想い人

 春虫が鳴いている。

 目が覚めて最初に思ったのはそんなことだった。

 ベッドから身体を起こし、大きく息を吸い込むと身体の中に溜めこまれた古い空気が入れ替わるような感覚がする。この辺りは冬の香りがまだ色濃く残っているが、それでもそろそろ春の足音が聞こえてくるだろう。

 最初にその音を聞くのは澄み渡った空気だ。吸い込めば身体を中から凍えさせるような冬の空気に、ある朝ふと、柔らかい暖かさを含んでいることに気がつかされる。そうすれば、後は自然が徐々に目覚めて行くように春を迎えていく。

 もっとも、最近ではその足音も随分と小さくなってしまったが……。


『主さま、おはようございます』


 身支度を整え、昨晩寝る前に書いていた物をまとめていると夜々の声が聞こえてきた。返事をすると、扉を開いて彼女が顔を出す。


「例の女性も目を覚ましております。いかがいたしますか?」

「私も行くわ。戸惑ってはいなかった?」


 夜々は少し考えるような仕草をしてから、「かもしれません」とだけ言った。かもしれません、とはまたなんともあやふやな……と内心苦笑する。

 こう言っては何だけれど、夜々は私以外に対しての関心が薄い。今回も彼女を看るよう私が指示したからそうしただけであって、何も言わなかったらたぶんほんの少しの関心も示さなかっただろう。これからはもう少し考えて育てていかないといけないだろうか?

 夜々を連れて部屋を訪れる。扉をノックすると、『はい』と小さいながらも張りのある声が返ってきた。


「目が覚めたようですね」

「貴女は……」

「私はレイラ・エールデレヒト。どうぞ、レイラとお呼びください」

「レイラ……どうやら、随分と迷惑をかけてしまったようだな」

「大したことではございません。それより昨日は災難でしたね。ここは昨日貴女方が訪ねてきた屋敷です。この子は夜々。見ての通り妖怪ですが、私の大切な家族です。間違っても害をなすことはありませんから、不必要に警戒していただかなくても結構です」


 ぽんと夜々の肩に手を置く。すると、一応夜々はぺこりと小さくお辞儀をした。この辺は教育した甲斐があったかもしれない。


「体におかしいところは? 痛むような所があれば遠慮なくおっしゃってください」

「いや、痛むような所は全くない」


 それは良かった、と改めて彼女を見やる。

 『あの人』は私以上に目映い金の髪で、ハーフアップにしていることが多かった。しかし、髪型や髪色の違いを除けば彼女は『あの人』に不気味なほどによく似ていた。磁器のような白い美しさに、どこかガラスで造られたような儚さを湛えている顔。収まった瞳は透き通り、中で幾重にも光を反射させてどんな宝玉も比べ物にならない輝きを持っていた。

 私は何度『あの人』を手に入れたいと願っただろうか?


「手当は貴女がしてくれたのだろうか?」

「傷の処置はそうですが、一晩の間看てくれていたのはこの子ですよ」

「そうだったのか……」


 夜々を見やって柔らかく少女が微笑む。その視線に私は少しだけ驚いた。

 夜々がまだ幼子ということがあっても、今の世の中で妖怪を相手にこれだけ優しい表情を作れる人はそうそういないだろう。先ほどの注釈は不要だったかもしれない。

 と、そこで彼女がはっとした様子で慌てて言った。


「礼が遅れて申し訳ない。助けてくれたこと、心から感謝する」

「構いません。ほんの気まぐれ、とでも思ってください。貴女が何者なのかは……」


 表情をうかがうと、少女が顔を僅かに曇らせた。


「……聞かない方が良さそうですね」

「それで良いのか?」


 驚いたように少女が言う。


「実際、その方が良いのでしょう?」

「だが……自分でいうのも何だが、こうして身分も何も知れない人間の看病をするなんて……」

「それも相手によりけりです。私の見立てでは、貴女さまは昨日出会った男どものような悪党には思えません。それに、人間というもの他者に隠したいことの一つや二つ持っているのが当たり前です。……それとも、深く追求した方がよろしいでしょうか? それであれば、そのようにいたしますけれど」


