第一羽 漆黒の堕天使ルシファー

1-1

 それは翌日、土曜日のことだった。

 春。無事進級し、新たに後輩を迎えることになった桐嶋湊きりしまみなと。十六歳、高校二年生。

 朝、自室で一人。棺を前にして湊は当惑していた。目元には薄っすらとくまが出来ている。

 昨夜、黒衣の男からこれは鞄だと説明されたが、家に帰ってからというもの、これを開ける気にはなれなかった。触れようとすると、黒い靄のようなものが棺を覆うからだ。

 棺が気になって夜もおちおち寝られない。結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。


「どうするんだよ、これ」


 誰にともなく口にした言葉は、力がない。

 胡乱気に目を細め、まず外見を検める。基本色は黒。銀で縁取りされ、豪華な装飾を施された高そうな代物だ。棺の蓋には十字の意匠が見て取れる。重厚な見た目とは裏腹に、さほど重くはない。エレキギターくらいか。背面には革ベルトが付けられており、背負うことも可能。

 先の靄が出てこなければ、少し痛いだけのギターケースに見えるのだが。

 ――まさか本当に死体なんて入ってやしないだろうな?


「…………」


 睨めっこしていても仕方がない。ついに湊は覚悟を決めた。

 鬼が出るか蛇が出るか。予測の付かない恐怖心は確かにある。しかしそれと同じくらい、好奇心をくすぐられていた。

 退屈な日常に、少しくらいのスパイスを……。

 ゆっくりと棺に手を伸ばす。その瞬間を待っているかのように、黒い靄が再び棺を覆った。

 生唾を飲み込み、自身の背中を気持ちで押す。棺に指先が、触れた。

 ――カチャ、鍵穴から音がして、独りでに棺の蓋が開く。中から靄がぶわっと溢れ出てきた。

 不安と期待の混じる瞳で一部始終を目の当たりにする。

 やがて黒い靄が霧消し、湊がその中身を認識するのに、およそ五秒を有した。


「……う、うぅおおあああッ!」


 思わぬものが入っていて、驚きのあまりクローゼットまで後ずさる。

 それもそのはず、中に横たわっていたものは、白骨だったのだ。

 理科室の骨格標本をさらに小さくしたような、八十センチほどの全身骸骨だった。


「気持ち悪っ」


 鳥肌のたつ腕を思わず撫でさする。

 恐る恐る這っていき、真贋を確かめようと棺の中を覗き込んだ。


「本物、なのか?」


 ゆっくりと手を伸ばし、鎖骨付近に触れてみる。


「うん、分からん」


 白骨なんて触ったことがない、当たり前だった。

 しかしよく見ると綺麗な色をしている。純白で、汚れなんて一つもない。本物だったらもっと煤けていそうな感じはする。

 ふと、目線をずらし、偽物だと思える決定的な部分を見つけた。

 それは背中だ。人間にはないはずの骨が、計三対伸びていた。それらはまるで鳥の翼のようになっている。


「なるほど、たまに見かけるな。骸骨グッズの小物入れ」


 小物入れと呼ぶにはいささか大きすぎる気もしないでもない。が、湊はそれで納得することにした。

「ん?」白骨に目を這わせていて気づいた。腰元に白い紙が挟まれている。骨に手を触れぬよう注意しながら、慎重にそれを抜き取った。

 表には朱の封蝋が押されている。印はサバトの牡山羊を模ったような不気味なものだった。

 手紙を開封し、湊は中に目を通す。


「なになに――」


 Dear 湊……この時点ですでに怖い。昨夜の不気味な男とは初対面なはずだ。それに名を名乗った覚えもない。なのに宛名がされている。

 顔を引きつらせながらも、湊は先を黙読する。


 ――この棺の主の名は『ルシファー』

   七つの大罪は『傲慢』に相当する堕天使だ。

