第5話 現実

今日一日、終始浮かれ気味だった私。あれから神谷君とは一度も話す機会はなかったけど、今の私はもう十分過ぎるくらい心が一杯だった。

きっと今日の出来事なんて、神谷君の周りにいる女の子達にしてみれば大した事ではなのかもしれないけど、私には凄く自信に繋がってくる。

ただ遠くから見ていただけの恋が、もっと近いものへと変わっていく気がして、とても幸せな気分だ。


そして、ちょっとでも気を緩ませると、またお得意の妄想で顔がにやけてしまいそうになるので、私は何とか表情を崩さまいと気を張った。


すると、突然鞄の中で震え出す携帯。私は慌てて取り出し、誰からなのか確認もせずに通話ボタンを押した。


「もしもし、紫織か?」


こちらから応答するよりも先に、電話口から聞こえてきた見知った声。

その意外な声に、私は一瞬言葉を失った。


「……お、お父さん!?どうしたの!?すっごい久しぶりだね!」


数秒経って反応した私は、声を大にして少し興奮気味に応える。


「はは、相変わらず元気な奴だな。大学生活はどうだ?上手くやってるか?」


そんな私に、父親はいつもの優しい口調で尋ねてくる。私は久々に聞くその穏やかな声に、軽い感動を覚えた。


約半年振りの父親との会話。新聞記者をしている父親は、日々仕事に追われ、なかなか家に居ない人だった。だから、一人暮らしをしている私がたまに実家に帰っても、休みが不定期な父親と会う事はまず無い。

なので、こうして声を聞くのも家を出て以来だ。


「こっちは友達も出来て楽しくやってるよ!お父さんこそどうなの?」


温厚で優しく、博識な父親の事が大好きな私は、久方ぶりの会話に心が弾む。


「ああ、いつものように忙殺されている日々を過ごしてるよ。……それよりも、紫織今日の夜は空いてるか?」


急に持ちかけられた話にきょとんとしたが、今夜はバイトも入れてないし、特に予定もないので、私は二つ返事で答える。


「それはよかった。実は、仕事で今お前の大学近くまで出張しているんだ。もうそろそろ終わりそうだから、今夜お前に豪華な夕飯をご馳走してあげようと思ってな」


すると、明るい声で返ってきた父親の言葉に、私は目が輝いた。


「本当に!?豪華って……期待してもいいのお父さん!?」


初めて父親からそんな提案を受けた私は、再び興奮が訪れる。


「ああ、臨時ボーナスも入ったし、なかなか会えないお前の為に奮発するよ。ただし、母さん達には内緒だぞ。それじゃあ、また後で連絡するから」


そう言うと、プツリと通話は途切れ、そこで会話は終了した。

私は未だ興奮が治らず、小さく震える手で携帯を握りしめる。


本当に、今日はなんて最高の日なんだろう。あの神谷君と会話が出来て、授業中に視線が合って。しかも、大好きな父親にも会えて、おまけに豪華な食事にまで連れてってくれるなんて!


まるでお盆とお正月が一緒に来たような心境に、心が踊る。

そして、私は逸る気持ちを抑えながら、父親との食事を今か今かと心待ちにしていたのだった。







__二時間後。




「……美味しいっ!お父さん、これすっごく美味しいね!」


私はとろけるようなマグロのお刺身を堪能しながら、満面の笑みを父親に向けた。


「いやあ~、流石、上流階級御用達の店だな。父さんもこんな美味いものは初めて食べたぞ」


父親も私に負けないくらいの幸せそうな笑みを浮かべながら、伊勢海老のお刺身にご満悦の様子だった。


ここは、都内の中心部にある料亭。外観はとても立派な御屋敷で、風情がある豪華絢爛な造りは、敷居が高い雰囲気を漂わせている。中に入れば、まるで旅館の様に複数の仲居さん達が私達を出迎えてくれて、個室へと案内してくれた。