 少女は苦笑して軽くかぶりを振った。


「いや。その好意、ありがたく受け取っておこう」

「それと、これをお渡ししておきます。貴女さまに縁のある者のものだとお見受けします」


 三枚のプレートを差し出す。それは、万が一のことがあった時に身分を証明するプレートだった。彼女を屋敷に連れ帰り、周囲の物見から戻って来た夜々に森を探させた時に見つけたものだ。

 交戦した様子はあったようだが、相手の中に術師がいたのでは奮戦もむなしくあったに違いない。並の術師でも状況さえ整っていれば一人で普通の一個小隊と同じかそれ以上の戦力となる。奇襲をかけたらその威力は相当なものだろう。


「……ありがとう」


 少女自身、男たちの『適切に処理した』という会話から薄々そうだとは思っていたのだろう。小さくまつげを震わせたが、それ以上の悲しみを表に出すことはしなかった。

 そんな彼女の考えを尊重して、私も重たい空気を引きずらないように話題を変える。


「それより、丸一日近く眠っていたのです。食事でも取られたらいかがでしょうか?」


 すると、タイミング良く少女のお腹が鳴いた。それに少女の頬が赤くなる。くすくすと笑うと、恥ずかしげに彼女は視線を動かした。丸一日食べていなかったこともあるが、ここに来るまでの旅路でも満足に腹を満たせたとは思えない。


「支度が済み次第、この子について来てください。豪華なものは用意出来ませんが、多少の足しにはなるはずです」

「……心遣い、重ねて感謝する」


 紅潮させた顔のまま少女が頭を下げる。それが、私の心に焼きついている『あの人』の表情と寸分違わなく重なって見えたのは……私の勘違いなのかもしれない。



 ダイニングに私や夜々以外の人が入るのは一体いつ以来だろうか? 私はもちろん、ある程度まで成長した夜々も物理的な食事を必要とはしない。それでも時折、娯楽の一つとして夜々は食事をすることがあるが、それでもわざわざダイニングで取ることなんて滅多にない。夜々がこまめに掃除をしてくれるから埃の類は積っていないけれど、それでもこの部屋の空気はどこか停滞しているように思う。

 少女は昨日着ていた衣装だけで、グリーブや籠手の類は身につけずに夜々の後からダイニングに入って来た。視線だけが軽く動く。失礼にならないように、されど周囲の様子をうかがうために身につけた癖だろう。

 十人分ほどの食事なら置けるだろう長いテーブルに、白いテーブルクロス。私が住むようになってから一切手をつけていないから、絢爛なシャンデリアも精緻な細工がされた燭台もそのままになっている。

 四百年ほど前にはここに豪華な食事が並んで晩さん会の一つや二つが開かれていたのかもしれない。だが、今テーブルに並んでいるのはその頃からは想像もつかないくらいに質素な食事だった。


「この辺りには行商人も滅多に来ません。食材のほとんどはこの子が採って来たものばかりです」


 シンプルなフラットブレッドに、野菜の漬物。薄い塩漬けの肉が何枚かあって、僅かばかりの干した果実が多少の彩りだ。これでも周辺の村民の食事と比べたらいくらか豪華と言って良いだろう。


「妖怪はそんな生活ばかりを?」


 私と対面の場所に座って彼女はそう問いかけてきた。


「詳しくはなんとも。ただ、概ねそうでしょう。大手を振って生活出来ている妖怪が今の世の中でどれほどいることか……妖怪の集落は教会があらかた潰してしまったでしょうし」

「………………」


 少女の表情が曇る。教会が、と言いはしたが、その教会の行動に目を瞑っているのは他ならぬエイルクォート王国である。王国の騎士を名乗り、夜々にあれだけ優しい表情を見せることが出来る彼女からしたら何か思うところがあるのだろう。

 手を合わせ、彼女は黙々と食事を始めた。

 所作は人間の生まれを何よりも雄弁に語る。彼女の食べ方は綺麗に食べることを生まれながらに求められてきた者のそれだった。後から作法だけ覚えて取り繕ったのでこうはいかない。気品、とでも呼べば良いだろうか?

