神なるもの
三階建ての宿の部屋から夜店のランプの光を見やる。政変が起こってからというもの、夜には外出禁止令が出され、水を打ったかのような沈黙が都を覆っていたが、王女が帰って来てからは街はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。政変そのものが失敗に終わったということよりも、異形の災厄……それも並の大きさではないものを打ち破ったことが人々を活気づけているように感じられた。
サラス平原での激闘から三日。フェリーユ王女は王都へと凱旋を果たし、ロエルは一躍ツェミダー神教の主教という立場からこの世を救う聖者へと変わっていた。
もちろん、中にはまだ王女に対抗しようとした者もいたし、大主教のレグマンは認めようともしなかった。しかし、その強硬な姿勢は逆に教会の内部分裂を起こし、彼らは少数派へと追いやられて王都での地位を奪われた。
王女が明確に妖怪に対する擁護の姿勢を出さなかったのも大きいだろう。あくまで現状、彼女は未だ誰も逃れることの出来なかった異形の災厄に打ち勝ち、教会の力による政変をひっくり返しただけである。
捕らわれていた王は解放され、王都の公邸で行われたフェリーユ王女とロエルの演説には、まるで王都や周辺の町どころのか、この国中全てから住民が押し掛けたのではないかというくらいに人で溢れかえっていた。一夜にして、というわけではないが、それでも僅かな間にそれまで末席の第四王女でしかなかった彼女と、ツェミダー神教の駒の一つだったロエルはあまりにも多くの支持を得たのである。
『神術は妖怪を滅ぼすためにあるのではない! 異形の災厄と戦い、この世に平和をもたらすために神より与えられた力であると私は確信している!』
ロエルの言葉は綺麗事だっただろうが、実際に異形の災厄を打ち破った彼の口から出てくればそれは大きな意味を持っていた。
私たちも王女と共に王都に戻っていたのだが、この三日はまともに会ってはいなかった。
今は妖怪との融和うんぬんという理想よりも、自身の立場を固めることが大事だと彼女自身わかっているのだろう。そんな時に私たちのような怪しげな者と妖怪の幼子を連れているなんてことが露見すれば、せっかくの追い風も途端に向かい風に変わりかねない。ロエルの演説があったとはいえ、人々の妖怪アレルギーはそう簡単に消えるものじゃないだろう。しかし逆に言えば、その支持が盤石なものとなれば自身の論について来てくれる人だって自然と増えるのが道理である。
とは言っても、その考えが本当に世界を救えるものかどうかははっきりと言って別物であったし、実際それが不可能であることを私は知っていた。
「………………」
そう考えると、この熱狂ぶりと、王女に注がれる期待の眼差しは少し不憫なものを思わせた。期待や希望というものは大きければ大きいほど思い通りにならなかった時の負の感情に直結する。
「主さま」
夜々に呼ばれ窓から彼女に目を移す。そこには不格好ながら小鳥のような形をした透明な使い魔が宙に浮いていた。
「どう、でしょうか?」
「そうね、なかなか上手に出来たんじゃないかしら?」
褒めて頭を撫でると、夜々は嬉しそうに笑った。
「これを飛ばせば良いんですよね?」
「そうだけど、言うよりはるかに難しいわよ。自分の意識から分離出来たと言っても、その強度を保てるくらいに分離させた自我が強くないといけないから」
「……頑張ります」
目を閉じて、「んん~」と念じるように彼女が唸る。彼女に使い魔の作り方を教えたのは一ヶ月ほど前だった。今まであまり形にすることも出来なかったのだが、この三日の間で形を作るのは随分と上達したように思う。
この三日間、夜々は随分と暇だっただろう。外に出るには外套が必須だし、そもそも今は外套があっても危なく思えるくらいの賑わいだから、外には極力出ないようにしていた。かと言ってこの宿で何かをするようなこともない。そこで彼女がやり始めたのが使い魔を作る自己鍛錬だった。彼女の年齢から考えるとまだまだ難しい技術のように思うけれど、教えれば頑張る子だ。教えがいはあったし、実際優秀だった。
「おっ……」
ふよふよと何とも危なげな動きではあるが、夜々の使い魔が動き始める。彼女のイメージするそれは鳥そのもので、二つの翼を羽ばたかせながら前進していく。
部屋を通り過ぎ窓へ向かう……が、
「あっ……」
途中でパチンと、使い魔はシャボン玉のように弾けてしまった。
