ファンネ・クリューエル

幻界

「お疲れさま、先に帰るよ」

「もう終わったんすか?いいなあ、俺も帰りたいです」

「少しだけ定時が遅いだけだろ?ほら、今度酒でも奢ってやるから、あと2時間頑張れ」

「はーい、お疲れさまっしたー」

「お疲れー」


とある小さな会社で事務仕事をしている俺は、いつも通り定時で仕事を終えて家路に付く。

仕事が忙しい時期となると流石に定時だなんて言えなくなるが、暇な時期は本当に暇でほぼ毎日定時である6時までにその日の仕事は終わってしまう。

そのため、我が家で帰りを待ってくれている妻や、来年小学生になる娘と毎日一緒に夕食を摂ることができる。なんて幸せな日々だろうか。

会社から出て外を見ると、鮮やかに花開く桜が目に入った。

その中にはもう待ちきれないと言わんばかりに既に花を開き切っているものも混ざっている。

それがまるで、来年行われる小学校への入学式を待ち遠しくはしゃいでいる娘のように見えてとても微笑ましい。


「よし、早く帰ろう、なんだか気分が良いし何かケーキでも買って行ってあげようか」


ふと思いつき、どうするかを考える。

一番近くにあるケーキ屋は会社からそれほど離れているわけでは無い、帰りが大きく遅れてしまうなんてことは無いだろう。

ケーキ屋を目指し寄り道をすることに決めた。


会社から歩いて5分程、家へと向かう道とは反対方向にあるケーキ屋へと入店する。

この会社は入社した自分で言うのもなんだが中々に便利な立地だ。妻と喧嘩したときも良くケーキを強請られるので助かる。

さて、娘には何を買って行けば一番喜ぶだろうか、ああ、あの娘は俺に似てモンブランが好きなんだよな。

妻はチーズケーキの類が好きなのでモンブランがひとつしか無い時は大概自分と娘で取り合いになっていることを思い出す。

……我ながら大人気ない。


「とりあえずモンブランをふたつと、レアチーズケーキをひとつ買って行けばいいか」


多少悩んだ後、それらを店員に注文し、購入する。

腕時計を見ると時間もそれほど経っていない、ある程度の距離を小走りすればいつもの時間に家に帰れるだろう。

何事も無いかのように家に入れば、驚かせることもできるかもしれない。


「少し、走るか」


そうと決まればやるしかない、たまにはこうゆうのも良いだろう。

ケーキ屋から出て、箱の中のケーキが崩れない程度に小走りをする。

幸いこの時間帯は人目や車通りが少なく、スーツ姿でケーキの箱を手に走っていても目立つことは無い。

自分の足音のみが周囲に響く中、いつも娘が遊んでいる公園の目の前を走り抜けようとしたその時だった。

ゆっくりと視界が霞がかり、意識が遠のくのを感じたのは――。


「ん……?」


それからどのくらいの時間が経ったのだろうか。

空が茜色から藍色に染め上げられて行く中、俺は公園のベンチで横たわっていた。

正確には誰が掛けてくれたのだろうか、毛布を掛けられ眠っていたようだ。


「どうしたんだ、俺、倒れでもしたのか?それよりも今はいったい何時だ……?」


ゆっくりと身体を起こしながら小さく溢す。

早く帰らなければ、妻と娘を待たせている。

帰りが遅くなる時はいつも連絡を入れている、何も伝えていない今日はきっと心配しているだろう。

しかし、時刻を確認しようと腕時計に視線を落とすと腕時計は割れて使い物にならなくなってしまっていた。


「ああ、もう、これじゃ時間がわからない、とにかく急ごう」


ベンチから降り、再び家路に付く。

毛布を手にしつつも何かを忘れてしまっているような気がするがそれも思い出すことができない。

どうにかして思い出そうとしながら回りを見渡していると、電柱の下に落ちている小さな桜の花がやけに鮮明に俺の視界を刺激した。


「咲くのが早すぎたのか、落ちちゃったんだな。でもこんなところに、どこから?」

「……あの」


電柱に近づき、桜の花を見つめていると後ろから小さく声が聞こえた。

誰かと思いゆっくりと振り向くと長く、ふわふわと羽根のように揺れる長い菖蒲色の髪と、その裏で控えめにこちらを見つめる勿忘草色の瞳が目に入った。

後ろから聞こえた声の主は、淡い水色で、フリルの付いたワンピースを身に纏った一人の少女だった。


「おはようございます、お兄さん」

「お、おはよう……?」

「その毛布を掛けたのは、私なんです」

「ああ!そうだったんだね。ありがとう、もしかしてお兄さんのことをベンチまで運んだのも?」

「はい、私です」

「一人で運んだの?ごめんね、お兄さん重かったよね。ありがとう」


そういえば掛けられていた毛布は表面が少し汚れていたような気がする。

わざわざひきずってまで運んでくれたのだろうか、申し訳ない。


「いえ、良くあることですから慣れています」

「良くある?」

「はい、良くあるんです」


そう言って弱く微笑む彼女の表情はどこか哀しそうで、今にも崩れてしまいそうなものだった。

何か悪いことでも言ってしまっただろうか、話題を変えることにしよう。


「あ、そうだ、俺はどのくらい眠っていた……この場合は倒れていた?のかな」

「それは……」


そこで、少女はさらに言葉に詰まる。

相当な時間意識を失ってしまっていたのだろうか?

もしかしたら目を覚まさないのに起こさなかったことで罪悪感を感じている、とか……?