 その外見には到底似合わない男言葉を使い、自らを騎士と名乗る。

 そこまで考えて、私らしくもない、と思考を止めた。

 彼女がどんな生まれで何者であったとしても、それが私の抱いている印象に影響など与えるわけじゃない。私は彼女に興味を持っている。『彼女』を思い出すからという、今の私には到底似つかわしくない、人間染みた浅ましい理由で彼女を助け、こうして施しをしている。それだけが紛れもない事実なのだ。


「一つ、聞いても良いだろうか?」


 食事を終え、水を飲んで一息ついたところで彼女は私に問うた。


「答えられることであれば、なんなりと」

「自らの素性を隠しておいてこんなことを聞くのは虫の良い話だとはわかっているが……貴女は、一体何者なんだ?」

「と、言うと?」

「そのヤヤという妖怪を仕えさせているようだし、強い力を持った妖怪は人に化けることが出来ると聞く。彼女と同族と考えるのが一番納得がいくが……」


 自らの体に手をやった。


「昨日私が負った傷は、普通なら助かるようなものじゃなかった。何らかの……そう、治癒の神術でもなければ助からなかったはずだ。それに、そもそもあの男たちをやつけた術も、高度な神術の一つだった」

「………………」

「神術を使えたということは、貴女は妖怪というわけではないんだろう? それに、練達な術師はその力をもって妖怪を使役すると聞いたことがある。見たのは初めてだが……」

「使役とは少し違います」


 夜々に視線を向ける。つり上がり気味の目が真っ直ぐに少女を見やり、ぱたぱたと尻尾を振っている。少しは彼女に興味を持ったらしい。


「夜々は私の家族であると同時に、巫女です」

「ミコ……? なんだろうか、それは?」


 ああ、この世界では巫女というものの概念がないのか、と今更になって気づく。少し考えるが、代替になるちょうど良い言葉が見つからない。


「……まぁ、教会の神父、もしくはシスターのようなものと考えていただければ結構ですよ」

「と言うと、ツェミダー神教と関わりが? それとも何か他の宗教だろうか? ヒェート教……いや、トワモラル神教? しかし、だとしても変だな。その少女の装束は……この国ではもちろん、どんな文献でも見たことがない」


 そこまで言って、少女ははっと表情を変えた。


「もしや、フライバッハに関わるモノか!?」


 声を大きくして身を乗り出した彼女に、私はふふっ、と小さく笑った。


「随分と好奇心が旺盛なのですね」

「す、すまない」


 慌てて自分の所作を恥じるようにたたずまいを元に戻す。


「関心のあることで、少し興奮してしまった」

「この子の衣装は、私が特別にこしらえた装束です。残念ですが、フライバッハとは関わりはございません」


 白と赤を基調とした装束。あちらこちらに動きやすい工夫はしてあるが、元ははるか昔にあったちっぽけな島国の儀式礼装をアレンジしたものだ。もちろん今の世の中に同じようなものがあるとは思えない。彼女が見たことないのも当然だろう。


「昨日、貴女さまはおっしゃっておられましたね。天命を受けし聖者を見つける、と」

「聞いていたのか」

「ちょうど、私があの現場に着いた時、男たちと貴女さまが話しているのを耳にしたのです」


 納得がいった、というように彼女の表情が緩む。


「このようなこと、言ったところでほとんどの人が夢物語だ、と言うんだがな……」


 そう彼女は苦笑する。


「私は一応、騎士としての役割の傍ら、聖者を探しているんだ」

「それは、フライバッハの、ですか?」

「フライバッハを知っているのか?」

「はい。ツェミダー神教が興る前にあった宗教、という程度ですが」


 ツェミダー神教について私は特別詳しく知っているわけじゃないが、エイルクォート王国が大きく認めている宗教の一つだ。国教にはしていなかったけれど、相当数の信者がいて、王国議会には息のかかった者も多いと聞く。何よりもの特徴は、神術を用いて妖怪を徹底的に排除することを訴えていることだろう。彼らによれば神術とは人が神から与えられた、この世界を統治するための術だそうだ。

 フライバッハはその逆に全ての生きとし生けるモノの融和を訴えていたが、栄えたのは随分と昔の時代で、今は信者がいないのはもちろんのこと、少しばかりの文献が残されているだけだ。教義が書かれた書物などは今の時代に至るまでにほとんどが焼き払われ、焚書にされてしまった。


