第3話 “進め”

 

 このひらけた大地を歩いているのは僕ら六人だけではなかった。

 いくつかのグループが……あるいは個人が……互いに声も届きそうにないほど離れているけれど、ふらふらと歩を進めていた。


「こんなに……減ってしまったんですね」

 隣で女の子がぼそりと零す。深く沈んだその声が孕んでいるのはたぶん、無力感だろう。いま僕の胸を満たしているのもそれだから。

 まさに見る影もない……。

 地平を目指せ、と歩き始めたときには、何万、何十万、いや恐らくもっと……とても数えられないほどの人達がいたのに。

 ここに至ってこうして目に映る人々は、合わせて百人くらいは居るのだろうか?

 “見る影もない”のは全体の姿だけではなく、一人一人の様子もまた同様だった。

 明らかに疲弊しきっているのがこれほど遠目でも見てとれる。

 うつむき、背筋は歪み、歩調はなにか引きずっているかのように重々しい。数人が固まっていても言葉交わすそぶりも表れない。

 僕らだって、向こうから同じように見えているだろう。

 


「……暑い…な……ハァ…… 大丈夫かい……?」

 どれくらい歩き続けたか、久しぶりに青年の声が聴こえて僕は後ろを見た。

 彼は隣に目を落としている。その視線の先では少女が深くうつむいたまま応えない。細い脚がよれよれと斜めに踏み出し、今にも自分の脚につまずいて倒れそうだ。

 青年は彼女を止まらせると、背中を向けて膝を折った。

「おぶってやるから、身体をあずけて」

 九死に一生を得て以来ここまで気丈に歩いてきた少女だったが、もう心底限界なのだろう……倒れこむように彼の背中へ抱きついた。

 小さく開きっぱなしの口からは熱っぽい吐息が目に見える気がした。


 青年が立ちあがるのを待って僕らも歩みを再開する。

 しかし、彼が思わず口にしたように、世界の温度は耐えがたいほど上昇していた。

 赤い大地はゆらゆらと歪み、足の裏にも攻撃的な熱を伝えてくる。


「……だいじょうぶ?」

 僕は自分でも頼りないと思うような声で、隣を案じた。

「……はぁ……はぁ…… へいき…です……」

 口元に無理やり作った微笑み。その上の少し眠たげな目。どう見ても限界が近そうだった。

 でも休ませてあげられない。ここで座りこむことは命を諦めるのと同じだ。

「頑張ろう……。近づいている……。だから、頑張ろう……」

 いまの体力では無情なほどに遠く思える目標の場所。でも一歩踏み出すごとに、確かに近づいているはずだから。

 頑張ろう、という言葉を僕は何度もくりかえした。


 同じ大地をゆく小さなシルエットたちが、少しずつ、少しずつ減っていく。

 一人、また一人と、力尽きて地に溶け込んでいく。

 もう百人も存在しないだろう。

 けれど、いまやその少ない人々を数える気力すらない。

 隣の手を握り、右足を前へ、左足を前へ、その単純作業が自分にできる全てになっていた。


 ドサリ……という音が聴こえて、僕はうつむき加減のまま振りかえった。


 青年は少女を背負ったまま次の足を踏みだしていた。

 彼はあごを小さくしゃくり、僕に前を向かせる。


 音の主はあのお姉さんだった。


 倒れた彼女の横で少年が両膝をつく。

「起きて……ください……。頑張って…ください……」

 力ない声をかけながら彼の手は彼女の肩をゆする。


 僕らはそばに寄ると足を止めたが、三人とも屈みこめずに見守った。腰を落とせば二度と立ちあがれなくなりそうな気がした。


 少年は同じ二言を二度、三度、投げかけている。

 彼を見上げた彼女は小さく口を動かした。

「ごめんね……もう……」

 静かに目を閉じる。その身体はまだ、細い呼吸を続けているようだった。

 少年は僕らを見ると弱々しく笑った。

「ボクは……ボクは彼女の回復を待ちます…から…… 先に……行ってください」


 ……言葉が出ない。何て言えばいいのか分からない。

 僕の肩に女の子の額が触れる。

 彼女が隠そうとした覚悟が一筋、腕を伝うのを感じた。


 青年が無言のまま四人を追い越して、一歩一歩前へ踏みだしていく。彼の背中の上で少女は虫の息を紡いでいる。


「さぁ……あなたたちも……行ってください……」

 少年はもう一度、笑う努力をした。


 僕は微かにあごを引いて、それから顔を上げると女の子の手を引いた。


 “進め”


 ひと踏みごとに、頭の中で唱えて。


「感謝してます……」


 背後で消え入るようにつぶやかれた言葉。

 僕は振りかえらなかった。



 それからどれくらい歩き続けただろう?

 ついに……ついに地平線は地平線でなくなった。


 行く末に立ちはだかるようにそびえる目標の丘は今までのそれとは明らかに違った。

 登りつめるその場所に一つの洞穴が口をあけて待っているのが、まだ幾分あるこの距離からでも視認できた。


「……あの…奥を目指せば……いいんだな?」

 少女を背負い息も絶え絶えに、青年は僕らの背中へ確認の言葉を投げかけてきた。


 丘の裾まであとひと踏ん張りだ。

 遠い周囲からも生き残った人達が少しずつ……二十人ほどだろうか……同じ目標へと力を振りしぼって集ってくるのが見えた。


「ええ、頑張りま……」背後の青年へ振りかえった僕は、返答の途中で息を呑んだ。隣歩く女の子からも同じような気配がもれる。


「……? どうした……?」

 怪訝な表情で彼もまた背後を見やり、そして

「なんだあれは……」

 声を掠れさせた。


 皆が決死の勇で踏破してきたあの大地の彼方から、横一文字の真っ赤な何かが迫ってくる。

 それは途中の丘に乗りあげたり、もはや点にしか見えない黒い穴を消したり、すべてを塗り潰してこちらへ押し寄せてくる。


「紅い……波……」

 左の耳に彼女のつぶやきが触れていく。

 まさにそう……大地を覆い尽くすあれは、真紅の大津波だ―――。


「い、急いで……走って……走って!!」


 僕は叫んだ。まだこんな大声が出せるとは思わなかった。

 手を繋ぎなおした僕と彼女。

 少女を一度背負いなおした青年。

 ほとんど残っていない体力を一気に使い切らんと駆けだした三人。

 さっきはすぐそこまで近づけたように感じたあの丘が、今度はあまりにも遠く感じる。


 視線をひるがえせば広大な波の壁がみるみる距離を縮めてくる。

 僕らが回避した最後の丘が越えられた。耳の奥に「あとあの場所までほとんど平らですよ!」という明るい声が甦る。

 間違いなく呑み込まれてしまうであろう彼と彼女がせめて……すでに安らかな眠りの中にいることを願った。いや、彼らだけではなく、力尽きて地面を抱いたすべての人達がそうであってほしい。


「前を…! 向け……!」


 青年が喉を裂くような声で僕に怒鳴った。


「生きてるんだッ……! 前を……向け!!」


 その瞬間、僕の胸の奥から強烈な熱がこみあげた。

 うなずくことも、言葉を返すこともできずに、ただ前を向いた。歯を食いしばった。


 隣を走る彼女が足をもつれさせて派手に転んだ。

 僕は手を離さずに必死で踏ん張って、すぐに彼女を引き起こした。

 少し引きずってしまった彼女の口からは、しかし苦痛の欠片も飛びださなかった。歯を食いしばっているのは僕だけじゃない。

 一瞬視線を重ねた僕らの瞳からは……止め処なく涙があふれていた。

 ためらわずに前へと足を踏みだしながら、微かにうなずき合って目指す場所へ顔を向けると力いっぱい睨んだ。


 無我夢中の末ついに丘の裾に到達し、ここにきて最悪の難所といえる上り坂を僕らは踏みしめる。

 もう走れてなんていない。

 でもこれでも全力で疾走しているつもりだった。

 恐ろしい轟きが背中を圧してくる。あの津波はいよいよ牙をむいてきているだろう。


 僕らより先にこの丘へ辿り着いた見知らぬ人影が一つだけ見えていた。

 しかし心強く感じていたその姿が、見上げる視界の中でうつ伏せに倒れた。膝からではなく、顔面で坂を殴るように。

 やがてその人の傍らまで歩を進めた僕と彼女は、できるなら助け起こして共に行きたい……と抱いた願いを諦めた。せっかくここまで来たのにその人の命は見開かれた二つの瞳から逃げてしまっていた。

 波の轟音は膨張し、足の裏からは細かく激しい震動が上りはじめる。


「足を…止めるなあッ……」


 青年の叱咤が突き上げてくる。


「前へ……前へ……」

「前へ……前へ……!」

 僕らは共につぶやきながら、襲い来る恐怖を決して振りかえらずに登り続けた。


 そしてとうとう、洞穴の入口に到った―――。

 

 

 

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