むぅ、と夜々が少し頬を膨らませる。あまり不平不満を言わず、私の言うことには律義すぎるくらいに従ってくれるけれど、彼女は自分には厳しいタイプだ。まだ始めて間もないのだから形を作ってそれを動かせたというだけで何十年に一度の逸材と言えるだろうに、それでは彼女の気は収まらないらしい。
もう一度。夜々が仕切り直すように息を吐き出して、また一から使い魔を作り出そうとする。が、半分ほどまで生成を終えたところで彼女はピタリとその手を止めると、大きな耳をぴくぴくと動かした。
「……主さま、誰かがこの階に上がってきているようです」
「宿の主人かしら?」
宿自体はそれほど豪華なものではなかったけれど、その中でも一応この三階は一番質が良い部屋で、丸々私と夜々のものだった。
「いえ。足音が違います」
併せて夜々は鼻を鳴らすが、思ったようにいかないのか眉根を寄せる。相手は王都の雑踏を通ってきたのかもしれない。出店の食べ物や酒に人波、とにかく様々なにおいが混じり合って、どれがその人物のにおいなのかわからないのだろう。結局、誰かはわからぬまま部屋にノックの音がする。夜々はいそいそと外套で耳と尻尾を隠した。
『私だ、フェリーユだ。いるだろうか?』
扉の向こうから聞こえたのは王女の声だった。夜々は少し驚いたような表情を見せたが、私はなんとなくそうではないかという予感はしていた。
返事をして扉を開く。このお祭り騒ぎを起こした張本人が街を歩いているとわかったらそれこそ大騒ぎになるからか、彼女は服の上からみすぼらしい外套を着て顔を隠していた。中に招き入れ、扉を閉めてからようやくフードを取る。
「夜分にすまない。本当なら一昨日か昨日には来たかったのだが、今までどうしても予定が空かなくて……」
「まだまだ成さなければならないことは多いでしょう? 良いのですか、こんなところを訪ねていて」
「最低限のことは済ませてきた。それにリザスやロエル……他の多くの者も手を貸してくれている。それに、王女にだって公務でない私的な時間が欲しいものだ」
何日か見ていなかっただけだが、その顔は随分と懐かしいように思えた。姉さまが重なって見えるからかもしれない。
「それより、こんな窮屈な場所しか用意出来なくて申し訳ない。私としては公邸の客室の一つでも使ってもらおうと思っていたのだが……」
「気になさらないでください。今が大切な時期なのは百も承知です。今の所、民衆の多くは姫さまの味方をしてくれていますが、それを快く思っていない方もたくさんいることでしょう。隙を見せてしまえば、あっという間につけこまれてしまいます。どうぞご自愛ください」
「そう言ってもらえると助かる」
そう彼女は力なく笑った。この数日は相当な激務だったようで、疲れが溜まっていると見えた。目の下にはうっすらとではあるが隈が出来ている。椅子を勧めると――もちろん最低限の品格は保ちながらも――まるで身体が鉛になってしまったかのような様子で腰を落とした。
「正直、やっと一心地着いた気分だ」
「この部屋で、ですか? ここの品も悪いものではありませんが、公邸ならもっと上質なベッドやソファがありますでしょう? お風呂だって、きっと広いのではありませんか?」
「そうだな……だが、そこには貴女がいない」
真っ直ぐに彼女が私を見やった。
そこには冗談やからかいのものは含まれていない。
私を壁に縫いつけてしまおうかというほどに力強い視線。ランプと暖炉だけが照らしている薄暗い部屋で青い瞳が幾重にも光を反射し、私の両の目を射ぬく。
「ここまで来てあれやこれやと言葉を弄するつもりはない。単刀直入に言おう。なぁ、レイラ。前にも言ったが、私と共に国を導いてはくれないか?」
「姫さま……」
彼女の頬は、僅かに赤くなっているように見えた。
「貴女と出会ってまだ日は浅い。ふと冷静になって考えてみれば、お互いに知らないことだらけだ。私は貴女の好物が何かも知らないし、今までどんな生活を送ってきたのかもわからない。年齢も誕生日も……多少の知人ですら知っているようなことでさえも知らない。知っているのは姿形と、卓越した術師で、少なくとも悪漢でないことぐらいだ」
「わかりませんよ。もしかしたら、今こうしている間も後ろでナイフを研いでいるかもしれません」
「もしそうであれば、きっとそれだけの理由があるんだろう。何も理由なくそのようなことをするような人間では貴女はない」
王女はくすりと笑った。
「言うなれば、初めてあの屋敷で会った時から私は貴女に何か感じるものがあったのだ。……いや、そんな曖昧で取り繕った言葉ではダメだろうな」
