恋慕
静かな森にパチパチと乾いた木が弾ける音が響く。周囲に人工的な光りはなく、焚き火だけが柔らかい光で辺りを照らしていた。
夜々は先ほどの人肉を軽く火で焼いてから嬉しそうに頬張っていた。いつも塩漬けの薄い肉ばかりだから、新鮮な臓腑の肉は嬉しいことだろう。鋭い犬歯が柔肉を裂き、口の周りを血だらけにしながら次々に口におさめていく。
「あまりがっつかないの。誰も取りはしないんだから」
こくんとうなずくが、それでもぐいぐいと口の中に肉を収めていく。
と……
「ん、んぐ……」
どうやら肉が喉に詰まってしまったらしい。
「ほら、言わんこっちゃないじゃない」
くすくすと笑いながら水の入った革袋を渡すと、夜々はぐびぐびと飲み干した。ぜぇぜぇと息を繰り返す。しかしそれも落ち着くと再び目の前のご馳走に手を伸ばし始める。
夜々も時には動物たちを狩ることがあるが、彼女は狼が元になった子だ。もっと大人になればその辺は割り切って考えてしまえるようになるのかもしれないが、今はまだ昔の同族を食べるのには少し抵抗があるようだった。まぁ、考えてみれば彼女はまだ妖怪として生を受けて十を数えるばかり。まだまだ色々な分別がつかない子供と言って良い。野に返すつもりがないのであれば、大切に育てていかなければいけない時期だ。
ふと、遠くから気配を感じた。人間のものじゃないそれは、ゆっくりと敵意を見せずにこちらに近づき、やがて森の奥からのそりと顔を出した。巨大な狼。大の大人がゆうに乗れるだろう体に、鋭い顔には野生が溢れている。この辺りの森の主だろう。そこには、ただの獣とは言い難い風格が漂っていた。
獣は自分と相手の力量を計るのが人間よりはるかに長けている。その子は挨拶をするようにごろりと転がって夜々に服従の構えを取ると、夜々はそれに応えるようにその子に肉の切れ端を少し分けてやった。
「一晩、森をお借りしますね」
私がそう伝えると、くふ、と鼻で返事をしてくれた。
木を背にして体を休める。夜々は肉を食べ終わると、ふわと大きな欠伸をして、その子と寄り添うように丸くなった。そうしているとまるで親子か姉妹のように見える。
……そう言えば、初めて夜々と会ったのもこんな夜だった。
あの頃も今のように春が見えつつも、冬が色濃く残っていたように思う。
当時はすでに本格的な災厄……つまりは、異形の災厄による粛清が徐々にではあるが増えつつあって、私はその程度を見るために世界のあちらこちらを見て回っていた。
別に私自身、災厄が始まった世で人間に対して何かをしてやろうと思っていたわけではない。
災厄が降ってきたということは、それは宇宙の意志に他ならず、私はそれに異を唱えるつもりはこれっぽっちもなかった。第一、異を唱えるような理由はなかったし、不満だってあるわけじゃない。しかし、せっかくこの世界に姿を持っているのだ。程度を知るくらいはしておいて良いだろうと思ったのだ。
山の天気は変わりやすい。峠を越えようと入ったのは夕方で、その時は空には雲一つないように思えたのが、陽が落ち、どこか適当な場所で野宿を考えていたところ、急に大粒の雨が降り始めた。
寒さはそれほどでもなかったけれど、流石に雨に打たれながら眠るような酔狂な趣味はなくて、私は早足で近くにあった洞穴の中へと入った。ぽっかりと空いた穴は奥がそこまで深いわけでもなく、野生の動物が巣穴として使うには適していなかったが、雨宿り程度にはもってこいのように思える場所だった。
しかし、そこには先客がいた。
洞穴の奥。一人の女が、生まれてまだ月日の経っていない赤子を守るように胸に抱いていた。
濃厚な死の薫り。洞穴の外の血は雨で流されてしまったらしいが、中は血が点々と水たまりのようになっていた。見たところ赤子に傷はない。代わりと言っては何だが、女の方には大きな傷が二つあった。背中と大腿部。特に足の方はひどく、弓矢が突き抜けたらしいが、大きな動脈を傷つけたようで多量の出血の痕が見てとれた。人間ならもうすでに命を失っている。辛うじてでも生きているということが、その女が人ならざる者であることを表していた。成長し、力をつけた妖怪は人の姿に化けることが出来る。
挨拶もせぬまま、私はそんな女の横にゆっくりと腰を下ろした。服が多少血に染まったが、元より雨で濡れていたから気にはならなかった。そのまま……興味というわけではないけれど、まるでこの荒天を嘆く世間話のように私はポツリと言った。
「人間に、ですか?」
敵意がないということは伝わったのか、彼女がこくりと小さく首を縦に振る。ひゅーひゅーとか細い息遣いは一息ごとに彼女の体から命の源とでも言うべき何かを奪っていっているように感じられた。
人間という生き物はそれまで手にしたことのなかったような強い力を得ると、まるでその力を誇るように無駄にそれを試そうとする。神術の場合、その対象となるのは大抵人間から隠れ、ひっそりと暮らしていた妖怪の類だった。彼女たちもそんな妖怪だったのだろう。傷の位置からして、逃げるところを後ろから神術のかけられた矢で射られたようだった。
