第6話 眼鏡王子の本性
あれは、きっと夢だ。
あの優しげに微笑んでくれる麗しの神谷君が、あんな殺伐とした目をするはずがない。
それに、神谷君がヤクザという王子様とは全く正反対の位置にいるなんて、絶対にあり得ない。
私ってば、やだなあ。
昨日は色々とあり過ぎたから、ちょっと意識が混濁しちゃってたんだ。
だから、あの時見たものは全て幻。
大丈夫。
私のことだから、明日になれば、きっと全部忘れているから。
……。
………。
………なんて。
そんなこと、ある訳がないっ!
「……はあ~、どうしよう……」
私は絶望的な心境に、人目もはばからず特大の溜息と独り言を吐いた。
思わぬ場所で知ってしまった神谷君の裏の顔。
あれは夢でも幻でもなくて、間違いなく現実の話で、神谷君はヤクザ組織の人間だということ。
あの後、私は父親から神谷組について色々と教わった。
神谷組の設立は江戸時代からで、ヤクザ組織の中では一番古いという。
ただ、その辺のヤクザとは違い、神谷組は、昔から困っていたり苦しんでいたりする人を助けるために体を張る自己犠牲的精神を持つ任侠集団だという。
だから、表向きでは法に触れることはしていないようだけど……それでも武装はしているので、やはり一般組織とは異なる。
そして、莫大な資金を持つ神谷組は、政治経済業界に大きく影響を及ぼし、また、ヤクザ組織を統制・監視するいわば裏の警察役でもあると言っていた。
そんな凄い組織の跡取り息子が神谷君だなんて、私は今でも信じられない。
そして、父親にその事を話すと、とても複雑な顔をされ、なるべく神谷君には関わらない方がいいと忠告された。
確かに、任侠集団と言えども裏社会の人達であるのには変わらないため、私達のような一般人が踏み込んでいけるようなものではない。
……だけど。
それで、はいそうですかと身を引く事なんて、私には出来ないよ……。
「おはよ~紫織。……なに?今日はやけに落ち込んでるわね」
元気よく挨拶をしてきた静ちゃんは、丸まった私の背中を軽く叩き顔を覗き込んできた。
「静ちゃん、おはよう。……そ、そんなんでもないよ!」
私はなるべく心配を掛けさせないように、無理矢理笑顔を作って応える。
けど、そんな私の作り笑いを一発で見抜いた静ちゃんは、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしたのよ。昨日はあんなに嬉しそうだったのに。今度は何があったの?」
普段は厳しい事ばかり言ってくるけど、私が落ち込んでいる時は、とても優しくなる静ちゃん。その優しさに甘えてしまいそうになるけど、そういうわけにもいかない。
心配してくれる静ちゃんには申し訳ないけど、この事だけは誰にも話すわけにはいかないから……。
「あっ、神谷君だ!あ~今日も素敵過ぎっ!」
すると、背後で聞こえてきた女子学生達の黄色い声。その声に私は大きく反応し、肩を震わせた。
「ほら、愛しの王子様が登場だよ。あんたも挨拶して来たら?」
女子学生達の反応に静ちゃんはうんざりするような顔で一瞥すると、私の肩を軽く叩いて促してきた。
「う、うん……」
昨日までの私なら、言われなくても直ぐ飛びついていくけど、あんな事があったお陰で神谷君と顔が合わせづらい。
「……紫織?あんた本当にどうしたの?」
一向に振り返ろうとしない私に、今度は真剣な表情で心配し始める静ちゃん。
そんな静ちゃんを見ているのがとても心苦しく、話したくても話せないという、フラストレーションがどんどん溜まっていく。
「……ねえ、ちょっといいかな?」
その時、今度は聞き覚えのある声が背後から聞こえ、私は思いっきり肩が跳ね上がった。
普段なら飛び上がる程嬉しいはずなのに、今は一番聞きたくない声。
私は恐る恐る振り返ると、眼鏡の奥から見える優しい眼差しに、柔らかい笑顔を向けながら神谷君がそこに立っていた。
静ちゃんは連日で神谷君の方から声を掛けてきたことに目を丸くしていたけど、私はいずれ来るであろうと覚悟していたので、少しだけ冷静でいられた。
「……ごめん。紫織ちゃんを少しの間だけ借りてもいい?」
神谷君は遠慮がちな面持ちで、私の隣に立つ静ちゃんに向かって尋ねる。
「どうぞどうぞ、いつでも貸し出し可能ですから!」
静ちゃんは大きく首を縦に振ると、満面の笑みで私の背中を前へと押し出した。
「ありがとう」
そう言うと、神谷君は突然私の手首を掴み、そのまま歩き出す。
私は神谷君に触れられたことに、心臓が大きく飛び跳ね、そして、色々な意味で心拍数が最高潮に上がっていく。
ふと後ろを振り返れば、静ちゃんに口パクで“頑張れ”とエールを送られた。
違うっ!