ゆっくりと王女が手を伸ばし、立ったままだった私の手を取った。私より少し高い体温がじんわりと手を伝わってくる。その手は弓を引き、剣を振るうものであったが、透き通るような白さと美しさがあった。
「私は、貴女に私の傍にいて欲しいのだ。なぜだかはわからない。けれど、どうしてもただの他人とは思えない。貴女が傍にいてくれると不思議と安らげる。そして、どんな困難にも立ち向かって行けるような気がするんだ」
それはある種の愛の告白だった。彼女が私に覚えてくれている感情にどのような名前がつくのか……まぁ、わざわざ名前をつけたいという人がいれば適当に呼べば良い。そんなことは瑣末なことだった。
しかし、流石の彼女も今の言葉は恥ずかしかったとみえる。小さく笑いをこぼしてから私の手を放す。
「……こんな言葉、伝えたのは貴女が初めてだ。作法が間違っているかもしれないが、どうか許して欲しい」
照れからか、続ける言葉が早くなる。隣のベッドで私たちを見やっていた夜々に視線を送った。
「もちろんレイラだけじゃない。ヤヤも一緒だ。周囲に認めさせるのに若干苦労するかもしれないが、レイラの優秀さとヤヤの利口さを見れば誰も口を挟めなくなるだろう。役職は特別外交官でも、何かの補佐官でも、それこそ妖怪に対してのあれこれをする新たな大臣を作ったって構わない。そのくらいの無理は通してみせる」
甘美で熱烈な誘いだ。
生前の私も一応は一国の皇女であったから、そういうような浮いた話が一切なかったわけじゃない。けれど、ここまで熱心に私を口説いてくれた人は誰ひとりとしていなかった。そして、私が心から口説いて欲しいと想う人はたった一人だけで、それは倫理的に認められたものじゃなかった。
私はゆっくりと窓辺に寄った。街の中に灯されたオレンジ色の暖かい光はまるで今の私の心を表しているように思えた。ポツポツと確かに灯っているそれらに、私の心は安らぎと幸福を覚えている。
だが、目に見えるだけのそれはある種のまやかしとも言えるのだ。冬の寒さに目に見えるだけの光だけでは抗えない。見せかけのそれに身を委ねてしまったら、その先に待つのは紛れもない破滅だろう。緩やかかもしれないが、それでも最後の瞬間には、たった一人で真暗な闇の中で自身の身体を抱きしめて死んでゆくしかない。冷たい最期だ。
振り返り、王女に向き直る。彼女の目を真っ直ぐに見やって私は言った。
「巫女になりませんか?」
「……ミコ?」
「はい。私の巫女です」
その提案に、意図をつかみ損ねたように王女が表情を戸惑わせた。
「ミコとは……確か、ヤヤが貴女のミコだと言っていたな。教会の、シスターや司祭にあたるものだとか……」
「あの時はそう例えましたが、実情は大きく違います。巫女とは……おそらく今の姫さまではとても理解出来ないもののはずです」
「それは一体どういう意味だ?」
「意味は後から自然とわかるようになることでしょう。今大切なのは、姫さまがこの世界を生き残るにはそれが唯一の方法である、ということです」
「私が生き残る、唯一の方法?」
彼女はますます表情を不可思議なものに変えた。言葉の意味はわかるのだが、内容が理解出来ない。言葉ではなく表情が何よりもそれを雄弁に語っている。
「はっきりと言いましょう。この世界は、そう遠からぬ内に滅ぶことになります」
私の言葉に王女は目をぱちくりとさせた。普段から凛々しさと荘厳さを求められているだろう彼女がこんな表情をするのは初めてかもしれない。
「王国が滅ぶ、と言うのか?」
「そうではありません。この国に限ったことではないのです。この世界に存在するありとあらゆる国家、人々……動物、草花、生命ある全ての存在が滅びます」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
慌てたように王女が私の言葉を切る。
「いきなり何を言い出すんだ?」
「言葉のままです。異形の災厄による物理的な破壊。そして、同時に彼らを操るモノたちによって、世界は生き物の住めない世界へと姿を変えていくのです」
「異形の災厄に、それを操る者たち? 聖者であるロエルが見つかり、異形の災厄にだってある種の神術は有効であることもわかった。もちろん、容易い道でないことくらいは覚悟の上だ。教会との対立だってそう簡単には収まらないだろう。しかし、これからは今までとは違うんだ」
「………………」
「妖怪が虐げられる世界は私が変えていく。生きとし生けるものが手を取り合い、助け合う世界を目指していくのだ。それが、どうして滅びなんていう正反対のモノに変わるんだ? 第一、話があまりにも突拍子すぎる」
