1-2
湊はルシファーから、一通りの説明を受けていた。
「つまり、お前たち地獄の住人は百年に一度、こうして人間界にやってきて、サタンが気まぐれで定めた地ではた迷惑なことに、悪魔の王を決める戦いをしてるってわけか」
「そう」
――迷惑なのを否定しなかった。自覚があるのか?
なるほどなと、中空に寝そべって浮かんでいるルシファーに頷いてみせる。
「でもなんで俺が選ばれたんだ? 他にも人間はたくさんいるだろ」
湊の問いに、ルシファーは頬杖を付いて見下ろしてきた。
「ニバスがあなたを選んだ理由、それは『傲慢』よ」
「傲慢? それよりニバスって」
「道化師長ニバス。あなたにこの傲慢の棺を渡した悪魔よ」
あいつか、湊ははたと思い出す。
いまにして思い返せば、厄介なものを押し付けられたと、じゃっかん後悔の念もあった。
「悪魔王を決める戦いに選出される悪魔や堕天使は、『七つの大罪』を司っているの」
「七つの、大罪……」
聞いたことがあるようなないような。確かキリスト教に関連したものだったはず。
「そ。人間を罪に導く欲望や感情のことよ。この争いには稀に訳あって違うのが混じることもあるけど、概ね大罪を司る者たちが参加するわ。そして数いる人間の中から、各々とフィーリングの合う心の持ち主をニバスが選定するってわけ」
「でもなんで俺が傲慢なんだよ?」
いくらなんでもそれは言いがかりだと思った。
「驕り高ぶって、心のどこかで他人を見下していたりしない?」
「特には」
だいたい、高校デビューもすることなく髪も染めていない真っ黒で、学校の成績も中の中。スポーツも別段得意って訳でもない自分が、他人を見下したりなんて出来ようはずもない。
「おかしいわね……」
不可解だとでも言わんばかりに、ルシファーは腕組して頭を悩ます。
ややあって、思い出すことがあったのだろう。音もなく静かに床に降り立つと、赤い瞳で湊を見つめた。
「な、なんだよ」
「虚飾……。そう、あなたの持つ大罪の心は『虚飾』よ」
彼女が言うには、もともと大罪は八つあったらしい。
『暴食』『色欲』『強欲』『憂鬱』『憤怒』『怠惰』『虚飾』『傲慢』
それらの枢要罪を六世紀頃のローマ教皇グレゴリウス一世が改訂し、虚飾は傲慢に組み込まれ、怠惰と憂鬱がまとめられた。そして『嫉妬』を加えた七つが新たに大罪とされたそうだ。
虚飾だと指摘され、湊は思わず顔を逸らした。
それを許すまいと、ルシファーの両手が湊の頬を優しく包む。無理やり顔を向けさせられ、再び赤い瞳と目が合った。
見つめられているだけで、なにもかもが透かされているような感覚に襲われる。恐怖にも似た、ぞわっとした背筋の粟立ちを感じた。
「私は別にあなたを責めている訳じゃないわ。その心があったから、あなたは私の契約者に成り得たのだしね。それに聖人君子でもない限り、人間なら生きていれば誰しもが身に付けるものよ、偽善や虚飾は。恥ずべきことじゃないわ」
自分の内面を見られている、奇妙で不気味な感覚。
ほぼ核心をついてくる言葉であるにもかかわらず、なぜかそれに安堵している自分がいた。赦される温かさが、その言葉には宿っていたから――。
湊は小学生の頃、いじめにあっていた。
仲裁しようとした教師によって設けられた話し合いの場で、いじめた側が明かした理由はいたって下らないものだった。
たまたま目に付いたから。いじめやすそうだったから。
そんな理由で、クラスの三分の二がそれに加担していた。無視に始まり授業中の嫌がらせ、机のらくがきに靴を隠されたりと色々された。その中には、友達だった子(だと思っていた子)も含まれていた。
小六の頃に父親の転勤が決まり、家族は引っ越すことになる。中学では新しい生活が始まる。期待よりも不安と恐怖の方がずっと大きかったが、湊は一つ学習していた。
……人間なんて、信じるに足らないものだ、と。
いじめられた経験から、他者からそういった標的にならぬよう、誰に対しても当たり障りのない愛想を振りまくことを覚える。自己防衛としての、心の壁を隔てた表面的付き合いだ。周囲には同調し、困っていたら助け、頼まれれば断らない。
内申書だけなら評価は随一と言ってもいいくらい、それだけに特化した優等生。
