本質を見抜かれたわけではなかったことに安堵はしたが、しかし少しばかり期待していた自分もいる。
けれど、普段の自分が虚飾の仮面だと知った他人が、いったいどういう反応を見せるのか。興味はあるが、曝け出す自信はなかった。
「ところで、これからどうするんだ?」
もうすぐ日も暮れようかという時間帯だ。率直な疑問を湊はぶつけた。
それに対して音遠は笑顔を返し、森の手前まで歩いていく。湊も追随した。
「桐嶋君に案内したいところがあるの」
「森の中にあるのか?」
「うん。視てほしいところがあるの。ついてきてくれる?」
夕陽に煌く翠眼が、上目遣いで見上げてくる。紅潮する頬の朱と懇願するような表情が相まって、普段のさらに三割り増しくらい可愛く思えた。
湊は惚けたまま、無言のままに頷く。
『男ってこれだから』
その様子を傍から見ていた少女が、こめかみに手をやり頭を振って呟いた。
「ついてきて――」
音遠に案内され、鬱蒼と茂る森を歩くこと数分。腐葉土のにおいも色濃くなってくる。
まだ陽は沈みきっていないはずなのに、森の中は妙に昏い。
まだ五月初旬だからか、はたまた薄暗い雰囲気からか。湊は寒気を感じてブレザーの上から腕をさすった。
「まだ歩くのか?」
「もうすぐだよ、ほら」
導かれるまま木立の間を抜けると、そこには小さな教会が建っていた。白い外壁は煤けていて、とてもじゃないが綺麗とは言い難い。
見てほしいとまで言われたものが、薄汚れた教会だとは。湊は脱力して肩を落とす。
「がっかりした?」
髪を揺らしながら振り返った音遠の眉毛が、滑り台みたく下っていた。反応があからさま過ぎたと湊は反省する。
「いや、そんなことないけど」
「本当に嘘、下手だね」
なにが可笑しかったのか、音遠はぷっと吹き出した。くるりと湊に背を向けると、先導するようにゆっくりと歩き出す。
「ここね、学校からじゃどこから見下ろしたって見つからない場所なんだよ」
「屋上からも?」
「うん。だから知ってる人間はそんなにいないと思うんだ。こんな不気味な森に進んで入ろうなんて物好きな人、そういないでしょ?」
教会の前で立ち止まると、音遠は扉の上の丸窓に嵌められた、ステンドグラスを見上げる。
自分が変わり者だって言っているようなものだ、と湊は心の中で呟いた。
声に出して茶化せなかったのは、丸窓を見上げる音遠の横顔が切なげだったからだ。どことなく薄幸の少女然とした、哀愁を感じる表情だった。
「入ろっか」
彼女は静かに木製の扉を押し開ける。建付けが悪くなっているのか、軋む音に鼓膜がざらつく。薄闇の中でも躊躇いがないところを見ると、ここへ来るのは一度や二度ではないようだ。
一歩中へ足を踏み入れると、湊はその雰囲気に違和感を覚えた。
確かに教会なだけあって静謐で粛々としている。しかし纏わりつく空気の重さが荘厳さとはかけ離れていて気持ちが悪い。
粘性の強いスライムに全身を浸すような不快さだ。
『ミナト――』
傍らに在ったルシファーが小声で囁いた。目を向けると、伏し目がちに眉をひそめている。
声を上げることは控えたい。湊は視線で「どうした?」と問う。
『私は、外に出てるわね』
堕天使はふらふらと頼りない軌道を取りながら浮遊する。扉の外へとその姿が消えるまで、湊は怪訝な顔をして見つめていた。
「桐嶋君? どうしたの、もう帰りたい?」
湊の目が外へ向けられていることに気づいた音遠が、少し残念そうに尋ねてきた。
「いや、俺なら大丈夫」
様子がおかしいことに疑問を感じたが、いまは音遠の用事が先だ。
踵を返し、湊は教会を奥へと進む。
床を踏み込むたびに白い埃が舞い上がった。かび臭さが鼻につく。
中ほどまで来たところで周囲を見渡してみる。長椅子は計八脚。ところどころ欠けていたり座る部分が抜けていたりと、ずいぶん破損がひどい。ちゃんとした手入れもされずに放置されたのがありありと見て取れる。
正面の天井付近には立派なステンドグラス。そのすぐ下には十字架が備え付けられていた。
「いま明かり点けるから」
音遠は慣れた手つきでマッチを切り、燭台に刺さった蝋燭に火を灯していく。冷たく不気味な教会内を淡い暖色が照らす。
湊は壁面に揺れる影を見た。窓の外に目をやると、もう陽は沈んだようだ。夜の帳が下りている。
「桐嶋君って、視えるんだよね?」
「んえ?」
唐突に切り出され、思わず頓狂な声を上げてしまった。ルシファーに聞かれていたら、「だらしがない」と叱咤されそうだ。