「確かフライバッハの聖典に聖者の記述がありましたね。オラリウスの章、だったでしょうか?」

「驚いた。よくご存じだ」

「たまたまです。こうして世間と少し距離を置いて生活をしていると、類が友を呼ぶように、不思議と世間から迫害されたものが入ってくることがあるんですよ」

「謙遜を。私にはただ貴女が並の人よりはるかに博識であるだけのように思える」

「身に過ぎた言葉です」


 互いに笑う。そして彼女は言葉を続けた。


「確かに、貴女の言った通りだ。フライバッハの聖典にはこう書かれている。『天地禍に呑まれる時、天命を受けし聖者がこの世に光りをもたらす』と」

「この場合、禍に呑まれるの『禍』というのは災厄……もっと言えば、異形の災厄と考えて良いのでしょうか?」

「少なくとも私はそう考えている」


 少女は顔を険しいものに変えた。


「貴女のような人にこのような説明は不要だと思うが、世界は今、大きな災厄に見舞われようとしている。農耕技術の向上や改良で誤魔化されているが、作物の不作や動植物の減少はこの百年の間絶えず続いていると学者の間では考えられている。また、今の所まだ噂や伝聞程度で済んではいるが、先日この近くの村も襲われた異形の災厄はもっと直接的な禍だ」

「禍と呼ぶよりある種の新しい生物種……もっと言えば、妖怪の一種ではないかと考えている学者の方が多いと聞いていますが?」

「王国内でも今の所そのような意見が多い。あれは今まで人類が出会ったことのない妖怪……忌族であり、たまたま今の時代に出会ってしまったのだ、と」

「それを、貴女さまは禍と考えている。何か根拠のあることだと思いますが」

「根拠、と呼べるかどうかまではわからないが、一応考えはある」


 その口調は思った以上にはっきりとしたものだった。当てずっぽうの考え、というようには見えない。それなりに自信をもっているように見えた。


「ツェミダー神教は妖怪を知性の欠片もない、忌むべき種族……忌族と呼び、種族全体を滅ぼそうとしている。そんなツェミダー神教は、元々は神術が発見されてから自然と発生した宗教の一つだ。そして、今までの歴史をひも解いていくと、人の手に神術が与えられ、本格的に妖怪の討伐を始めた時から各地で不可解な天変地異が記録されるようになった」

「調べたのですか? 神術が人の手に与えられ、もう結構な月日が経つというのに」

「幸い、その手の記録を調べるのにはあまり苦労しない立場にあるんだ」


 彼女は続けた。


「最初はごく僅か。それでも、妖怪の討伐を広げていくにつれ、天変地異の規模は明らかに関係性があるように思える。そして三十年ほど前から天から降ってくる異形の災厄の数が、確認出来る範囲でも明らかに増えている」

「そうなると、妖怪が人間に対して反抗してきている、反攻手段として異形の災厄をもたらしていると考えることも可能ではないですか?」

「その線も考えなかったわけじゃない。実際、数少ない記録では、妖怪に対して絶対の効力を持つ神術も、異形の災厄に対してはあまり効果を示さなかった、というものもある。妖怪が対抗手段として用いている、という考えも出来ないことはない。しかし、それではなぜ妖怪の数が回復しない? 異形の災厄の件数は増えても、妖怪の数が増えたという報告は一件もない。むしろ、異形の災厄の到来により一層妖怪を討伐するようになり、妖怪の姿など全く見なくなった地域も少なくない。しかし、人間に対して反攻しているというのに、肝心の妖怪自身が数を減らしているというのはあまりにも本末転倒だ」


 一理ある考え方……だと思う。感情的な人間ならこれも全て妖怪の仕業だと謳って弾圧を強くするだろう。実際、今の教会がその典型だ。


「つまり、妖怪の討伐と異形の災厄は、関係性はあっても今現在考えられているものとは全く違う、ということでしょうか?」

「少なくとも私はそう考えている。異形の災厄の正体がなんなのか、それは私には皆目見当がつかないが、あの異形の災厄たちは、この世界のバランスを崩そうとしている人間に対しての警鐘のように思えるんだ」

「世界のバランスを崩している人間への警鐘……」

「そう。世界のバランスだ。この世界は、何も人間だけのものじゃない。人間や妖怪……それに動物たちや植物たち、生きとし生ける者全てのものだ」


 少女が夜々を見やる。夜々は話自体には全く興味はないようでただ聞き流しているだけのようだった。ただ、その視線を不快に感じたりはしていないようだ。尻尾をゆっくりと左右に揺らしていた。


「今の人間は傲慢になり過ぎている。そして私は、過去にも同じようなことがあったのではないかと考えているんだ。私はフライバッハの聖典に書かれていると思しき遺跡も巡っているが、まるきり嘘が書かれているわけじゃない」

「つまり、聖者の記述もあった可能性が高い、と考えているわけですね」


 彼女は頷いた。


「確かにそれは歴史にすら残らないほどの過去のことなのかもしれない。でも、きっと似たような災厄があったんじゃないだろうか? そして、それを救った聖者がいる。ともすれば、今の世にもこの災厄から世界を救える聖者がいないとも限らない」

「それで、その聖者を探している、と……」

「ああ。本音を言えば、そのような聖者に頼らず、人が己の在り方を考え直し、妖怪と手を取り合うことで世界のバランスを回復させられるのが一番だとは思うのだがな」


 なるほど、確かに今の常識……とかくツェミダーの教えを信じている者にこのようなことを言っても誰も相手にしないだろう。妖怪との融和など唱えたところで誰も耳を貸さないどころか、ツェミダー神教の異端審問会にかけられて死罪にされていたっておかしくない。今まで彼女が生きていられるのは彼女がそれなりの立場にあるからと考えるべきだろう。


「そのように言われると、貴女さまが昨日あのような手の者に追われていた理由もなんとなく察しがつくように思えます」


 私の言葉に彼女は曖昧な表情を浮かべた。おそらく彼女自身一番よくわかっているのだろう。

 でも、だからといってあの時に彼女を襲わなければいけなかったのだろうか?

 彼女がそれなりの立場にあればあるほど、暗殺の遂行は絶対の機会を待つはずだ。下手に急いで失敗をした時のリスクは計り知れない。……今回がその時と見たのか、それとも別の理由があるのか?

 ……まぁ、どちらにしたって私にとって関係のある話じゃない。

 思い浮かんだ考えを心の中でかぶりを振って追い払う。


「話が随分と逸れてしまいましたね。貴女さまはこの後はいかがされますか?」

「そうだな……貴女たちの世話になりっぱなしになるわけにもいかない」

「とは言っても発つには多少の準備が必要なことでしょう。身体も、傷こそ癒えていても、疲れが随分と溜まっていらっしゃるはずです。数日の間、ここで休まれてはいかがですか?」

「正直、そうさせてもらえると助かる」


 柔和に微笑んだ表情に、私の胸の奥でトクンと小さく鼓動が高鳴った。それは対外的な咄嗟に作ったものかもしれなかったが、それも『あの人』の面影を呼び起こさせる。


「この辺りにはどのような村や町があるだろうか?」

「馬で一日ほど行った場所に村がありますが、ごくごく小さいものです。馬が用立て出来ると言えば……スペユという町があります。兵士の詰め所もありますし、そちらに向かわれた方が良いかと思いますが、ここより西に向かって三日ほどかかります。それに、途中で樹海の中を抜けたりと、ろくな道ではありません。不慣れだと迷うこともあるでしょう」

「樹海か……」

「もしよろしければ、案内をいたしましょうか?」

「本当か?」


 少し驚いたように彼女は言った。


「ええ。こういう場所に住んでいることもあって、森や野宿には慣れております。道案内程度は十分にこなせるかと」


 私の言葉に一番きょとんとしているのは夜々だった。いや、もしかしたらそれは私自身だったかもしれない。私自身、まさかこんなにするりと自分の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。

 私は今まで、余程のことがなければ誰かを極端に追い詰めるような真似はしてこなかったが、だからと言って誰かの肩を持つようなこともあまりしないようにしてきた。それが私という存在のあるべき姿であると考えていたし、実際だっただろう。

 昨日この少女の窮地を救ったのだって本当ならするべきではない行動だっただろう。俗世のことは俗世の流れに任せ、私は不干渉でいる。それが正しいはずだ。

 例え、昨日のことはほんの気まぐれで起こした……言うなれば偶発的な気分のムラだったのだ、と自分に言い聞かせても、今の言葉は私自らが積極的に彼女に肩入れをしようとしているものだ。

