聖者なる者
出立
一晩を過ごした森から屋敷へと戻る。
大きな町に出ると言ってもさほどの準備をする必要はなかった。私たちはそもそも食料や水を必要としないし、せいぜい替えの服を荷作りするくらいのもの。せっかくだからどこかで馬でも調達してのんびりと……と考えもしたが、それはそれで面倒でもある。
と、ふと思い出して、私は使っていなかった部屋に飾ってあったり、タンスの中に仕舞いこまれていた適当な大きさの宝飾品をいくらか荷物の中に入れた。
「それは何のために持っていくのですか?」
準備の傍ら、普段と違うことをしている私が興味深かったのか、夜々がそう聞いてきた。
夜々にとってみれば今回が初めての遠出ということになる。人という存在を教えるのに近くの村を物見に行くことはあったが、それはあくまでも幼児の社会見学のようなもの。今回のように本格的に人の町に関わりに行くのは初めてのことだ。
「これはね、お金に変えてもらうために持っていくの。大きな町にはそういった……質屋という店があるのよ」
「お金が必要なのですか?」
「そうね。人の町で何事もなく過ごそうと思ったら多少のお金が必要になるわ。私たちは食べ物を食べる必要はないけれど、宿に止まったり、何かの消耗品を買ったり……ないと困ることが起こるかもしれないから」
普段はほんの時たましか貨幣を使わぬ生活をしているからまとまった貨幣の持ち合わせはなかった。しかしそれなりの距離を旅するとなれば多少は持ち合わせがないと難しいことになる場面があるかもしれない。地獄の沙汰も金次第というわけではないが、貨幣があればどうとでもなることは多いのは事実である。
この近辺にある村で用立てられれば良かったのだけれど、こんな田舎には質屋なんてものはなく、多額の貨幣を用意する術がなかった。
「その置き物がお金に変わる……」
「不思議?」
「はい。だって、それは食べることはもちろんのこと、何かの役に立てるようなことが出来ないものですから。ただキラキラしていて綺麗というだけで」
「その綺麗ということが人の世の中では結構大切な時もあるのよ。俗世のことだけれど、覚えておくと良いわ」
愛用の弓と、見てくれのために矢筒も用意する。
衣装は持っている中で最も高級なものを選んだ。夜々は私が仕立てた装束以外は着たがらないし、旅の途中は外套をかぶっていることが多いから別に構わないだろう。
幸いだったのは私の体にも合わせられる銀の胸当てもあったことだ。この屋敷自体が古いこともあっていくらか型落ちの感は否めないが、それでも貴族の持ち物だっただけあって、装飾の類はそれなりに豪華だった。これを身につければ私が少女の外見をしていることを差し引いても随分と傭兵らしさが増す。
神術の素養があれば女子供でも大の男を軽くひねるほどの力がある。
神術が発見されるまでは傭兵は昔と変わらぬ、いかつくむさくるしい男の専売特許であったが、神術が見つかってからは非力な女が傭兵の主役に躍り出ることも少なくなくなっていた。こんな田舎にでさえその名前が聞こえてくるような花形の女傭兵も出てきたくらいだ。それに連れて女子供だけで旅する者も多少は現れたから、私と夜々もそう極端に目立ったりはしないだろう。
出立の日。
空には薄く広く雲が広がっていた。冬の寒さが辺りを覆っているけれど吹いてくる風は春の薫りを僅かだけれど含んでいる。大きな町の多くはここより南にあることが多い。行けば春はもっと色づいているだろう。
どのようなルートを選べば良いか少し悩んだけれど、結局大きな街道を選んで、ひとまず王都を目標にすることにした。
これが初めての遠出となる夜々はどこか緊張しているらしく、いつもの耳と尻尾隠しのための外套の下でも尻尾が警戒に動いているのがわかった。縄張りを離れることの不安感もあるようだ。
そして、旅立ってから数日。
夜々はそんな緊張や不安に加えて、何かを考え込むような仕草をすることが多くなった。
やはり、長旅はまだ無理だっただろうか?