演じ続けて偽る自分に嫌気も差すが、素の自分を曝け出せないまま多感な時期を過ごしたせいで、今でも偽善という名で虚飾された仮面をかぶり続けている。
――不思議と涙が溢れ出した。
嫌だった過去は封印したはずだった。思い出すつもりなんて全然なかったというのに。
「いい子ね。自身の罪をよく理解し、その穢れを識っている。涙を流せるというのは大罪に対して純粋な証だわ。あなたなら、きっといいマスターになれる」
頬に手を添えたまま親指でそっと湊の涙を拭うと、ルシファーは不意に口付けをしてきた。
ふわりと、信じられないくらいに甘い香りが鼻腔を刺激する。初めて触れたやわらかな唇の感触が湊を脱力させ、体の自由を奪った。
軽く触れる程度の一瞬は、しかし湊の脳裏にさまざまな情景を垣間見せた。
「今のは……?」
「見えた? それが……私の罪よ」
それは、傲慢ゆえに起こした叛乱、天界からの堕落、憤怒、そして憧憬などさまざまだった。
静かに湊から離れると、少女はカーテンから漏れる光に目をやる。
眩しそうに目を細めた刹那、彼女が見せた憂いを帯びた横顔が、湊にはとても儚く見えた。
「――ん?」
ふと胸元に違和感を覚えた湊は、その部分に触れてみる。なにやら硬い感触があった。
パーカーのジッパーを下ろしてみると、そこには六枚の翼に抱かれる黒い逆十字のネックレスが。
「な、なんだこれ?」
「私たちの繋がりの証。一人ひとり違う意匠のネックレスになってるの。そして……」
言いながら、ルシファーは胸元から小さく折りたたまれた一枚の黒い羊皮紙を取り出した。
「これが契約書よ」
差し出されるままにそれを受け取る。
初めて手に取る羊皮紙はなめらかで、不思議な手触りだった。
しかし感動はすぐさま引っ込む。目を通すと見たこともない文字が、血みたいに赤いインクでびっしりと書かれていたのだ。
「よ、読めない」
「とにかく、それにサインをして血判を押したら契約は完了よ」
「内容とかって教えてくれないのか?」
「それは無理ね。強いて言うなら、あなたの望みに対する約定。自分が望んでいることが解っているのなら、それを望むのか否か。あなたの判断することはそれだけよ。ちなみに、こちらからの条件は教えられないわ。私たちとの契約はそこまで甘いものじゃないから」
期待はしていなかったが、そういうことなのだろう。
契約……。
どういった内容なのか、皆目見当もつかない。七つの大罪を司る堕天使との契約だ。なにかしらの代償がないとも限らない。いや、普通はあるものだろう。臆して躊躇する。
だが、湊は心のどこかで嬉しさも感じていた。今まで誰にも打ち明けられなかった事を識る者との邂逅。偽りの自分を赦してくれる、理解してくれる存在がすぐ近くにいる。
湊の中で、迷いなく小さな決意は生まれた。
「――分かった」
内容について追及することなく、窓際の机に向かう。
引き出しから万年筆を取り出した。羊皮紙の一番下、横線の上に名前を記入しようとし、ふとその手が止まる。
「これって漢字でいいのか? ローマ字?」
「なんでもいいわ。あなたが書いたあなたの本名なら、どこの国の表記でも」
その言葉に頷き返し了解とした。『桐嶋湊』漢字で力強く記入し、いつの間にやら止血されていた左手中指の傷口を開く。ピリッとした痛みが疼く中指に、右手親指を擦り合わせる。満遍なく血を塗すと、書いた名前の横に血判を押した。
すると、名前の部分が黒色から赤色へと変化する。
「これで、バルベリトの持つ魂の記録帳に書記された。ここに契約はなったわ、ミナト」
「あ、俺の名前」
「契約するまでは、名前を呼ばない決まりになってるから」
バサッと大きく翼を開くと、ルシファーはこちらに向き直った。机を離れ、湊もそれに正対する。身長一メートルもない彼女。湊は目線が合うように膝を折った。
「改めて、漆黒の堕天使ルシファーよ。よろしくね」
「桐嶋湊、こちらこそよろしく」
白黒の羽根が舞い落ちる中、二人は固く、握手を交わし合った――。
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