   君はまずルシファーをこの世に顕現させなければならない。

   杯を血で満たし、受肉させよ――


「堕天使? それより杯って……ああ、これか」


 白骨の足元には確かに、銀製の小さな杯が置かれていた。

 親切なことに、すぐ脇には果物ナイフくらいの鞘付き刃物も添えてある。体を傷付けて血を流せということだろう。


「って、これを血で満たす? なんの冗談だよ」


 あまりに突飛な話で唖然とした。

 杯は確かに小さい。高さは小指程しかなかった。だが問題は碗の部分だ。広がる口はおちょこほどもある。


「バカバカしい。これ満たすのにどれだけ血液が必要だと思ってるんだ」


 献血でも行ってそれをもらってこない限りは無理だ。

 呆れて興が削がれた。ため息交じり、湊は棺の蓋を戻そうと手をかける。


「――あれ? ぐんぬぬッ」


 しかし棺の蓋はどれだけ力を入れようとも、ビクともしない。

 つまり、血を捧げなければ蓋はずっと開いたままということ……。

 もう一度白骨を見やる。

 手紙には堕天使と書かれていた。受肉させれば堕天使が見られるということか。本当だとするならば、そんな非現実的なことはそうそうお目にかかれないだろう。

 棺の中からナイフを取り出すと、なんとはなしに鞘から抜き放つ。少し湾曲する細身の流麗な刃が、カーテンから差し込む陽光をきらりと反射する。

 正直、痛いのは嫌だ。けれどこのままじゃ埒が明かない。見届けるにせよ捨てるにせよ、棺が開いたままなのは気持ちが悪い。

 湊は大きく深呼吸した。何度も繰り返し、自分のタイミングを計る。息を出し切り、また大きく吸い込み息を止め、心音が正常を敲いた。瞬間――

 ナイフの切っ先を左手中指に添える。そして一息に軽く引いた。


「痛ッ!」


 顔をしかめながら確認する。切れた部分からは血が滲み珠となり、やがて指を伝った。

 左手を杯の上へと持っていき、親指で中指をグッと押す。勢いよく溢れ出た血液はパタタと数滴杯の中へと落ちた。

 するといくら倒そうとしても動かなかった棺の蓋が、今度は驚くほど容易く閉じた。やがて全体がラベンダー色の淡い光を放つ。

 ごくりと喉を鳴らし、湊はベッドに腰掛けて事の行く末を見守る。やがて発光は治まった。

 しかし待てども変化は見られない。


「……なにも、起きないな」


 まさか失敗だったのか? 湊は目を瞬かせた。

 説明には確かに、杯を血で満たせと書いてあった。だが常識で考えるなら八十ミリリットルほども入りそうな杯を満たすだなんて、冗談だと思うだろう。

 結局インチキか。少しの期待を抱いていた湊は嘆息する。

 と――


「血が、足りないわ」


 くぐもった声と同時だった。棺の蓋がギギっと押し上げられ、中から銀髪の少女が現れた。白骨で見たとおり、背中には三対の翼を備えている。

 まるで二日酔いのOLみたく頭を押さえながら、気だるそうにゆっくりと棺の縁に腰掛ける少女。

 湊はその様子をただ呆然と眺めていた。


「――ん?」


 不意に少女と目が合った。

 宝石のような気高さを湛えた赤い瞳。傷みとは無縁な透明感のある銀髪は背中まで伸び、目鼻立ちの整った柳眉麗しい顔立ちをしている。

 コルセットで絞められた特徴的な黒のベルベットドレスを着込み、黒いロングブーツを履いていた。

 豪奢な衣装に包まれた肌はきめ細かく、その白さは新雪のようだ。腰の細さと開いた胸元から覗く膨らみが、スタイルの良さを雄弁に物語っている。

 存在そのものが光輝さに満ち溢れ、直視しているのが罪だと思えるような美しさだった。


「あなたが私を受肉させたの?」


 非現実な光景に思わず見惚れていると、急に凛とした透き通る声で話しかけられた。