元が狼だったこともあって、住み慣れた場所を離れるのは不安があるのは当然である。いきなりこんな遠くに出かけるのではなく、近くから慣らしていくべきだったのかもしれない。
そんなことを思ってそれとなく彼女に聞いても、彼女は「何でもありません」と首を横に振るだけだった。
元々、我慢強い上に私に心配をかけまいとする子だ。何事もなければ良いのだけれど……それでも何かあってからでは遅いということもある。この調子が続くようであれば近い内に引き返した方が良いかもしれない。
そんなことを思い始めた時だった。
「主さまはどうして町を目指そうと思ったのですか?」
その日は近くに手頃な村もなく――とは言っても、私たちにとって野宿をすることの方が村の宿や教会で休むことよりはるかに休息になることも多かったのだが――ちょうど近くに小川が流れている場所で焚き火を焚いて野宿をしていた。もう夜も深くなろうかとしている時に、まるで独り言を呟くかのように夜々が聞いてきた。
「それはどういう意味?」
唐突とも言える質問に彼女の意図をつかみ損ねる。
「意味というか……」
少し考えて、
「町のことなど主さまには何の関係もないではないですか」思い切った口調だった。
「それは……まぁ、そうね。どこまで行っても世俗のことだから。私にとって直接どうこうということはないでしょう」
「それでは何故ですか?」
「言ったでしょう? それもまた一興だと思ったからよ。ただの時間つぶしのようなものだわ」
言ってごろりと横になり、荷物を枕にする。目を瞑って次の言葉を待ったが夜々はなかなか言葉を続けない。
ちりちりと焚き火の音だけが辺りに沁みて段々と私の意識は眠りに落ちようとしていた。
「あの女性ですか?」
小さな声だったがはっきりとしたものだった。
どこか複雑な声色に私は閉じていた目を開いて体を起こした。夜々を見やると、焚き火を前に膝を抱えて座っている。元よりあまり感情を表に出さない子だけれど、今はその上でさらに努めて表情を変えないようにしているように見えた。
「あの女性とはフェリーユ王女のこと?」
少しだけ迷った様子だったが、結局こくり彼女はとうなずいた。それから夜々は躊躇いながらも言葉の続きを口にした。
「あの女性に出会ってから主さまはなんだか楽しそうに思えます。それに、町に出ていくなど、普段ならしないようなこともなさいますし」
「………………」
「主さまはああいった女性が好きなのですか?」
なんとも真っ直ぐな表現に思わず笑いがこぼれそうになった。
それと同時に、なるほど、と最近ずっと悩むような素振りをしていたのはそのせいかと納得する。可愛らしい嫉妬だ。……いや、そこまで考えが及ばなかった私も悪かっただろう。
けれど、夜々にしてみれば本当に死活問題なのかもしれない。自身の黒髪をつまんで、「あの女性の髪は鮮やかな鼠色でした。比べて、私のは真黒ですし……」なんて少し拗ねたようなことを言っている。
「確かに少し興味があるのは事実ね。今の私が普段と違うと思うのも、もしかしたらそのせいかもしれないわ」
「それでは、やはり……」
「でも、それは貴女とは何一つ関係のあることじゃない」
手招きをして夜々を自分の傍に呼ぶ。てててと寄って来た彼女を少し強引に腕の中に抱きこむと、驚いたように耳を立てた。それを優しく愛撫してやって、ついでに豊かな尻尾も撫でつけてから、輝くような黒髪に唇を落とす。
「例えどのような感情を私があの少女に抱いていようとも、夜々が私の大切な家族であり、巫女であることには何の変わりもないのだもの。この綺麗な黒髪も立派な尾も、愛しい夜々の、かけがえのない一部だわ」
きゅっと夜々の手が私の腕を掴む。尾はパタパタと振られていた。
そのまま再度横になる。そういえば夜々が今よりもっと小さい頃にはよくこうやって眠っていたものだ。彼女はまだ十の年しか生きていない。まだまだ誰かに甘えていたい年頃なのは確かだろう。
「不安にさせてしまっていたのね……ごめんなさい」
「いえ……私が身勝手なことを考えてしまっていただけのことです」
頭を撫で、艶やかな髪に指を通す。
「主さまが何をなさろうとも……私は、それに従えば良いだけなのに……」
「そんなことはないわ。貴女はもう少し我儘を言って良いのよ。それが許される年だもの。私の巫女だからと言って無理に大人になろうとしなくても良いの」
「……そうでしょうか?」
「ええ。たまの我儘は私にとっては可愛いお願いごとだから」
安心したように彼女が息を吐いたのがわかった。
「……それでは、主さま。今日はこうやって眠らせてください」
私はそれに再びキスを落として応えてやった。
彼女の心の中の不安がこれで完全に取り除かれたとは思わないけれど、それでもいくらかは軽くなってくれることだろう。私にとってはあまりにも出来の良い巫女だから、私は随分とそれに甘えてしまっていたらしい。これからは折を見て彼女がいかに私にとって大切な存在なのかわからせてあげる必要があるかもしれない。
ゆっくりと深くなっていく夜の帳に私たちは静かに寝息を重ねていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます