シエル・モード
障礙
夜空は不気味な暗雲に覆われ、頼りとなるはずの月明りすらも無慈悲に遮断された丑三つ時。
住宅街であるにも関わらず辺りには人間どころか生物そのものの気配が無く、静寂ですらもその宵闇に吸い込まれたかのような世界で男は“それ”に出会っていた。
「な……なんだよ、こいつは……」
それは暗闇の中、虚ろな瞳ではっきりとこちらを見下ろしている。
二本足で身体を支えているため人のように見えなくもないが、人間と呼ぶにはあまりにも異質であった。
ぐらりと炎のように揺らめく漆黒が纏わりつく身長二メートルはあろう身体には右腕と呼べる部位が残されていなく、左半身は全体が骨のみとなっている。
右半身に残された血肉はどろりと生々しい湿り気を帯びているため、辛うじて生物に近い物であると判断できていた。
男が恐怖に陥っている理由はそれだけでは無い。骨が剥き出しとなっている左腕の先にはその身長をさらに上回っているあまりにも巨大で、そして不気味な大鎌が握られているのだ。
――こいつから離れなければ。
化物と呼ぶには十二分すぎる存在を目前にして男が導き出せた答えはこれだけだった。
しかし、中々どうして、身体が自由に動かない。恐怖のせいなのだろうか、それともこいつに何かされているのだろうか。
こうしている間にも、片腕だけでは支え切れていないであろう大鎌を地面に荒く叩き付けるかのように引き摺りつつ、それは着実にこちらへと近づいて来ている。
「嘘だろ?嘘だよな?こんなことが現実であるわけが……!」
歩幅に合わせ規則的に響く金属音は、コンクリートの路面を不規則に削り取る。
その音を前に逃げることもできずただ立ち竦んでいると、それは既に目の前にまで迫っていた。
先程まで地に向けられていた大きな鎌の刃先が、今は自分へと標的を変えて大きく振り上げられている。
逃げなくては殺されてしまうだろうと言うのに、依然として身体を動かすことはできない。
――死にたく、ない。
自分に向けて振り下ろされ始めた刃を前に成す術も無く、言葉を発することすらも出来ず、理不尽な死を前にただ瞳を閉じる。
するとその刹那、響き渡ったのは鋼鉄同士を叩き付け合うかのような激しい金属音であった。
「間ぁに合った!」
「……え?」
金属音に続いて耳に入って来たのは年端も行っていなさそうな少女の声。
焦りつつも閉じていた瞳を開くと、男の視界には刃先の上下に刃付を施された。大きな鎌を手にする正真正銘の少女の背中が入って来た。
身長は百五十センチ程度だろうか、蝋色にてらつく大きなポニーテールが良く目に付き、その内側は美しい月白に染まっている。
その先では振り下ろした鎌を少女の鎌で押さえ付けられ、意表を突かれたかのような態度を示す化物がこちらを見下ろしている。
「やっほ人間さん、元気?」
「あ……あぁ?」
「元気は無いけど生きてるね。危ないからまだそこを動かないでねーっ」
目の前で再び鋭く打ち付け合われる刃、劈くような金属音が鼓膜を震わせる。
「おっとと、流石馬鹿力相手だと重たいね……でも、このくらいなら!」
一度身体を引き、その勢いを利用して大きく鎌を押し返す。
再び響き渡る金属音と共にその異形は体勢を後ろへと崩し仰向けに地面に倒れた。
「お兄さーん、今のうちに逃げられる?私ねー、あんまり強くないからお兄さんのこと守りながらはちょーっと戦いにくいかなあ……」
「え、あ、あ」
現実で繰り広げられる突然の出来事と、唐突に振られたその問いかけに困惑する。
逃げると言われてもどこへ?戦う?どうゆうことだ?