部屋まで行く道中、すぐ脇にある庭園には広い池があり、中には大きなニシキゴイが何匹も泳いでいる上に、ししおどしが静かな音を立てている。


まるで、ドラマに出てくる様な光景。

父親曰く、ここは上流階級の間では名の知れたお店で、著名人もよく利用しているんだとか。


豪華な食事と言っていたけど、まさかここまでのものとは想像もしていなかった為、私は部屋に着くまでは終始緊張しっぱなしだった。


「それにしても、お父さん凄いね。ここ完全予約制なんでしょ?よく取れたね!」


上流階級御用達であれば、恐らくこういう場所は一般人はなかなか予約なんて取れないだろう。なのに、今日の今日で入れたなんて、とても信じ難い。

私は尊敬の眼差しを向けると、父親は急に苦笑いをし始めた。


「実はな、本当は某政治家の取材用で取っていたお店なんだ。だけど、先方が急遽キャンセルになってしまってね。そしたら、代わりに行って来いって上司に勧められて……」


なるほど。父親の説明に納得がいった私。

政治部に所属する父親にはよくある話で、たまに大物政治家との取材があったりする。それを聞く度に、私はそんな地位の人達と並んで仕事をする父親の事を尊敬してやまない。


「理由はどうあれ、こんな一生に一度しか行けないような所に連れてってくれてありがとう!……確かに、これはお母さん達には言えないね」


私は感謝の気持ちを込めて、にっこり微笑んだ。

それから、次々と出てくる豪華な料理に舌鼓を打ちながら、私達は積もりに積もった会話を楽しみ、親子水入らずのひと時を過ごしたのだった。








「……ふう~、もうお腹いっぱいだよ~」


出された料理を全て平らげた私は、お腹も胸も一杯になった。


「ねえ、お父さん。ここ写真撮っちゃ駄目かな?静ちゃん達に自慢したいんだ!」


ここへ来た時からずっと抱えていた衝動。この著名人達が集まるという煌びやかなお店は、是非とも記念に収めたいし、静ちゃん達にも見せたい。入りの時は仲居さんが側にいた為遠慮していたけど、私達しかいない今ならチャンスだと思う。


「はしたない事はやめなさい。ここはそういう場所じゃないぞ」


しかし、はしゃぐ私とは裏腹に、とても落ち着いた様子でぴしゃりとそれを制する父親。厳しい一言に、私はしゅんと項垂れながら廊下の突き当たりを曲がった時だった。


「きゃっ!」


不意に何かに思いっきりぶつかり、反動で後ろへとよろめく。


「ご、ごめんなさいっ!前方不注意で……」


私は額を抑えながら、慌てて頭を下げようとした所で固まった。


……。


…………えっ!?


目前に立つ人物に、私は目が点になる。そして、その人物もまた、私と同じ様に驚愕した表情でこちらに目を向けていた。


「……か、神谷君?」


掠れた声で、私は思いもよらない人物の名を口にする。


なんという事だろう。まさか、こんな所で遭遇するなんて……。

信じられない事態に、私は開いた口が塞がらない。


黒いネクタイのスーツ姿に、しかも眼鏡を外している状態の神谷君。眼鏡がないせいか、普段のような柔らかい印象とは全然違い、キリッとした綺麗な瞳が強調されて、これまた魅力的だけど、何処か冷たい雰囲気を感じるような……。


けど、そんなことよりも、こんな場所にまで神谷君と会うなんて、これはもう運命としか言いようがない。

そう確信した私は、鼓動が徐々に高鳴り始める。



__しかし、次の瞬間。


神谷君の顔が思いっきり歪み、舌打ちと共に物凄い形相で私を睨んできた。


…………えっ?


今までに見たことのない彼の表情に、私は一瞬自分の目を疑う。


「こら、紫織。ちゃんと前を見ていないとダメだろ」


「どうした凌。このお嬢さんと知り合いなのか?」


すると、ほぼ同時のタイミングで、私の後ろを歩いていたお父さんか追いつき、神谷君に続いて、とても威厳のある着物姿の恰幅が良い五十代くらいの男性が個室から現れた。

そして、一瞬だけ空気が凍りつく。

……というより、着物姿の男性を見た途端、父親がまるで蛇に睨まれたカエルの如く動かなくなり、みるみるうちに顔を青ざめてその場で固まった。

私はそんな父親の反応に首を傾げると、突然手が伸びてきて、強制的に勢い良く頭を下げられた。


「も、申し訳ございませんっ!うちの娘が大変失礼な事を致しましたっ!」


必死になりながらそう叫ぶと、父親も一緒になって深々と頭を下げる。私は一体何が何だか状況が全く理解できず、視線を足元に落としたまま、頭上に無数のクエスチョンマークを浮かべた。


「……別に、大した事じゃない。親父行くぞ」


ようやく口を開いた神谷君は、とても無機質な声でそう応えると、私には目もくれず、そのままスタスタと足早に着物姿の男性と一緒に去って行った。

二人が居なくなった途端、父親は緊張感の糸が解れたように力なくその場に座り込み、私は益々混乱し始める。


「お、お父さん!?どうしたの突然?あのおじさん一体誰なの!?」


温厚な父親がこんなに青ざめている所なんて、今まで一度も見た事がない。だから、きっとかなりの大物なのかもしれないけど……私には全然分からない。

暫くして少し落ち着いたのか、父親はおもむろに立ち上がると、大きく深呼吸をした。


「……あの人は、神谷組六代目組長だ」


そして、ポツリと放った一言に、私はいまいちピンとこなかった。

反応が乏しい私に、父親は呆れたように深い溜息を吐くと、無知な私のためにもう一度説明してくれた。


「いいか。神谷組っていうのは、日本最大のヤクザ組織なんだよ」



……。



…………。



…………日本最大のヤクザ組織?




私は、父親の言葉がなかなか呑み込めず、茫然としながら立ち尽くす。

すると、昨日盗み聞きしてしまった神谷君の会話が、ふと頭を横切った。


“総会”、“六代目跡取り”。


そこで、私は全てが繋がった。何故、あの時神谷君が、あの会話をひた隠しにしようとしていたのかを。


……そう。


神谷君は、ヤクザ組織である、神谷組六代目組長の跡取り息子だったのだ。


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