情交
村ではまだ気丈に振る舞い、見送りの者たちに軽く手を振る余裕さえ見せていた王女だったが、そんな強がりが持ったのも少しの間のこと。今まで弱音など吐いたこともない彼女が、今日ばかりは日もまだ陰り始める前に「休みたい」と言ってきた。
離れた場所にはまだ別の村や町が残っている。こんな状況で急いでどこかに行かないといけない理由もなく、そこで宿を取るかどうか聞いたが、王女はかぶりを振った。流石にショックが大きかったのだろう。今はあまり人と関わるような気力が湧いてこないというのはわかることだった。
結局、近くの森で野宿をすることにした。幸い、時候としては外であっても過ごしやすい時期だ。
焚き木を組んでからパチンと指を鳴らして火を起こす。
私たちは食事をしなくても良いが、彼女はそういうわけにはいかない。
「少しは食べないと身体が持ちませんよ? 乾いた物が喉を通らないのなら、スープでもこしらえましょうか?」
「いや……今は、あまりそういう気分でもないんだ」
「そう言ったところで結局主さまに迷惑をかけるだけです」
「ヤヤ……」
「ここまできて、主さまにさらなる迷惑をかけるのは私が許しません」
そんなことを言いつつ、実際は不憫に思ったのか――それとも単に私の考えを先回りしたのかはわからないが――いつの間にか夜々はどこからか新鮮な果実を採ってきていた。王女は申し訳なさそうな顔で感謝を言うと、少しだけそれらに口をつけた。
一晩の寝床をこしらえ、夜々は周囲にいる獣たちを指笛で呼んで干し肉を分け与える。言うなれば森ならではの宿賃だ。あと、今日は一段と強く、人間たちが近くに寄らないように警らをしてくれるように頼んでいた。なんだかんだ夜々も王女のことを気にかけてくれているのだろう。
夏の日が落ちるのは遅い。森の中は風が抜け、多少の涼しさも感じられる。
肉のお礼も兼ねてか、獣たちが近くにある泉の場所を教えてくれた。
せっかくだ。水浴に誘うと言われるままに王女は立ち上がった。もしかしたら何かを考えるのも面倒になっているのかもしれない。
火の番をすると言う夜々を残して泉を訪れる。泉はちょっとした町の広場ほどもない大きさだったが、透明度が高く綺麗なものだった。地下水がこんこんと湧いているようで、その水は冷たく心地が良い。
衣服を脱いで中に入ると、夏の暑さに疲れていた身体が喜びに小さく震えるのが感じられた。透き通った水をすくって身体にかける。パチャリ、という水の音は耳も喜ばせた。王女も私より少し遅れて泉に足を入れる。冷たさが背筋を走ったのか小さく声をもらす。彼女の肌は日に焼かれた様子もなく白く透き通っていた。
風に木々が静かに鳴く。優しい音色だと思ったのは私が彼女にとってそうであって欲しいと願っているからかもしれない。
そのまま、互いに言葉を発さないまま泉の水で汗を流していった。冷たさに肌が粟立つが、すぐに夏の熱気と相まって清涼なものへと変わってくれる。知らない間に溜まっていた夏の疲れが溶けていくようだ。
「……私は、随分と思い上がっていたのだな」
それはまるで蚊が鳴くかのような声だった。
水をすくっていた手を休めて見やると、彼女は泉の底の……さらにその奥の深遠を見ているかのような瞳をしていた。
「自分が世界を救えると……聖者を見つけ、この世界を滅びの道から救いだせると、本気で信じていた」
「そう信じたのは悪いことだとは思いません」
静かに言葉を返す。ひざ下まで泉につかったまま、水をかきわけてゆっくりと彼女に歩み寄る。
「それが民の上に立ち、民を導く者の役割です。貴女が間違っていたとは思いません」
「だが、結局何も私は残せなかった。それどころか、無用に民を混乱させただけだ」
「それは、言うなれば人としての限界です。人が一人で出来ることなど限られています。どんな大きな志を持とうとも、人には成せることと成せないことがある。それを気に病む必要はないでしょう」
「………………」
彼女の頬に手を触れる。
水が滴り音を立てる。それが合図となったのか、木々のざわめきが途切れ、一瞬にして沈黙が周囲を包みこんだ。
「どうして、私を助けようと?」
彼女が私を見やる。
憔悴はしていたが、美しい顔だった。そこに収まる瞳は触れれば割れてしまいそうなほどの繊細さを感じさせる。もしかしたらそれは無気味であるとすら言ってもよかったかもしれない。
「どうして、とは?」
お互いの息がかかるくらいの近い距離で言葉を重ねていく。
「五年前……私は貴女の誘いに乗らなかった。身体の奥底では貴女の言っていることが紛れもない事実だとわかっていたのに、私のちっぽけな意地がそれを認めようとしなかった。稚拙な強がりで貴女を拒絶した。なのに、貴女は再びこうして私を助け出した」
「人間の強がりというのもわかるからですよ。本能が悟ったとしても、理性がそれに反発をする。人間とはそういう生き物であると私はよく知っています。……私も、昔は人間でしたから」
私だって最初から神であったわけではない。
私が神と契約を交わしたのは、絞首台から落とされ、命が尽きる正にその時だった。
―― 自分のしたことは結局なんだったのか? ――
―― このような運命になるしかなかったのか? ――
―― 救う手立てはなかったのか? ――
―― 私でなければ……姉さまであれば、もっと上手く出来たのではないか? ――
