第2話
悲しい女
店長、今日お休み頂きます。 電話の向こうで何やら慌てたサキが息を切らしてそう話す。どした?
うちの犬が居なくなってしまって。今大捜索中です!この借りは返すから!みません!そう言って電話を切られた。
もはや、ここは職場ではない。
やれやれと浅いため息を吐いた所に
いらっしゃいませー。カラン。からん。と本日の初来店客が訪れる。
ビール下さい。そう言ってオシボリを顔へやる彼女はこの時間に現れるとなると…
深く考える前に牛タン、ハツ、ぼんじりの注文が入る。じっくりと火を通した炭火に前夜から仕込んでおいたハツが乗る。ぱたぱたと扇ぐ風景はもはや古い。先月新調したばかりの大型換気扇が澄ました感じでその香りをぐんぐん吸い上げる。
お通しは今朝取れのあのレタス。しならないよう、沸騰前のサ湯に丁寧に潜らせ、彩を整えたらご自慢の冷えた出汁に浸して胡麻を振る。そのシャキシャキ感を冷えたビールと共に一気に客の喉へと通るのを見届けて慣れた手つきでぼんじりをくるくる回すのに徹する。
えー。今日も来れないのー。悲しそうな顔とは裏腹に小耳にスマートフォンを挟みながら先に出した牛タンの串をカウンター脇にある串刺しへ戻す。
これが彼女の日課だ。PM5:10分頃彼女はぴったりオープンから息つく間もない時間帯にやってくる。制服を脱いだ面影を残したファッションで、今夜の肴を探すのだ。
落ち込む様子もない彼女は店長!今日サキは?いつ来るの??笑顔で話す。
あぁ。サキはどうやら愛犬が脱走したようで、探し回ってるようだ。その内出勤してくるさ。
迷わずそう答える。
えー。またぁ〜?さきんちの犬もう飼って10年でしょー?まだ逃げちゃうわけぇ〜?
僕も本当にそう思う。彼女が飼ってる愛犬大くんは、月に1〜2回はいなくなる。
でも不思議なほどにまた必ず戻ってくるのだ。
この前なんて、自宅から車で1時間30も離れた場所で、リビーという名前に変わって生活していた。
他人に飼われた元愛犬を探し出すなんて、どれ程の根性と相性がついてるのかまったく僕らには理解出来ないものであった。
そんな小話をしていると流行りの曲が大音量で流れた。
もしもしー?だいきー?どしたー?
えー。今ー?やだよー!仕事終わりで自分にご褒美乾杯ちゅーう!!だめだって!また今度ね!
そう言って彼女は電話を切り、深いため息を吐いた。だいきくん、来ないの?そう聞くと、
うん。最近ね、ちょっと、会ってないの。
何かを想いながらそう彼女が答えた。
それ以上聞くのは野暮である。
僕は丁寧に仕上げたぼんじりやハツを次々と彼女の前へ出していく。決まってレモンをくれと言う彼女に、懲りもせず用意して置いた自家製味噌をそっと隠す。
マヨネーズだけは丁寧にお断りしているのだ。
串を食べ終えた彼女はまた別の男からの電話に出て店を後にする。
その皿を片付け終えた後、サキが出勤してきた。
店長ごめーん!おはよーございまぁーす!
