アルカ ―seven deadly sins―
黒猫時計
プロローグ
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満員電車の混雑の中、自分の周りはなぜか女子高生しかいない。そんなハーレムじみた状況を素直に喜べず、変な言いがかりを避けるためにずっと手を上げていた。
駅に着くまでの三十分、ずっとだ。
普段なら、別段疲れることもなかったろう。しかし今日は五限目の体育でマラソンがあった。
湊は長距離には自信がない。いつも後ろから数えた方が早い順位を上下している。昔から持久力のなさは自覚していた。
そんなことも手伝ってか、ただでさえ疲れているというのに、わざわざ煩わしい駅前の人込みを通って帰ろうという気力も出なかったのだ。
降りる駅に着いてからもクラスメイトと他愛のないことを駄弁っていたせいで、辺りはすっかり暗くなっていた。付き合いとはいえ、相変わらずな性格に自分のことながら自嘲する。
見上げた空では上弦の三日月が、嗤うように笑みを刻んでいた。そんな自分を嘲笑うかのように……。
暗い行く先をか細く照らす、赤いママチャリに取り付けた頼りなげな白いLED。
ちょっと脇道をそれた色を失ったビル群は、駅前の繁華街とは程遠く、今にも襲ってきそうに雑多に立ち並んでいる。明かりが点いていないせいか、それらはどこか冷え冷えとして見えた。
急に心許なくなり、湊はペダルをこぐ足に力を込める。
しばらく自転車を走らせ、雑居ビルを抜けてやがて閑静な住宅街へと入る。ちょうどそんな境界での出来事だった。
「――うおっ!? 」
唐突に、自転車の前輪が硬質のなにかにぶつかったのだ。勢いのまま乗り上げられるほど低くなく、イメージ的には道路の縁石くらいだろうか。
衝撃でつんのめりながら、湊はそのまま地面に着地する。
「危ないな。なんだよ一体、トラックの落し物か?」
しかし落し物だと思ったそれは、下から上へ向かって伸びているようだった。ズズズっと前輪をなで上げる衝撃がハンドルから伝わってくる。
何かと覗き込んだ時、驚愕で息を飲んだ。
人影だ。人影が下から伸びてくる。
水を求める魚のように口をパクパクさせ、非現実な光景を目だけで追っていた。
そしてついに、人影は地上に姿を現した。
それは目深にフードをかぶった全身闇色の様相で、その肩に棺桶じみたシルエットを背負って立っている。
その人物は首だけを動かして振り向くと、
「ようやく、見つけた……」
抑揚を抑えた、感情を窺わせない物静かな口調で発した。夜の闇と同化する全身ローブから、口だけを動かして。
こればかりはいくら気疲れしているとはいえ、さすがに湊も自転車を放り出す。
「なっ、なな……」
路地のブロック塀を背に、言葉にならない声を漏れ出る吐息に乗せる。
そんな湊に、闇色の人物はゆっくりと体を向けた。背負っていた荷物を落とす。
カンッ、と硬そうな音をたてて、棺が地面に屹立した。
「そんなに驚かないでほしいかな。僕は君を探していたんだ」
先ほどとは打って変わって、今度は笑みを浮かべた飄々とした態度だった。
百七十センチの自分と同じくらいの身長を持つその人物は、声質からどうやら男のようだ。
背筋が冷えるのは、なにもブロック塀だけのせいではない。春先の肌寒さとも少し違う。
得体の知れないその人物に、湊は恐る恐る口を開く。
「お、俺に、なにか用なのか?」
「ずいぶん恐縮しているようだね。もっと気を楽に」
和ませようとしているのか、怪しすぎる黒ずくめは「リラーックス、リラーックス」と、宙を撫で下ろすジェスチャーをする。
それで警戒を解いたわけではない。いつでも逃げられるよう、自転車の方に意識を向けつつ、湊は先を促した。
「それで、用ってのは」
「うん、まあ単刀直入に言おうか。君にこの棺をプレゼントしよう」
「断る――ッ」
言うなり湊は駆け出した。一直線に自転車へ。
どこの馬の骨とも知れない輩から、意味もわからず怪しげな棺桶を受け取る義理はない。
しかし湊の伸ばした手は、寸でのところで自転車に触れることはなかった。代わりに触っていたものは棺桶の蓋だったのだ。
「う、うわぁ!」
瞬間的に手をどけた。不浄なものに触れたと、何度も制服の裾で手を拭う。
「これは君の持ち物だ。なにをそんなに嫌悪しているんだい?」
「俺はそんな落し物なんかしてないッ!」
「それ以前に。なにか勘違いしているようだけど、これはただの容れ物だよ? 鞄と同義だ」
「鞄だって?」
そう言われれば、人間サイズではない。大体一メートルくらいの、少し幅広の厨二ギターケース。そんな例えがしっくりくる。どうりで肩に担いで出てきたわけだ。
もし死体が入っているのなら、RPGではないけれど引き摺って現れるだろう。
そう考えればこそ、本物じゃないのなら意外とカッコいい鞄だとも思えた。
「納得してくれた?」
湊はとりあえず頷いた。
「よかった。なら、君にあげよう」
そう言って背を向けたフードの男に、湊はつい声をかけてしまう。
「これ貰って、後から請求書とか来ないだろうな? そんなんなら、ここに捨ててくぞ」
タダでくれるのならと、つい肯定するようなことを口走ったが、後悔しても後の祭り。
振り返りざまに男が見せた口元は、弓形の月みたいにつり上がる不気味な笑みだった。
悪寒を感じた全身が総毛立ち、不吉を予感した湊は、「やっぱり――」そう断ろうと口を開いた矢先――男の姿は黒煙となって跡形もなく消えた。
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