なぜ私が選ばれたのかはわからない。ただ、そんな多くの疑問を抱えたまま死するその時、私は神々に契約を持ちかけられた。
これから先、星の守護者、観測者として歴史を見続け、アカシック・レコードを刻むのであれば、それだけの力を授けよう、と。
アカシック・レコード。神々が欲するは、この世界の全てが刻まれた全知の書物。それは神々が常に刻み、新たなる歴史と共に全てを記す、神が神であるための書物。
神々はそれを手にするために私を駒の一つとして迎え入れたのである。
「じゃあ、こうなることも承知の上だったのだろう?」
「………………」
「何もかもに見捨てられ、全てを失った。今の私はもはや誰に必要ともされていない。言葉だけでなく、現実としてそれを直に知らされた。それだけの事実を私の前に並べて、貴女は何がしたいんだ?」
「フェリーユ王女……」
「やめてくれ……」
彼女が静かに口を開く。豊かな自然の中に悲痛な声が響く。
「もう私は王女でもなんでもない……わかるだろう? それとも、五年前に貴女の手を取らなかったことを今こうして罰しているのか? 現実を目の前に突きつけ、孤立させ、私をなじっているのか?」
「………………」
「……こんなことなら、あの断頭台で果てた方がまだ良かった」
ポツリと呟いた言葉に、たまらず私は彼女を抱きしめた。泉の水が跳ねる。細い身体だ。少し力をこめようものならいとも簡単に折れてしまうことだろう。
首筋に顔を寄せ、私は静かに言葉を発する。
「間違ってもそのようなこと、口になさらないでください」
強引にキスをする。
触れるだけの接吻。
驚いたように彼女が私を見やる。
腰に手を回したまま、私は彼女を離そうとはしない。
まるで、全てはこの時を待っていたかのようだった。
吸いこまれそうな瞳だ。私は、どうあっても彼女が欲しい。全てを包み込んでしまいそうな瞳を見ながら、優しく彼女に触れていたいのだ。
「私の巫女となりませんか?」
一陣の風が吹いた。私と彼女の髪を揺らし、木々は大きく鳴いて水面が波立った。
咄嗟に抱きしめる力を強くする。
風に連れていかれてしまわないように。まるでそう思っているかのような自身の行動に、どす黒い欲望が透けて見えるのではないかと思って頬が熱くなる。
でも、その欲望は全て真実だ。
「巫女にならないかと誘ったのは今までで貴女以外にはありません。貴女が初めてのことです」
「初めて?」
彼女の顔に疑問が浮かぶ。夜々のことを言っているのだろう。
「夜々はは赤子の頃より私が見守り育ててきた子です。彼女の方から申し出て私の巫女となってくれました。言うなれば、彼女は生まれながら私の巫女としての運命を背負っていたのかもしれません」
彼女が私に身を預けるような格好になる。振り払われなかったという安心感と、まるで初めて姉さまに邪な気持ちで触れた時のような緊張感がいっぺんに私を襲った。
「……もう私は、誰からも必要とされないと思っていた」
「もし他に貴女を欲する人がいたとしても、私の方がその何倍も貴女を欲していたでしょう。どうか巫女となり、夜々と共に私を支えてはくれませんか? 私は、貴女が欲しいのです」
今の私にこれ以上の求愛の言葉は思いつかなかった。
好きだとも愛しているとも言えるものじゃない。
感情は時間と共に風化してしまうかもしれない。私が姉さまを想う気持ちが永遠だという保証なんてどこにもない。そんな恐ろしいことを想像したくはなかったが、今となっては私と姉さまの繋がりはそれしかないのだ。だとすれば、せめて私の魂をもう一度震わせた彼女には、存在そのものが……そこにいる、ただそこにいることが私のためにあって欲しかった。
「もしここで私が断ると言ったら、貴女はどうする?」
「今度は許しません。それでも手に入らないのであれば、もしかしたら殺してしまうかもしれない」
「手に入らないのならいっそ……と?」
「ええ」
私はぐいと彼女を引き寄せると再びキスをした。
「レイラ……」
ドクンドクンと激しく鼓動するのは私のものか彼女のものか?
わからないほど私は興奮し、彼女もまたたぎっていた。全てに裏切られた彼女の目に映っているのは私以外になかっただろう。
元より私を好いてくれていたのだ。少なくとも今この瞬間、気持ちが重なり合った私たちを邪魔しようとするものは何もなくなっていた。
ついばむようにキスをすると、彼女もこわごわとではあるがキスを返してくれた。それにこらえきれず、私は彼女の頭を捉える。
舌で撫ぜ、互いの液をすすり、自分の中に取り込んでは身体の熱に変える。
「始めから……最初に出会ったあの時から私は貴女が欲しかった。欲しくて、欲しくてたまらなかった」
甘美な口づけだ。
お互いもう子供じゃない。私の身体は激しく燃え、身体の芯を焦がすような熱さが臓腑から起こってくるのがわかる。そして、胎の奥底が喜びに震えている。ただの交接よりきっと今の私は熱に浮かされているはずだ
「……私もだ。私も、貴女が欲しかった。生まれて初めて誰かを欲し、愛し、愛されたいと願った。誰でもない。たった一人、貴女だけに愛されたいと願った……」
深く唇を合わせる。互いを食べてしまおうとするかのようなそれに私たちは夢中になった。
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