「傷を見せてください」
場所を相席させてもらう代金として私は傷を診てやることにした。
すでに意識がもうろうとし始めていたらしい彼女の了解は得ないまま、ひとまず傷を塞いでやる。……もっとも、私も彼女もそれが無駄なことは薄々ではあったが気がついていた。多少は楽になるだろうが、今までの消耗がひどすぎる。すでに人の形を保つのが精いっぱいの様子で、傷を塞いだところで命までは拾えないだろう。もってあと数時間。心の臓に力はない。
傷を塞ぎ終わってから、私は彼女たちの横で火を焚いた。
外で雨の音が強く鳴る。パツパツと降り続くそれは、静かな洞穴の中で非常に大きな者に聞こえた。それに混じって彼女にはじわりじわりと死の気配が忍び寄って来ているのだろう。けれど、不思議と死に対する恐怖の類はないように思える。
「人間を恨みますか?」
静かに問うと、彼女は首を振った。
「私も時として人間を食べて生きてきました。この命が悪戯に奪われるのが悔しくないと言えば嘘になりますが、恨むのは筋違いというものでしょう」
「………………」
「それでも……」
ぽたり、と目から一滴の雫が落ちる。目に堪った涙が焚き火の明かりを反射する。
「それでも、妹の命までここで尽きてしまうのは、どうしてもやりきれません」
すやすやと寝息をたてる赤子を地面に寝かせ、彼女は身につけていた衣服を全て脱いだ。
白く、穢れのない身体。少女から女性のものへと成熟しつつある身体は豊かな起伏が現れ始め、腰まで届こうかというくらいの長い濡れ羽色の黒髪と相まって不思議な美しさを感じさせた。それは死に瀕した者の、命の最期の輝きというものだったのかもしれない。
「……名のある方とお見受けします。どうか、私を贄として買ってはいただけないでしょうか?」
「贄として?」
「はい。曲がりなりにも、元をたどれば狼の長に繋がる血筋です。血は若さを保ち、肉は頑健な身体を作ります。髪を幾万と紡げば決して切れることのない鞭となってくれるでしょう」
「その代わりに、妹の命を救って欲しい、と?」
彼女はうなずいた。
「割の合わない願いだとはわかっています。ですが、妹はまだ一人では到底生きてはいけません。このままでは死んでも死にきれません」
私が普通とは違う何かだとはわかったとしても、赤の他人であることに変わりはない。約束をしたとして、それが守られる保証もなければ根拠もない。
しかし、今の彼女にはもうそれしか手が残されていなかったに違いない。こんな山のモノとも海のモノともわからない託し方でしか妹を守る手立てがないというのはある種の賭けと言えたかもしれない。
私は小さく息を吐くと彼女が脱いだ衣服をそっとかけてやった。
「……やはり無理なお願いでしょうか?」
その瞳には懇願の色が浮かび、雫が今にも流れそうになっている。
「妹を想う気持ちは立派です。けれど、己を安く見てはいけません。見ず知らずの者に贄として身を差し出しながら最期の時を迎えるなど、貴女には到底似合うようなことじゃありません」
細い焚き木を火の中に放り込む。パチパチと弾ける音に死の匂いが一層濃いものとして漂ってきた。
「最期の時まで妹を抱いていなさい。例え命なくなろうとも、温もりはその子の内に宿るに違いありません」
きゅっと唇を噛み、彼女は静かに涙を流した。どれだけ彼女が妹を大切に想っているのか、そんなものは口にするまでもなく、その流れ出す涙が何よりも雄弁に物語っていた。
「妹の名は何と言うのですか?」
「夜々、です」
「ヤヤ……」
呟くと、彼女は妹を胸に抱いてから、地面に溜まった血で字を書いた。
「これは、人間の間では使われていない文字ですね。一つひとつの文字に意味がある、表語文字の一つですか?」
「はい。夜々は、夜という意味を二つ重ねて書いたもの。陽が当らずとも、その身に確かな暖かさを抱き、深く包み込めるように、と……」
名づけたのはきっと彼女なのだろう。なんとなくだけれどそんなことを思う。
世界というのは慣れてしまえば一人で生きていくのに何の不自由もしない。むしろ一人であった方が都合が良く、無駄や手間がないのは事実だった。私自身、一人で暮らすということにすっかり慣れ切っていた。
「………………」
けれど、逆に今更一人増えたところで生活が鬱陶しいほど煩雑になるかと問われればそれもまた違うことだっただろう。
……なぜそんなことを思ったのかはわからない。
本当にただの気まぐれだったのかもしれない。
全ての生物に憐憫の感情を抱いていたら私の身体はいくつあっても足りなかっただろう。人間に追われる妖怪は珍しくなかったし、そもそもこの世界に数多と存在している生き物の中で妖怪だけを救うわけにもいかない。真の博愛主義者ならどんな生物にだって施しを与えなければいけないだろう。
間違っても私は博愛主義者ではなかったし、そうなるべきでもなかった。
「どこまでしてやれるかはわかりません。私は今まで子供を育てたことはおろか、あやしたこともほとんどありませんので」
それでも、私はそんなことを口にしていた。
重ねていたのだろうか?
