第4話 光の中で

 

 上るでもなく、下るでもなく、正面へ一直線に伸びる洞窟。

 入口は大きいが内部は少し進めば急に狭くなり、高さこそ僕を三倍したくらいだが、幅は人が並んで通るには厳しそうだ。

 奥深くで待つその果てからは、柔らかな白い光が滑りこんできている。


「行きましょう……?」

 女の子の言葉に僕はうなずいた。


 そして洞窟内に一歩踏み込んだ瞬間。

 全身を駆けた痺れとともに、僕は、全てを理解した。“全て”を……。


 ぎこちなく隣を見れば彼女もまた天啓にうたれた表情をその顔に張りつけていた。大きく開いた双眸、小刻みに震える瞳、薄く割りひらかれた唇。


 三歩ほどしか進まずに立ち尽くしてしまった僕らのすぐ後ろで、呑んだ息に喉を鳴かせる音が聴こえた。

「……そういう……ことだったのか……」

 青年が驚愕の顔で僕らを、僕らの先にある出口の光を、見つめていた。


 彼の背中でここまで意識定かならなかった少女もまた、“その衝撃”に目を覚ました。


「俺にも分かった……。やっと…分かったよ……」

 青年の顔がすぅっと穏やかさに満ちる。少女が意識を取り戻したことに気づくと「歩けるかい?」と訊ね、小さな首肯をうけて背中から優しく下ろした。


 地響きはついに洞窟までを激しく震わせはじめた。津波はもう目と鼻の先まで来ているのだ。

 パラパラと崩れだしたこの一本道を、僕らは込みあげる“願い”に衝き動かされて走った。


(どうか……)


 胸の中に、祈りが生まれる。

 天井から崩落する欠片がどんどん大きくなっていく。


 そして半ばあたりまで到った時、突如背後から僕らの誰のものでもない怒号が響きわたった。


「―――てめえらどけええッ!!」


 誰かが、最後尾の青年のさらに後方から狂ったように迫る……!


「俺だ! 俺が手に入れるんだ! あの光は俺があああ!!」


 どこかで――僕はこの声をどこかで聴いたことがあった。

「あの人です……! 最初の……!」

 僕のすぐ後ろを走る彼女が恐れをにじませて言った。それで思い出した。そうだ、この旅の始めに僕らに食ってかかってきたあの男の声だ。

 彼もまたここまで生き延びていたんだ。


「邪魔するなあ! 邪魔するやつは――」


 狂気。

 あの声には狂気しか感じられない。

 一緒に旅立ったはずの女の人の姿は見えない。

 彼らに何があったのかは分からないけれど、この旅路は誰にとっても過酷すぎた。だからきっと彼にはもう自分のことしか……


「……この子を任せる!」

 青年が僕らに向かって強く叫んだ。何度も振りかえっていた幼い少女はその言葉で足を止めようとした。

「止まるな! 生きるんだ! そして……」

 少女に背中を向け、襲いかかってくるあの男に渾身で飛びこんでいく。

「繋ぐんだ――!!」

 青年の最後の言葉が洞窟に反響した。


「いやああああ!!!」

 ずっと耐えていた感情を爆発させるように少女は悲鳴を吐き出した。

 駆け戻ろうとしたその細い腕が別の手に掴まれ、引き戻される。有無を言わせぬほど強く。

「……進むの!!」

 これまで声を張りあげることのなかった彼女が初めて、少女の哀願を叱りつけるように怒鳴った。

「私達が繋ぐ……そうですよね!?」

 その澄んだ叫びは僕へ向けられている。だから強くうなずいて応えた。「進もう!!」


 青年の想いを受け取った僕らは前後で少女を護るように挟んで、猛り狂う崩壊の中をただ駆け抜けていく。


(どうか僕らに……!)


 祈りが身体中に木霊する。

 断末魔の絶叫が聞えた気がした。ザザザザという異質な激音も。ついに、あの赤い津波が丘を駈けのぼり洞窟へ侵入してきたのだ。

 僕らの出口はすぐそこだ。

 光が溢れてくる。


(僕らに……奇跡を――!)