「え、あ、ああ」

「そう」


 湊の中指に滲む血を見て涼しげに目を細めた少女は、ゆらりと立ち上がる。ゆっくり歩いてくると、ベッドに腰掛ける湊の前で跪いた。

 信じられない。といった驚きの表情のまま固まる湊の左手を、優しく取ると――


「ッ!? 」


  その中指を、少女は躊躇いなく花びらみたいに可憐な唇で咥えた。

 指の裂傷をなぞるように這う生温かい舌。その温さが、間違いなく少女が生きているモノであるという現実を湊に実感させる。

 ひとしきり咥え、傷口から血を舐めとった少女は口を離した。ツッと糸引く唾液に朱が混じり陽に煌く。


「ふふ、なかなか上質な血だわ」


 くすりと笑む少女は、妖艶。その一言に尽きた。彼女はあまりにも場違いなほど、現実離れしすぎた存在だ。

 自然と喉が鳴る。


「お前は一体……」

「棺の中に入ってたでしょ、手紙? それに書いてあるわよ」


 そういえばと今さら思い出す。書いてあった名前の通りだとすると――


「……ルシ、ファー?」

「そ、私はルシファー。漆黒の堕天使ルシファーよ」


 バサッと六枚の翼を広げて宙に舞う。羽ばたく度に黒い羽根がはらはらと舞い落ちた。

 だがそこで湊は気づく。三対六枚の翼の内、左上だけ白いことに。


「漆黒? でも一枚白いんだけど」

「ああ、これ。別になんでもないわ。ただ、染まらないだけよ――」


 にべもなく言い放つ少女から有無を言わせぬ威圧を感じ、それ以上の追求は出来なかった。「永遠にね」最後にそう呟いたルシファーの表情は、どこか哀しげに見えた。


「――と、そんなことより。早く契約を済ますわよ」

「契約?」


 一瞬なにを言われたのか分からなかったが、冷静さを取り戻すにつれ、それが何を意味しているのかを理解する。


「あっ! やっぱりこの棺の代金請求するんじゃないか!」


 タダでくれるから貰ったものを。あの男……と湊は心の中で恨み言を吐露する。

 しかし次にルシファーから返ってきた言葉は、予想だにしないものだった。


「なに言ってるの? 私との契約よ。これから戦争をするための、ね」

「は? 戦争……?」


 訊ねる湊に頷き返すルシファーの目には、冗談とは受け取れない真剣さが宿っていた。



          †



「――ようやく出てきたか」


 青空に輝く太陽を、高層マンションの屋上から忌々しげに睨みつけていた男が言った。深く、玲瓏な声だ。

 男といっても、人ではない。その頭には、大中小の捻じれた黒い角が計十本生えている。全身を黒いマントで包み、腕には蛇を巻きつかせていた。


「ニバス、首尾はどうだ?」

「大丈夫です、他も出揃いましたよ。サタン」


 サタンと呼ばれた十本角の男が、口元に微笑を刻む。

 すると彼の周囲の次元がたわみ始めて、もう一人現れた。

 白黒を基調とした道化師のようなだぼっとした衣装に身を包む、笑みを絶やさぬ飄々とした男だ。ニバスと呼ばれた男は現れるなり、膝を付いて黙礼する。


「ふん。さっさと終わらせて俺は地獄に帰るぞ。ここは些か臭うからな」

「物質界はお嫌いですか?」

「人間共の掃き溜めを好く道理はない。厄介な制約さえなければ、この世界など今にでも破壊し尽くしてくれるわ」


 冷視をもって下界を見下ろす彼の瞳の奥に、ニバスは憤怒を見た。

 そんなサタンのぼやきに、道化は訳知り顔で頷くとくすりと鼻を鳴らす。


「では、今宵から早速始めることにしましょう。悪魔王を定める、戦争を……」


 そう呟くニバスの瞳は、妖しく黄金色に輝いていた――。

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