少しだけ彼女の瞳に不快の色が見えた。今まで私に向けていた視線にはほんの少しも混ざっていなかった感情だ。それは彼女の覚悟の強さであり、決して折れない信念でもあっただろう。
けれど……
「姫さま、貴女さまは非常に強い信念を持っていらっしゃいます。けれど、その強い意志は民衆には伝わらないでしょう。そして貴女の気高き精神も決して受け継がれることはありません」
「……何が言いたいのだ、レイラ?」
「世にはびこるのは常に利己的な者ばかりなのです。自分が不利益を被った時、人間は少なからず他罰的な思考をします。悪いのは自分ではない。悪いのは周囲なのだ、と。誰もが姫さまのように気高く強く生きているわけではないのです。そんな愚かな人間たちが神の力の一端に触れた時、すでに滅びは決定づけられているのです」
「意味がわからない。レイラ、貴女は一体何を言っているんだ? どうしていきなりそのようなわけのわからないことを言うんだ?」
彼女の当惑は当たり前だっただろう。
椅子から立ち上がり、まるで夢幻に化かされているかのような相手を見るような目をしている。
「酔っているのか? 悪酔いして、おかしな夢でも見ているのだろう?」
まるで何かから私を繋ぎとめようとするかのように王女が私の手を握る。しかし、その手に力はなく、私はするりと自らの手を抜いた。そして、内に眠る力を少しずつ解き放っていく。
一瞬にして空間が変化したのを彼女も感じただろう。ビクリと僅かに身体を震わせ、今まで覚えたことのないだろう感覚に緊張と、ある種の恐怖の色が表情に表れる。周囲に目を泳がせるその姿は、まるで狼に目をつけられてしまった草食動物のようだ。
「神術。正しく、あれは神の力なのです。しかし、それを使うにはそれ相応の資格が必要です。神の御業。誰も彼もが使えるというような便利なものではありません。そして、この度の人類も、神々の力を使うにはあまりにも独善的で愚かでした。神々の力を振るうには不相応な、未熟な存在と言わざるを得ません」
「か、からかおうとしたってそうはいかないぞ。不知案内な私に、他国にある宗教の話をしているだけなんだろう?」
すがるように王女が言う。
彼女は決して鈍麻ではない。徐々に力を解放し始めていた私に気づかないわけはなく、私という存在がただの術師や妖怪という範疇に収まるものでないと感覚がわかっているはずだ。そして、そんな私が口にする言葉も、例え何の根拠もなかったものだったとしても、紛れもない事実だと悟ってしまっているに違いない。
「フェリーユ王女。貴女ももう薄々感じているのではないですか? 身に余る力を得たモノたちは、神によって粛清される。それが運命だと」
「そんな、バカなことが……」
王女が耐えられないとでも言うように首を振る。
認めない。
認めたくなどない。
しかし、生命の本能とも言える部分が圧倒的な力の前に存在を感じ取ってしまう。
「……神は……神の意志は、すでに滅びを決めてしまった……そう言いたいのか?」
「ええ。一度全てを滅ぼし、再び新たな生命が生まれるのを待つ。神々は待っているのです。滅びと再生を繰り返し、真の光ある世界が創られることを。そのために、神は幾度となく滅ぼし、再生させます。その流れを留める方法は未だかつて、どんな宗教の教典を探したところで見つかるわけもありません。そんなもの、どこにも存在しないのだから」
私が窓から手を差し出す。何をやるか悟った夜々がベッドから降り、私の傍でかしずいた。
ゆっくりと小さな……そう、オラクルの幼子とも言うべきものが私の指示に従って天から無数に降ってくる。細々としたそれは、見ようによっては雪が舞い散っているようにも見えたかもしれない。それでも一つひとつを見れば、彼らは何かを破壊し、喰らい、滅ぼすだけの力を有している。破壊と再生の内、オラクルは破壊の化身の代表と言っても良い。
ゆっくりと振り返る。王女を前に私の身体はふわりと宙に浮いた。それを崇めるようにオラクルが周囲を漂い、巫女である夜々が奉る。
「我が名はレイラ・エールデレヒト。この宇宙にあまねく存在する星星のうち、天の川銀河に属する太陽系第三惑星、地球を見守る守護者にして観測者が一人。アカシックレコードを刻む者」
力を解放した私は、正に顕現と呼ぶに相応しかっただろう。
「貴女にとって最もわかりやすい言葉で言うのであれば、神という存在です」
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