違うの、静ちゃんっ!
……なんて、言える筈もなく、私はぎこちない笑みで応えると、そのまま引きずられように神谷君に連れ出されて行ったのだった。
一体何処へ連れて行かれるのか分からないまま、終始無言で歩く私と神谷君。
所々で女子学生達の突き刺さるような視線と、ひそひそ話と、数々の舌打ちを受け続けても、私は全く気にならなかった。
そんなことよりも、私はこれから神谷君に一体どんな扱いを受けるのかという不安で頭が一杯だ。
でも、きっと手荒なことなんてしないはず。
だって、あの神谷君だもん。
誰にでも優しくて、いつも素敵な笑顔を振りまいている温厚な神谷君なんだから、きっと大丈夫。
昨日は何だか物凄い形相で睨まれたけど、あれは絶対に何かの間違いだ。
……だから、落ち着け私。
例えヤクザの世界の人でも、神谷君ならきっと穏便に話してくれるはずだから!
そう自分に言い聞かせながら、神谷君の後ろを歩いていると、私達は人気のない図書館裏まで辿り着いた。
神谷君は私に背を向けたまま、一向に喋ろうとしない。
「…あ、あの、神谷君……」
沈黙が流れる中、痺れを切らした私は、おずおずと口を開いた時だった。
「……全く、お前は何なんだ」
何処からか聞こえた、とてもドスの利いた声。
……なんだろう、空耳かな?
……と、言いたい所だけど、ここには神谷君と私しかいないのだから、この声は明らかに神谷君から発せられたもので間違いない。
すると、神谷君は突然こちらの方へ振り向くと、掛けていたシルバーの眼鏡を外した。
「昨日といい、その前だって……何で都合の悪い所に、いつもお前が現れるんだよっ!」
そして、物凄い気迫を放ち、いつもよりワントーン低い声で私を怒鳴りつける。
……えっ?
誰?神谷君?
凄まれた怖さよりも、180度人が変わった驚きの方が勝り、私はぽかんと口を開いたままその場で立ち尽くす。
しかし、そんな私には御構い無しと、にじりにじりと距離を詰めてくる神谷君。
「……ったく、会話を聞かれて以降、いつかお前が気付くんじゃないかと警戒していたが、それも全くの無意味だったな……」
まるで独り言のようにそう呟きながら、神谷君は私のすぐ前で立ち止まると、見下ろす形でこちらに視線を落とす。
見上げると、そこには私の知らない神谷君がいた。
普段の優しい眼差しではなく、和かな笑顔もない殺伐とした表情。そして、とても冷たい目。
背筋が凍る程の冷酷な形相をした神谷君が、今私の目の前に立っていた。
そこから、私の中での神谷像が音を立てて崩れ始める。
あの優しい神谷君は一体どこへ行ったのだろう。
この人は本当に神谷君なのだろうか。
私は目の前で起こっている現実をなかなか受け入れられず、頭の中が混乱し始める。
「……おい」
すると、再びドスの利いた声で呼びかけられ、私は肩が思いっきり跳ね上がった。
「は、はい!……な、なんでしょうか」
今やもう恐怖でしかない神谷君に、私は涙目になりながら、声を震わせて応える。
「お前の親父さんの反応を見た限りだと……俺のことはもう知ってるな?」
今度は落ち着いた無機質な声でそう尋ねてくると、神谷君は一歩前へと踏み出す。
私は無言で首を縦に振ると、反射的に一歩後ろへと引き下がる。
そして、図書館の壁に背中がくっ付いた瞬間、神谷君は勢いよく私の頭上脇に手をついてきた。
……そう、いわゆる壁ドンというやつだ。
「……いいか。分かってはいると思うが、もし周りに俺の正体バラしたりしたら……ただじゃおかねえぞ」
しかし、それは少女漫画のような胸キュンポイントでも何でもなくて、ただの脅迫。
神谷君は物凄い気迫を放ち、射抜くような鋭い眼光で私を睨み付けると、吐き捨てるようにそう言った。
そして、私の返事も聞かずに、外した眼鏡を掛け直すと、そのまま踵を返して足早に立ち去って行ったのだった。
私は放心状態のまま、暫くその場で立ち尽くした。
徐々に現実を受け入れ始めると共に、私の想い描いていた恋物語がどんどんと崩れ落ちる。
こんなはずじゃなかったのに。
これから、神谷君ともっと距離を縮められるようになったり。
その内、講義なんかも一緒に行けるようになったり。
連絡先も交換出来たりして、プライベートでも会えるようになったりと、色々期待に胸を膨らませていた。
ようやく、私にも春が訪れたんだと思えたのに……。
……それなのに。
……なんで。
なんで、こういう事態になったのだろう。
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