 直後、耳の後ろで、柔らかなものを殴ったようなドンッという音と、小さな悲鳴がした。


 思わず振りかえった僕の胸に、少女の小さな身体が飛びこんでくる。


 その向こうでは両手を突き出した女の子の姿がゆっくりと遠ざかり、少女と彼女の間に大きな崩落がスローモーションで降りそそいでいった。


 幼い身体を受けとめながら、この瞳いっぱいに僕は彼女の最期を吸いこむ。

 彼女は瓦礫に別たれるその刹那の永遠の中で、微かな哀しみを瞳から追いはらうと、一点の曇りもない満ち足りた微笑みを浮かべた。


 僕と少女はそのまま倒れこむようにしてこの身を光の先へと投げだした。


 途方もない崩壊の声が最後の咆哮をあげ、それは短い余韻を震わせ、そして、僕らが顔を上げたときにはもう……水を打ったような静寂だけが残っていた。


 地震は止み……洞窟は完全に塞がっていた。一分の隙間すらもない。


 分かっている。

 “この場所”を護ったのだ。


 全てを洗い流してしまうあの赤い津波がここまで来ないように、この世界の意思が遮断して隔絶したのだ。彼女の命と一緒に……。



「お兄さん……」

 少女が恐る恐る手を伸ばして僕の頬に触れた。


 僕は、あのときの少年のように努力をする。

「いいんだよ。これで、よかったんだ……」

 そう、彼女は……僕らはこうするしかなかった。心からそう思っている。本当に心から。

 洞窟に一歩足を踏み入れて全てを理解したあの瞬間に、青年も、彼女も、覚悟を決めていたはずだ。そして僕も。


 なのに……堪えきれない。


 痛む胸で笑顔を浮かべるのが、こんなに辛かったなんて。


 少女の腕をそっとつかんで、僕の頬から剥がした。

 彼女の手のひらは濡れて輝いていた。


「さぁ、行こう。始まりが待っている」


 顔を上げ、眼差しを延ばした。


 そこにあるのは一面の仄赤く柔らかな壁。

 ここはさほど広くない、ほぼ球状の空間だった。

 そして中心にはとても大きな器があった。透き通った、半球体の深い器。

 地面は踏みだすごとに浅く沈み、手を繋いで進む僕らを慈しんでくれているようだった。

 ようやく辿りついた。

 ついに、この美しい“器”に辿りつくことが出来たんだ。


 僕は彼女の膝の裏に腕を差しいれると抱きあげる。

「さぁ……あとは君だけで行くんだ」


「え……」

 少女の表情が強張る。

「お兄さんは……いっしょに行けないの……?」

 無垢なその瞳に淋しさの光がにじみだす。


「行けないんだよ。君と僕は……違いすぎるから」

 きっと、彼女となら共に行けたのだろう。僕らは確かに何かを共有していたから。


「それなら……それならお兄さんが行って! わたしじゃなくて…… わたしなんて……みんなに守ってもらっただけで……」


「だからこそ、君であるべきなんだ」


 少女は困惑して言葉を失う。


「……あの女の人の、あの男の人の、彼女の、そして僕の、皆の想いを繋いできた君が……この先へ行くべきなんだ」


 そして僕は細い身体を器の中にそっと下ろした。

 触れる器は柔らかく、しかし弾力があって頼もしかった。


 彼女をすっぽりと受け容れて、全体が少しだけ揺れた。それは喜びに見えた。


 僕はゆっくりと後ろへ下がっていく。


 彼女はその膜に両手をつけて一生懸命に僕を見つめている。


 やがて、器はひとりでにその縁を伸ばしてゆく。

 少女の頭上へ、彼女を包みこむように。守るように……。

 完全な球になり、少女が僕に向かって口を動かしたが声は聴こえてこなかった。


 僕は足元に冷たさを感じた。

 閉鎖されたこの空間の天井から、壁から、地面から、その水がにじみ出てくる。

 みるみる上がっていく嵩。

 あっという間に膝が浸かり、腰が浸かり、胸が浸かる。とても心地好い冷たさだった。


 球体の中にもそれは入りこみ、満たされていく。彼女はすでに頭の先まで浸かっていた。透明で穏やかなこの水に。


 僕もまた全身が包まれる。

 浮力の中でゆっくりと漂いながら、彼女へと近づく。


 薄い膜越しに僕らは両手を合わせた。

 小さな感触が淡く伝わる。


 彼女の唇が丁寧にうごいた。


 僕はゆっくりうなずいた。


 ちゃんと伝わったよ。

 それは僕に、守ってくれた三人に、そして生きようとした全ての人に届けたい言葉なんだね。

 いつか君が、新しい光の中で、もう一度その言葉を……その想いを全てに抱けますように。


 僕の身体は溶けて消えていく。

 僕は微笑んでいる。

 きっと“彼女”のように笑えているだろう。

 こんなにも満ち足りているのだから。


 僕らは奇跡を起こせたのだから。

 

 

 

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