「立てないかな、うーん、どうしよう、百メートルくらい下がってくれるだけでいいんだけどな……私の鎌が届かない範囲で、私の後ろに居てほしいの」
「だ、大丈夫、だ。と、とりあえず離れればいいんだな?」
考えても仕方がない、むしろ考えられるだけの余裕は無い。
笑ってしまう程に震える身体と、抜けかけていた腰を無理矢理動かし、よろよろと走れているかどうかも怪しい姿勢で少女に言われた通りの方向へ向かって急ぐ。
「おー、えらいえらい。この状況でそれだけ動けるなら十分だよ。そのまま離れててくれたら絶対守りきるから安心しててねー!」
後ろから届く状況に見合わない明るいトーンの声。
ああ、もう、いったいどうなっているのだろう。俺はただ気晴らしにコンビニへと行きたかっただけだというのに。
夢であるなら早いところ醒めてほしい。しかしこの生々しさは現実で起こっていることなのだろう。走りながら整理しようとするも少しずつ思考が回らなくなってくる。
もう考えることは止めよう。今は生き残ることが先決だ。何もできないけれど。
とりあえず十分に距離を取れているか確認するために脚を止めずに息を切らしながら後ろを振り返る。
すると先程倒されていた異形が右腕の無い身体でゆっくりと立ち上がろうとしているところであった。
身構える少女の後ろ姿からは緊張が見て取れる。大丈夫なのだろうかこれ。やはり俺は死ぬのでは。
一応助けが来てくれたのであろう安心と、それが心もとないかもしれないという状況でこんなことばかりには思考が回るのは不思議だ。
「何をして堕ちた死神さんか知らないけど。その姿からすると貴方は元々魔力の少ない死神さんでしょ、諦めてくれたら嬉しいなあ」
「が、ああっ!」
「あーもう!やっぱり言葉通じないか。依頼通り狩らせてもらうからね!」
この距離では何を話しているのかまでは聞き取れないが、会話が不成立であるということだけは良くわかる。
異形が立ち上がりきる直前に少女は正面に向かって走り出す。
対する起き上がったばかりの異形はそれに反応しきることが出来ずに無理矢理振り上げた鎌が空を仰いでしまっていた。
「身体だけは大きくなっちゃったのか。それとももともと大きかったのか。不便そうだね。私的には好都合だけれど!」
少女は走りながらも手にする鎌を右後ろに下げ、横に振れば異形の脚を狙える位置へと刃先を調整する。
どうやら脚から崩してただでさえ鈍い機動力を更に奪うつもりの様だ。
「そーれ!」
離れた距離でも聞こえる程の大きな掛け声と共に刃が横に振られ、異形の溶けているかのような右足を“ぐちゃり”という生々しい音と共に直撃する。
刃の直撃により異形の脚は切断された……かに思われた。
「よっし……あれ?え?」
距離を取りながら一瞬固まる少女。
それもそのはずだ。切断したはずの右脚の上下はどろどろと互いを呼び合うかのように絡まり合い。接合を保ち直しているのだから。
「うっそでしょ。そうゆうタイプかあ」
明らかに少女の後ろ姿から落胆の空気が見える。むしろこちらにまでその空気が漂ってきているかのようだ。
全ての命運が彼女に掛かっていて眺めていることだけしかできないこちらも気が気ではない。
「困ったな。もう半分の骨が剥き出しになってる部分なら攻撃通ってくれないかな?ってきゃあ?!」
何か思考していたのか立ち止まっている少女に向けて、異形がずっと空を仰いだままだった刃を重力に任せ振り下ろす。
ぎりぎりでその気配に気付いたのか躱してはいるが、お世辞にも安心して見ていられる光景とは言えないだろう。
「これ、考えてたら私がやられちゃうね。仕方ない、マニュアル無視してやりたいようにやってみよっか」
少女はまたも正面から異形へと向かって行く。次は骨となっている左脚を狙う様だ。
しかしそちらには異形の腕が残っている。そう、体躯に見合う大きな鎌が握られているのだ。
流石に二度目である。今回は動きを察知したのか異形もすぐに先程振り下ろし地面に突き刺さったままだった刃を抜き取り、そのまま少女に向けて薙ぎ払う。
「想定済みいっ、遅いよ」
心配しながら見ていると少女は自分に向かってくる鎌の刃にぴょんっと飛び乗り、そのまま柄を走り異形へと突き進んでいった。
おお、これ深夜アニメとかで良く見る光景だ。
「ふふん、左脚狙うと思った?残念でしたっと!」
柄を伝って異形の手元まで近づいた少女はその手先を大きく踏みつけ、異形が持つ鎌を地面へと叩きつけながら空を舞った。そして――。
「そいやあ!」
相変わらずの大きな掛け声と共にくるりと身体を捻らせ回転しながら、まるで掬い上げるかの様に異形の左腕に刃を叩きつけ、切断する。
どうやら狙っていたのは左脚ではなく左腕だったようだ。しかし異形は骨ですらも修復を試みているのか切断された部位から粘り気のある液体が吐き出され始めている。
「どうせそんなことだろうと思ってたから」
少女はこれも織り込み済みだったのだろう。着地と同時に刃を翻し、今度は鎌の柄の部分を強く叩きつけ異形を弾き飛ばす。
「それだけ離されたら治すのも大変でしょ?ああ、これも借りるね」
大きく弾き飛ばされ地面に伏している異形を視界にいれつつ、少女は鎌を握ったまま切断された異形の左腕を叩き落としてから、その二メートルを超える巨大な鎌をひょいっと片手で持ち上げる。嘘だろ。
「わっと、魔力使ってもこれ重たあい……でもちょうどいいかな」