「もし起こさなかったことで心配してるなら大丈夫だよ。家に帰ったら妻にも娘にも倒れているところを女の子に助けてもらったんだって伝えるから」


自分で言っていてなんだか誰にも信じて貰えない話のような気がしているがこの子を安心させるためだ、構わない。


「そうじゃ、ないんです……」


嗚呼、これも違ったようだ。娘もそうだが女の子は良く分からない、それが面倒だなんてことはないのだが。


「ん?それじゃあ、どうしたのかな」

「……少し、お話しをしませんか」

「話?うーん……うん、良いよ。ここまで遅れちゃったんだし、長くならないなら少しくらい君に時間を割いてもきっと大丈夫」


本当はすぐにでも家に帰りたい所ではあるが、助けてくれたこの少女を放っておくわけにも行かないだろう。


「ありがとうございます。それでは立ち話も疲れるでしょうし、ベンチに座りませんか?」

「ああ、そうさせて貰うよ」


少女に促され、先ほどまで自分が横たわっていたベンチへともう一度向かい、腰を下ろす。

腰を下ろしたのと同時に不思議と小さな違和感を感じたが、それが何かはわからない。


「ふう、やっぱり座ると落ち着きますね」

「そうだね。ええと、それで、話って何かな」

「はい、少し変な話になりますけれど引かないで下さいね」

「大丈夫だよ、ちゃんと聞くから」

「わかりました、それでは……」


自分のすぐ隣に座っている少女は少し俯き、言葉を溜めてからこちらを真っ直ぐと見据えて問いかけてきた。


「お兄さんはもし自分が世界に取り残されたらどうしますか?」


少女の瞳には、力強さとは程遠いか弱さが含まれている。

しかし、それなのに、その視線は鋭くこちらを貫いてきていて、その感覚がとても虚しく感じてしまうのは何故なのだろうか。

なんともまあ、今日はやたらと不思議な違和感を感じることが多い日だ。

この違和感に絡めとられてしまう前に、少女の問いに対して口を開く。


「世界に取り残される?」

「はい、今ここにひとりぼっちで、誰もいなくて、それなのに世界にある物はそのままで」

「どう、するかな」


自分がこの世界に独りだけ、先程まで仕事をしていた同僚も、ケーキ屋の店員もいない。

勿論、妻も、娘も……。


「少し、考えられないかもしれない」


妻と娘が自分の手が届く範囲にいない、これ程までに残酷なものも無いだろう、あまり考えたくは無い。


「そうですよね、それが普通です。ですけれどお兄さん、今お兄さんが置かれている状況は私が言った状況そのものなんです」

「……は?」


この少女は何を言っているのだろう。


「でも、君はここにいるよね?」

「それは私だから、ここに居ることができるんです。確かにここは元々人通りが少ないです。ですけど、もう少し周りを見渡してみてください」

「ええと、うん……?」


少女に言われるがままに周囲を見渡す、いったい何が――あ。


「明かりが、ひとつもついていない……?」


既に辺りは暗くなり始めている、公園の奥で遠目に見える住宅街はそろそろ明かりが灯っていてもおかしくない頃だ。


「そうです、本当に誰もいないんです」

「ど、どういうことなんだ?」

「世界には、普段お兄さんや、他の人達が暮らしている世界の他にもいくつか世界が存在しているんです。天国や地獄と言われるものが良く知られていますよね」

「ああ、うん」

「ここは、その中でも俗に言う“霊界”と呼ばれる世界とお兄さんが暮らしていた、ええと、“人間界”と言ってもわかるでしょうか。その狭間に存在する場所なんです」

「霊界?でもそれって幽霊とかがいる世界のことじゃ?俺は死んでなんか……」

「いいえ、お兄さんはあの日、ここで、今まさに立っているこの場所で、事故に遭って亡くなってしまっているんです」

「あの日?事故?何も心当たりは無いけど……」

「そうですね。それでは今日、何か大切なことを忘れていませんか?」

「俺は何も、今日はいつも通り仕事を終わらせて、終わらせて……そうだ、ケーキ!ケーキを買ってきてたんだ!危ない危ない、忘れるところだった」


どうしてこんな大切なことを忘れていたのだろう、ええと、ケーキの入った箱は。


「そのケーキは、これですよ」


自分が今座っているベンチの付近を見て箱を探していると、少女はまたどこかから一枚の写真を取り出しこちらへと向ける。

そこに写っていたのは、紅く染まり、大きく拉げたケーキの箱だった。

中から飛び出ているのはモンブランとレアチーズケーキのようだと辛うじて判別できる。


「これは、俺が今日買ったのと同じ……」

「ここまで急ぎ足でお話してきました。理解できなくても仕方がありません。ですけどあまり時間が残っていないんです。もう少し、もう少しだけ思い出して下さい。あの日、いえ、今日でしょうか、この公園に辿り着いたあの後何があったのかを」


どこか切羽の詰まった口調で押し迫られる。


「今日俺は、俺は……」


仕事を終えて、ケーキを買って、ここまで来て、それから意識が遠のいて。

意識が、遠のく?意識が?そのまま気を失う?本当に?

俺は、ここで、ここで――。


――どこからか、大きなブレーキ音が聞こえる。


耳に入ってきた鼓膜を破るような音の方向へ目を向けると、そこには大きくバランスを崩したトラックが、こちらへ向けて速度を下げること無く飛び込んで来ていた。

車体は大きく傾き、方向を変えることは無いだろう。トラックの荷台には明らかに比重が偏って乗せられている積荷があるのだから。

目の前で時間が遅くなったかのように広がる光景、どうしようか、俺はどう避ければいいだろうか。

そうだな、ケーキ、ケーキは崩れないようにしたいな。だけれどケーキを犠牲にしたとしてもこれを回避できるのだろうか。

もしこのまま俺が居なくなってしまったら妻と娘は誰が養うのだろうか。嗚呼、入学式の写真も撮らなければ。

娘の入学式のためだけに新品のスーツを今から購入するだなんて我ながら相当な親馬鹿だと思うがどうなのだろうか。

カメラは幼稚園の入園式の時に最新の物を買ってしまったんだっけ。

これからの娘の成長が、とても楽しみだ。

さて、俺は、このトラックを――。


「あ……うそ、だ」

「思い出しました、か」

「俺は、避けきれないと思って、ケーキを抱いてそのままその場で蹲って、それで」


そのまま、事故に遭った。

今身に着けている割れた腕時計は、その名残なのかもしれない。


「はい、トラックに押しつぶされ、そのまま帰らぬ人となりました」

「そんな、そんなこと……」

「今まで自覚がありませんでしたよね。そのせいでお兄さんはあの世でもこの世でもない、この世界に取り残されてしまっているんです」


自覚が出来ていなかった、確かに自分が死んでいるだなんてことは信じ難い出来事である。

なのに不思議と、少女から突き付けられた言葉をしっかり飲み込むことができてしまった。


「そうか、うん、そうゆう人生、だったのかな」

「……取り乱したり、しないんですね」

「ああ、どうしてだろうね、落ち着いてる、もしかしたら気づいていたのかもしれない」

「そう、ですか」

「どうして、君が泣くの?」


今まで淡々と説明を続けていた少女の瞳には、涙がひとつ、流れだしている。


「いえ、ごめんなさい、大丈夫です。少し安心しただけですから」

「安心?」

「こちらの話ですから、気にしないでください。あの、お兄さん」

「何かな」

「お兄さんは気づいていたのかもしれない、って言いましたよね。それは自分が死んでしまっていることに、でしょうか」

「そうだね、どうしてかはわからないけれど、君に教えられたとき、その日のことを思い出したとき。スッキリとしたんだ」

「もしかしたらそれは、この桜の花のおかげかもしれません」


少女は、俺の足元に落ちている桜の花を指さした。

それは俺がここで目覚めた時、何よりも強く視界に入って来たものであった。


「これが、何か?」

「これは小学生になった、お兄さんの娘が置いて行ってくれたものなんです」

「小学生になった?」

「はい、お兄さんが亡くなったのはもう1年も前のことなんです。そして今日は、お兄さんの娘さんの入学式の日、4月の1日です」

「そ、れは」

「お兄さんの娘さんが、パパにも見せてあげるんだ。っと桜の木から背伸びして花を取って来て、ここにお供えしたんです」