「ここね、出るんだって」
「な、なにが?」
「幽霊」
手燭を持って歩み寄ってくる音遠。下からぼうとした橙色に照らされて、ホラーじみた雰囲気を醸し出している。背筋がぞわっと粟だった。
「神代さんって、そういうのが好きなのか?」
「幽霊が好きってわけじゃなくてね、神秘的なことが好きなの。未知っていうか、自分の知らないことへの好奇心っていうか」
お化けは神秘に含めていいのか? 湊は甚だ疑問だった。
「お姉ちゃんから聞いた話によるとね、ここの教会は黒楼学園が建てられるずっと以前からあったんだって」
「お姉さんがいたのか……」
初耳だと関心を得ると同時、脳裏に自分の姉の姿が浮かんだ。
結局家には帰ってこなかった姉。携帯には、一人暮らしの友達の家に泊まると連絡があったが。
それ自体に大して心配は抱いていない。高校生になってから、そんなことは茶飯事だからだ。
しかし、姉が何か怪しげな魔術にはまっているんじゃないかと、湊はそのことが気が気でならない。怪しげなオカルト部の部長で、のめり込むとどこまでも探求する性格。
最近、ソロモンの七十二柱の悪魔に興味を持ったのを知っている。一日で名前と特徴、役割などを丸暗記したことを自慢された。
実際に、自分が大罪の悪魔やら堕天使に関わることになった今、その存在は『在るもの』として認識された。
姉がおかしなことを仕出かして、悪魔を呼び出さないかが心から心配だったのだ。
「――嶋君――桐嶋君!」
「え?」
「話聞いてた?」
眉間に微かな皺を刻み、音遠はむっとしながら詰め寄ってきた。下からの蝋燭の明かりの効果もあってか凄んで見える。
「……ごめん、聞いてなかった」
湊は素直に謝った。
「うん、これは嘘じゃないみたい」
何が嬉しかったのか、音遠はにこやかに笑ってみせる。
「そういえば、桐嶋君もお姉さんいるんだっけ?」
「知ってるんだ」
「そりゃあね。オカルト部ってけっこう有名だし」
怪しげで不気味な意味で捉えられているんだろうが、面と向かって言われるとかなり恥ずかしい。自分の姉がそんな部の部長だなんて……。
「神秘が好きなんだったら、入ってみればいいんじゃないか? なんなら姉ちゃんに紹介するけど」
軽い気持ちで提案を口にしたが、意外にも音遠は首を横に振った。
「ううん、いいの。部活やる時間がないから。だって私は――」音遠は言葉を切り、壁面の十字架を見上げた。「その時間を、ここでのお祈りに費やしたいから」
またあの表情だ。
悲しみを押し込めたような寂しげな顔。切なさと侘しさを堪えた心悲しげな顔。
なぜか胸に針刺す痛みを感じる。
湊が理由を尋ねようと、口を開いたその時だ――
「ミナト!」
教会内に大きな声が木霊した。反響音は聞き覚えがある。
振り返ると、闇色に溶け込むような浮遊物体がこちらへ向かって飛んでくるのが見えた。しかしそれはある部分が白かったので、すぐに何か分かった。ルシファーだ。
「って! お前なんで霊体化解いて――ッ」
しまった! と口を手で押さえてももう遅い。
振り返って見た音遠の顔は、さっきまでの憂いに満ちた表情ではなく、ぽかーんと口を開けて呆けたものだった。まるで夢か現実かを計りかねているような。
「ばかバカ、馬鹿なんじゃないのか、お前。何のために今日一日、姿消して過ごしてきたんだよッ」
後ろを気にしながら小声で話す湊に、血相を変えて少女が言った。
「馬鹿はあなたよ。さっさと準備なさい!」
「は? 準備ってなんのだよ」
「アスモデウスが来たわ」
その名前に、一気に湊の緊張感が高まった。無意識に唾を嚥下する。
アスモデウスってことは、立花英嗣がここへやってきたということ。ほとんど誰も立ち寄らないはずの、森の教会に……。
――まさか、つけてきたのか?
ちらと背後に気を配る。堕天使の動きを目だけで追っている音遠がいた。このままでは彼女に危害が及ぶかもしれない。
もうルシファーの存在はバレてしまっている。いまさら取り繕ったって後の祭だ。
「神代さん、危ないからここにいてくれ」
「え、えっ? な、なんで? ――なにが?」
「いいから、絶対にここを離れるな!」
困惑する音遠に有無を言わさず念を押し、湊はルシファーを伴って教会の外へ出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます