新たな旅立ち

 どのくらいそうしていたかわからない。

 交じることに疲れた私たちは泉に洗われ丸くなった石の上で身体を重ねていた。日はもう大分落ちてきているのだろう。周囲はここに来た時より随分と暗くなっていた。

 互いの熱を直に感じながら彼女が私を見やる。柔らかい光を吸収した瞳が私さえもそこに閉じ込めてしまおうとするかのように深い色をたたえていた。私は彼女の腰に手を回し、熱くなった身体を抱きしめる。

 気だるくも、穏やかな気持ちだった。まるで凪いだ海を見ているかのように私の心は満たされ、静かな波の音だけが優しく私を包んでくれているかのようだ。

 神とこれだけ深く交じった彼女はもう十分に巫女となることが出来ただろう。これからは何にも邪魔されることなく、彼女と常に共にいることが出来る。そう思うだけで喜びの感情がこの泉の水と同じようにこんこんと湧きあがってくるような錯覚を覚えた。

 果たして夜々と同じように愛することが出来るだろうか? 夜々には申し訳ないが、これから少しの間は彼女の方に強く溺れてしまうかもしれない。


「なぁ、レイラ……いや、もうそう呼び捨てにするのは礼儀がなっていない、ということになってしまうか」

「構いません、レイラで。言葉なんてただの飾りで、その姿勢にこそ全てが表れるということを貴女なら十分に知っているでしょうから」

「心が広いのだな。新しい主さまは」

「貴女が大切な巫女だからです。もっとも、元々は狭量ですから、あまり好き勝手しているとすぐに怒ってしまうかもしれませんよ?」

「なら、十分に注意しよう」


 そう彼女は柔らかく微笑んだ。

 全てを失った隙につけこんだ、ずるいやり方。

 そういった言い方も出来るかもしれない。それでも、先ほどまでこの世界の絶望全てをかきあつめたかのような表情から彼女を救い出すことが出来たのはきっと私だけだろう、なんて思う。


「それより、何か聞きたいことがあったのではないですか?」


 聞くと、彼女は私の上から身体を起こした。口を少しだけ開くが、迷ったようにすぐに閉ざしてしまう。視線を少し揺らして、口にするかしまいか少しの間悩んだようだけれど、一つ息を吐いてから腹を決めたように私を見やった。


「貴女の巫女となった今、私にはどれほどの力があるのだろうか?」

「どれほど、と言うと?」

「端的に言おう。……この世界を、救えないだろうか?」


 その質問にぽかんと私は思わず表情が呆けたものに変わってしまう。あまりにも意外な問いかけだった。


「貴女は……このような状況になってもなお、この世界を救いたいと考えているのですか?」


 王女が――いや、もう彼女を王女と呼ぶのは間違いだろう、新しい名前をつけてやらなければならない――嘲る。


「笑われるのも当然だろう。今更、この世界を救う道理も義理も、理由もない」

「………………」

「けれど、それでも私は……罪人の汚名を着せられても、この世界の民を見捨てられないらしい。もはや誰も私など認めないだろうし、逆に拒絶していると言っても良い。しかしそんな者たちだって、私にとっては……今の私を作り上げてくれた大切な存在に思えるんだ」


 ああ、と私はそこでようやく納得がいった。

 私の巫女となったからと言って、ここであっさりと自身の信念を捨てるような相手なら私はここまで彼女を欲しはしなかったはずだ。

 巫女となり、私や夜々と安寧の道を歩くことを許された今でさえこの世界のためにあろうとする彼女だからこそ私は彼女を欲したのだ。傍にいて欲しいと……いつまでも、いつまでも私の隣にいて欲しいと願ったのだ。

 それが彼女の魂の根源だ。

 清く正しく、己の信念に嘘をつかず、正しいと信じたものにその全てを捧げられる。

 その魂の色とも言うべきものが姉さまによく似ているのかもしれない。

 そういう意味で言えば私は彼女をみくびっていた。

 例え全ての民衆から背を向けられても、彼女の気高き精神は折れることはない。どんな汚名を着せられ、理不尽な糾弾をされようとも、その精神は穢されたりはしない。


「貴女の望む先にあるのは地獄ですよ? 私は、神であるとは言えど、数多存在する神の内の一人に過ぎません。今の貴女ならオラクル……異形の災厄の一つや二つは物の数にならないでしょう。ですが、多くの神の意志である災厄から民を守るのは実質不可能と言って良い。物量に押され、結局貴女は誰ひとり守れず、最後は誰もいない荒れ果てた丘に立つことになる。後に残るのは、今とは比べ物のない虚無感に違いありません」

「………………」

「それでも、貴女はなお民のために立つ、と?」


 問うと、彼女は真っ直ぐに私を見やった。両の目にあるのは、幾度もの困難と裏切りにあってもなお揺るがぬ信念だった。




 焚き火に戻ると夜々が何羽かの鳥と戯れているところだった。果実を細かくして与えてやっているらしい。

 戻ってきた私たちの……正確に言えば新しい巫女の姿を見て夜々は小さく微笑んだ。


「お帰りなさいませ、主さま。そして……何と呼べば良いでしょうか?」

「フェリィ。そう呼んで欲しい。先ほどレイラにつけてもらった。私にとっての新しい名前、とでも言えば良いだろうか?」

「その割にはあまり変わらないようですが。フェリーユとフェリィ。愛称のようです」

「彼女にとっては今までの人生も大きなものだったようだから。それまでの全てを捨て去ってしまうのは悲しいことでしょう?」


 私が言葉を返す。聡い夜々はそんな私の言葉だけでフェリィの心内の全てをわかったらしい。


「そういうことでしたか。しかし、王国のお姫さまだった彼女が本当に主さまに仕えられるのですか?」


 からかうように夜々が言うと、「私は王女ではあったが、国に忠誠を誓った騎士でもあった。主が変わっただけのようなものだ」とフェリィが照れたように返す。

 彼女の肢体を包むのは夜々と同じ巫女の装束だ。資格がなければ私だってその装束を渡したりなどはしない。

 もちろん夜々だって重々にわかっての軽口だろう。その表情は先ほど――彼女が王女であった時に向けていたものとは似ても似つかぬものだった。新しい仲間としてちゃんと認めているのだ。そういう意味で、夜々は立場やその他のことは別として、フェリィ自身のことはそれなりにかっていたのだろう。


「夜々、これからは少し忙しくなるわよ」

「忙しく? 主さま、そう言えばこれからどうするつもりなのでしょう? 当面、何もなさないといけないことはないように思いますが」

「そう思っていたんだけどね、新しく巫女となった子が、どうしてもこの世界を守りたいと言うのよ」

「……はい?」


 きょとんと夜々が首を傾げる。次いで、フェリィを見やって何かを思考する。

 先輩となった巫女さまはすぐに何があったのかを悟ったらしかった。私を見て、


「……本気ですか?」聞いてきた。

「可愛い巫女の願いだもの。少しくらい私も手を貸そうかと思ってね」

「だからと言って、同じ神の多くを相手に逆らうと?」

「それもまた一興でしょう?」


 やれやれと言ったように夜々がため息を吐き出す。どこまでお人好しなんだか……と呟いたのは、私に対してか、それともフェリィに対してか? わからないが、それでも夜々は心底呆れた様子はなく、どこか大それた悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべていた。


「主さまの意向です。であるなら、私も手伝うことにいたしましょう」

「ありがとう、ヤヤ。恩に着る」

「私にとって初めて出来た同志ですから。このくらいお安い御用です」


 そんな二人のやり取りに私はどこか昂る心を抑えながら地面に腰を下ろした。

 当分の間は退屈とは縁遠い日々となりそうだ。

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