右手には元々所持していた少女の身長程の鎌、左手には異形から奪い取った二メートル超えの鎌を持ち。腕を切断されたことにより起き上がることができなくなり、倒れ伏したまま蠢く異形に向かって歩んでいく。
その姿には守られている立場にいるはずのこちらでさえも恐怖を覚える。本当に守りに来てくれているのかは怪しいところでもあるが。
「ねえ、本当に言葉は通じてないの?さっさと自分で逝っちゃった方が楽だよ」
「ぐあぁ……がああ!」
「はあ、だめだこりゃ。それじゃあこれで終わりね」
何を意思疎通しようとしていたのかまではわからないが、少女は大きくため息をついた後、左手に持つ巨大な鎌の刃を異形の背中へと振り下ろし地面へと釘付けにした。
「半身は溶けて、半身は剥き出しになって、改めて近くで見ると凄い姿だね、これ。辛くないの?」
「があああ!」
「んー、どうしてもだめか。私じゃどうにもできないし、私じゃなくても“私達”の部隊に見つかったのが運の尽きだと思って」
異形の頭を見下ろしながら小さく動いていた少女の口が閉じられ。今度は右手に持つ鎌が大きく振り上げられる。
その刃の先にあるのは……異形の、頭だ。
「このまま、死んじゃって」
最後に何かを呟いた直後、迷うことなく鎌は振り下ろされ、異形の頭を破砕した。
切断ではなく、破砕だ。溶けた肉と骨では衝撃に耐えきれなかったのだろう。
鮮明に染まった刃と、まるで花火の様に飛び散った肉片を前に少女は何を思っているのだろうか。
一方俺はと言うと、あまりにも非現実的過ぎていっそ何も感じることが出来なくなってしまっている。
「……魂の消失を確認……。はあ、まだ慣れないな。これがまだゲームでいうチュートリアルみたいなお仕事だなんて信じられない!十分強かったよねこれ?」
朱に染まった刃を勢いよく地面から抜き払い、そのまま背中に背負いながら少女は独り言を口にしている。雰囲気的にもう終わったのだろうか?俺、生きて帰れる?あ、こっちに向かってきた。
「おにいさーん!大丈夫だった?」
「あ、ああ、おかげ様で」
近くで、それも真正面から見るとやはりこの娘は少女であると再認識させられる。
容姿は中学生くらいだろうか。白いパーカーを羽織り、黒いジーンズを履いた極普通の垢抜けない中学生だ。髪の配色は少し独特だがきっと染めようと思えば染められるのだろう。
「そっかそっか、良かった良かった。目標の近くにお兄さんがいたときはどうしようかと思ったよ」
「目標?あれが?」
「あー……ん、まあいっか。そだよ、あれ、一応死神なの、“元”死神」
「死神?あのアニメやゲームによく出てくる死神?」
「そうそう、その死神。そして私も死神、見習いと卒業の間にいる死神」
「さっきまでの光景とここまでの話の流れでそんな気はしたけど、結局君も死神なのか……え?ということは俺も死ぬの?」
「ないないそんなわけない。殺していいなら守ってないよ。私そんなに器用じゃないもん」
「ああ、見習いとか言ってたもんな」
「そうゆうこと、それにそんな私の立場じゃ勝手に殺す権利とかないからね」
「死神にもそんな規則みたいなのがあるのか、勉強になるな。人間として過ごすぶんには関係ないけど」
「そうだねーっと、それじゃあそろそろ任務完了の報告しに帰らなきゃいけないから、お兄さん、気絶して」
「え?」
流れるように繋げられた最後の言葉と同時に、俺の意識は理解する暇も無く突然途絶えた。
「えっと、ええっと……人間に見られた場合ってどうすればいいんだっけ、とりあえず勢いで魔力使って気絶だけさせちゃったけど、あれえ?」
私は練習として割り当てられた依頼をしっかりこなしたはいいものの、人間が襲われていたという非常事態に出くわしてしまい後処理に戸惑っていた。
戦闘や堕ちた下級の死神を狩ることは何度かしてきたが、人間がいるというのは初めてなのだ。
「記憶って消せるんだっけ?それとも記憶を混濁させるんだっけ?殺さないで安全な場所に移すのは覚えてるけどその過程は覚えてないかな!」
遠まわしに人間の命が関わってるせいで開き直るにも開き直れない。困ったものだ。
「あ、そうだ、後処理に迷ったときはとりあえず掃除屋さんに頼めばいいって教えてくれたっけ。俺も他の奴らもいつも連絡付くわけでもないからって」
一応の解決策はなんとか思い出すことができた。早速スマートフォンを取り出し、教えて貰った人間界に拠点を置く死神の掃除屋のアドレスにテンプレートを利用して依頼を送る。
人間界と魔界では特殊な処理を行った通信機器か魔力によって転送される羊皮紙でしか連絡を取ることができず不便なため、人間界に拠点を置いてくれている死神はかなり重宝する。
「場所の詳細と大まかな内容、それと備考欄に死神の死体処理と、目撃者の後処理……と、これでいいのかな」
送信。
受信。
「はやっ、もう受諾メール来た。人数多いのかな?それとも自動返信?どっちにしても良かった。これで安心だね。一応非常事態もあったし、直接完了報告するためにしやみんのところ行っておこうかな?ついでにゲームさせてもーらおっ!」
依頼も終わらせ後処理の心配もなくなった私は、いつしか蒼白い月明りを取り戻していた景色をよそに軽い足取りでその場を後にした。
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