「そうか、もう、小学生なんだな、良かった、良かった、ふふ、ありがとうな……」


娘は元気に大きくなっている、その安堵によって、涙が零れだす。

本当に、本当に良かった。


「……そして、この桜のおかげで私はこの世界を壊すことなく、お兄さんを助けに来ることができたんです」

「俺を、助けに?……そうだ、そういえば君はいったい何者なんだ?」


散々理解の限度を超えた出来事を伝えられ、すっかり忘れてしまっていた。

この少女はいったい何者なのだろうか。


「私は死神、です」


死神、そうつぶやいた少女は、再びあの弱く、柔らかな微笑みをこちらに向けている。


「そうか、死神か、それなら今までのことも納得だ」

「本当に、驚いたりも取り乱したりもしないんですね。普通はまず私の話を信じてすら貰えませんよ」

「きっと娘のおかげだよ、本当にその桜が俺の中に全部教えてくれていたのかもしれない。最後に小学生になった娘の姿は見たかったけどね」

「そう、ですね、見せたいのはやまやまですが、私にその権限は無いんです。ごめんなさい」

「いや、いいんだ、きっとこれも運命とかそうゆうのだったんだろう、受け入れるよ」

「ありがとうございます……あ」

「ん?」

「そろそろ、時間です。これ以上この世界にいるとお兄さんは人の魂では無くなってしまいます」

「そうなのか?じゃあ、どうしたらいい?」

「そのまま、目を閉じて下さい」


少女に促されるまま、瞳を閉じる。

すると、直後に身体を宙に浮くような感覚が包み込む。

どこか心地良く、懐かしい感覚だ。


「安心して、ゆっくりと深呼吸をしてください」


深く息を吸い込み、吐き出す。

優しく意識が落ちて行く。

思考が、停止する。


――おやすみなさい。


「これで、また一人」


ここまで自分がお兄さんと呼んでいた男性の魂をひとつ回収しながら、少女は誰に向けたわけでもない言葉を地面に落とす。

それとほぼ同時だろうか、少女と男性、その二人が立っていた世界が形を歪めはじめたのは。


「もう崩れてきちゃった」


この世界は、回収した男性の魂によって保持されていた不安定なもので、それを回収するということはこの世界の崩壊を意味する。


「この桜はどうしてこの世界に干渉できたんだろう……」


男性の娘が現世の全く同じ場所に供えた桜の花、それが男性が取り残されていたこの世界への道を繋げた。

これが無ければ規則によりこの世界ごと男性の魂を破壊しなくてはいけなくなっていたのだ。

それは、男性の命どころか、輪廻そのものを止めてしまうことになる。それだけは避けたいと思い道筋を探していた矢先に現世でこの桜を備える娘を見つけ、そこからこちらの世界へとやってきたのだ。


「ありがとう、助けさせてくれて」


電柱の下で鮮やかな色彩を放つ桜に向けてそう伝えてから、少女はふわりとこの世界から姿を消した。

誰一人として居なくなり、存在そのものが不必要となった泡沫の世界で、最後にぽつりと残された桜の花が役目を終えたかのようにはらりと散ったことを、誰も知ることは無い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る