 ……けれど、だからと言って今の言葉を取り消そうという気持ちにはさらさらならなかった。むしろそうアプローチ出来た自分を褒めてあげたい気分ですらあった。


「迷惑である、と言うのであればもちろんそうおっしゃってください。私も差し出がましい真似をしたいわけではありませんので」

「そんな、差し出がましいなんてとんでもない。そうしてもらえるのなら、私としてはありがたい限りだが……」


 ちらりと彼女が私を見やる。不審というほどのものではなかったが、少しばかりいぶかしむような色がそこにあるのが見てとれた。まぁ、昨日今日会ったばかりの相手がここまでしてくれるというのは奇妙な話であるのは確かだろう。私だって初対面に近いような人間がここまでしようとするのなら何かしら裏があると勘繰ってしまうに違いない。


「……少し待っていてください、食後のお茶を用意してきましょう」


 席を立つと、夜々が「それなら私が」と言ったが、私はそれを制して隣にある厨房へと入っていった。

 食事を必要とはしないけれど、お茶は時折楽しむことがあった。災厄の影響もあってなかなか茶の類も手に入りにくくなってはいるが、今はちょうど良い風味のやつがあった。買っておく意味があるかどうか迷ったものだけれど、こういう風に使える機会があって良かったと思う。

 湯を沸かし、お茶をティーカップに注いでから部屋へと戻る。と、これは随分と変わったことがあるものだ。夜々が少女の話相手になっているではないか。私が戻ったことに気がついてすぐに会話は途切れたが、それでも夜々が私でない誰かと積極的に会話をすることなど今までほとんどなかったことだ。


「何を話していたの、夜々?」


 お茶をテーブルに置きながら、そう問うと、


「特別変わったことは何も」と相変わらずの返答だった。それに苦笑して少女が

「少し彼女のことを教えてもらっていたんだ」


 と言葉を継いだ。


「彼女……ヤヤは、狼が元の獣なのだな」

「ええ。今年で十くらいの年になるでしょうか」

「まだ若いのに、しっかりとしている」


 そう頭を撫でられても、夜々は大人しくしていた。動物は人間以上に本能で相手が自分に害をなす存在かどうかがわかるが、少女は夜々にとって頭を撫でさせてやっても良い、というだけの人物なのだろう。

 この十年、他にそれだけの人物がいただろうか? 考えたところで、その答えがノーなのは私が誰よりも知っている。

 ……そうだ。『彼女』だって、誰からも好かれていた。老若男女は当然として、不思議なことに動物からも愛される人だった。当時、猫は国家の守り神という伝統から十匹程度の猫を飼っていたが、どの子も人間の好き嫌いがあった。懐く子もいれば懐かない子もいて、猫にだって好き嫌いくらいはあって当然だろう、と皆が言っていたが、そんな中、どの猫からも愛されていたのは『彼女』だけだった。


「貴女さまは……私の姉によく似ているのです」


 ふと気がつけば、私はそんなことを口にしていた。


「お姉さんに?」


 少女が私を見やる。椅子に座りなおして一度息を大きく吸った。夜々も興味深そうにこちらを見ていた。夜々にも私に姉がいたことは話したことがなかった。


「はい。外見が……ということもありますが、人となりが、と言った方が的を射ているかもしれません。どうにも貴女さまと姉が重なって見えてしまうんです。だから、どうにか助けになれないかとあれやこれやと口を出してしまうのかもしれません」

「そういうことだったのか……」


 合点がいったというように彼女は言った。


「すみません。何の関係もない貴女さまにこんなことを言ってしまって。気を悪くされたでしょう?」

「そんな、とんでもない。貴女のような方のお姉さんだ。きっと、立派な方なのだろう」


 その言葉にはこちらが口にしないことをきちんとわかっているような節があった。言葉の裏の意味まで読み取る。やはり彼女は日頃から相当に気を張らなければならない生活をしているらしい。


「主さま。主さまのお姉さまは、今どうされているのですか?」


 そんな中、夜々が興味深そうに耳をピンと立てて私に問うてきた。漆黒の瞳が黒曜石のようなきらめきを放っている。彼女にも姉がいたと教えていたから、興味もひとしおわくのかもしれない。


「……わからないわ」

「わからないのですか?」

「ええ。……もう随分と昔に、別れてしまうことになったから」


 私はそう力なく微笑んで、彼女の頭をくしくしと撫でてやった。

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