さきちゃーん!今日は遅かったねー!テラス席で飲んでいた近所の青山さんが声をかける。
青山さん、聞いてよー!家の犬、また逃げちゃってー、今日は三丁目の寝具屋さんに保護されてたの〜。もー。嫌になっちゃうー。
クタクタな様子でエプロンを結ぶサキに、青山さんはいつものようにこう言う。仕方ないじゃない〜。大くんはさきちゃに探される為に産まれたきたんだから〜。わっはっはっはっは。
甲高い笑い声が響く店内は一層忙しさを駆け巡らせていた。
気づけば夜も深い。長い針が12を回ろうとしている。
店先の幕を片付けようと外に出るとしゃがみ込んでいる彼女を見かけた。
泣いている様子だ。おかえり。とそっと声を掛けた。いつもなら店長〜と言って泣きついてくる彼女はそこになく、無言で声を殺して泣いていた。
僕はそっと幕を手にして店へ戻る。
最後のお客が今日もありがと〜またね〜と、爪楊枝をかきながら帰っていく。
静かになった店内で、お疲れ様でーす。と、最後の皿を洗い終えたサキがエプロンを脱ぐ。
今日は大くんにお土産持って帰るの。と残った串をビニールに詰めた。
すかさず、またかよっ。と翔太が突っ込む。
逃げるたんびに美味いもん食えて、益々逃げちゃうんじゃねぇ〜かぁ〜。と嫌味も交え、サキと翔太の一戦が始まる。
皆んなが帰った後、明日の仕込みを終えた僕はタバコを吹かす。帰ろうと電気を消そうとした頃、缶ビールを袋いっぱいに持った彼女が現れた。
どした?聞くまでもなく、いつもの彼女に戻っていた。店長〜もー帰るの〜少し付き合ってよぉ〜。どこか寂しを隠した彼女が続ける。
今日さ、だいきとお別れしたの。もう、嫌になっちゃったんだって。待つのも誘うのもぜーんぶ疲れちゃったんだって。そう言ってまた一粒涙を流す。僕は相づちで返すしかなく、黙って彼女の話を聞いた。だいきは彼女の幼馴染。負けん気の強い彼女をいつも側で見守っていた。
以前は決まって待ち合わせ場所になっていたこの店へ最近はめっきりと顔を見せなくなっていた。
電話での様子はいつもと変わらない様子で、忙しさのせいだと思っていた。
だってさ、だいきはただの幼馴染じゃん?
あたしだってダイキのこと大切で、いつも何でも聞いてくれて、呼んだらすぐに駆けつけてくれて…上司に怒られた時も大丈夫だよ。って…
気分転換させてくれたり、いつも側にいるのが当たり前で、、、、なのになんなのよ!急に!私の事なんてもーどうでもいいのかしら。。話せば話すほど涙をこらえて喋れなくなる彼女にそっとオシボリを差し出す。僕は開けたての缶ビールをそっと缶コーラに変えた。
だいきは彼女が好きだ。誰もが分かる事を当の本人が自覚してない。この話の用人は彼女ではない。だいきだ。毎日違う男とのデート終わりを待つ彼は疲れてしまったのだろう。男として。いや。人として気持ちは理解出来る。
かつてはだいきにも彼女がいたのだ。
別れた理由なんて、この子は知らない。
以前、小さくて肌が真っ白な笑顔の可愛い女の子をだいきが連れてきた。お。だいき!彼女出来たの?と問いかけにデレデレハニカミながら店長ー!僕の自慢の彼女っす!宜しく!と乾杯したのを覚えている。それが半年もたたずに、別れてしまったのだ。カウンター越しに始まった喧嘩別れは今でも尾を引いていた。ジョッキグラス一杯に入ったビールが自慢の換気扇まで飛んできた。
もう嫌なの。彼女と会わないで!声の勢いが増す。私もあの子大好きだけど、もう、いやだよ。悲しそうな顔をして彼女は店を去った。
後を追いかける様子もないだいきは、気まずそうな顔で換気扇付近をオシボリで拭いている。
僕はそれ以上突っ込む事もなく、サキがポンポンとだいきの肩に手を置いた。
いやぁ〜なんてかさ、俺らの関係を知っての上で付き合ったんすけど、それがこんな事になっちゃって…段々と声が小さくなり俯く。
グラスを空けてだいきは帰っていった。
ふとそんな事を思い出していると、サキが大きな声を出して泣いた。
私、だいきに甘えていたの。分かってる。でも、今更どうしろって言うのよ。待ってなんて言った覚えもないし、連絡しろとも言ってない。私だって十分に待ったんだから。。そう言いながら大声で泣く彼女にかける言葉はなく、あくまでも僕はだいきの味方だ。彼の事情はそっと心に閉まっておいた。
泣き疲れた彼女の答えはきっと、彼女自身がしっかり身に浸みて感じているだろう。
だいきと彼女。その行方なんて僕にとっては今日一日のその時間の中の話である。
僕はまたタバコの火をつける。
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