姉と妹。ふいに目の前に現れた姉妹に、生前の自分の姿を重ね、哀れに思ったのだろうか?
……わからない。
それでも、妹を想う姉の存在は私の心を少なからず動かしたのは紛れもない事実だった。
「それでは……」
顔を上げた彼女に私は微笑んでやった。それが彼女を安心させるために作ったものか、心から出てきた真のものなのかはわからなかった。
「もちろん、蝶よ花よというわけにはいきません。私とて良い暮らしをしているわけじゃありませんから、穏やかな環境でのびのびと暮らせるとも限りませんし、苦難が伴うこともありましょう」
「全て承知の上です」
「それであれば、ここで会ったのも何かの縁。一つだけ貴女のその想いに約束をいたします。その幼子が……夜々が、自身には誰よりも誇れる姉がいたことを理解出来るようになるまでは面倒をみる、と」
彼女は深く頭を垂れた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
幾重にも感情の込められた感謝の言葉と共にいくつもの雫が地面にぽたりぽたりと落ちる。
それから数時間後。
雨が上がり、抜けるような夜明けが訪れた頃に彼女は静かに息を引き取った。
この世界を恨むことなく、まるで寿命を全う出来たかのような表情は今でも忘れることが出来ない。それほどまでに彼女にとって夜々は己の全てであったのだろう。
ゆっくりと目を開く。
周囲はまだ暗かったが、朝の気配が僅かに感じられた。
頬に手をやると一筋の涙が感じられた。
「姉さま……」
ポツリと呟いて空を仰ぐ。大きく息を吸いこんで体の中に溜まった古い空気を新しい朝のそれと変えていく。
この星の生命は今、大きな転換点を迎えようとしている。けれど、それはこの星の命が奪われることとイコールではない。こうして深く星の意識を感じ取ろうとすれば自身もまた満たされていく。
今、私はこの星と同体だった。……そう、この星と同じになり、この星に留まった私では、遠くへと旅立った姉がどうなったかを知る術はない。その生を全うし、後世にその名を残せていることを願うばかりだが……あの状況では難しかったかもしれない。
災厄に襲われ、目の前に死の一文字を突きつけられた人間たちがどれほど醜悪なものなのかは、私も嫌というほど経験していた。
異形の災厄から逃れたとは言え、約束された未来などどこにもない。まさしく真暗闇の海を漂うかのような旅路。安らかなものとは到底言えないものになったであろうことは簡単に想像がつく。そんな中で、『彼女』は……私が生涯で唯一愛した人である姉さまは、どのように民を導こうとしただろうか?
もう幾万年も昔のことだけれど、その疑問は未だ私の頭から離れようとしない。
空が白む頃に夜々と森の主も起き出し、主は私たちに別れの挨拶をしてから森の奥へと帰って行った。
夜々も眠気眼をこすり、可愛らしい欠伸をして、ぐにぐにと手で顔を洗ってから私に問うてきた。
「主さま、これからどうするのですか?」
「……一度屋敷に戻ってから、町へ出ましょうか」
「町へ?」
きょとんと夜々は意外そうだった。
「ええ。人の世に身を投じてみるのも、たまには一興じゃないかと思って」
それに、王女のことが気にならないと言えば嘘になる。
もっとも、こんなことを言えば夜々がまた嫉妬に頬を膨らませてしまうだろうから、これは心の内に閉まっておくが。
……人が恋しくなっているのだろうか?
そう自分で問うて、心の中でかぶりを振る。
人が恋しくなっているのではない。
私は、姉さまが恋しくなっているのだ。
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