第68話 大賢虎変 たいけんこへん

 サクラは、彩矢子の研究室を出て応接室でコーヒーを飲んでいた。

「キリストか…ナミさんにマリアになれと言うのか」

 彩矢子は何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、思い付きで行動しているようにも思える。

 NOAの名を持つ連中は、どこか人間として欠落しているように思う。

 すべてが他人事のような、危機感や焦りが無く、全てがどうでもいいような無責任さに話していると、イラつくことがある。

 最近は亜紀人にも、その傾向を感じる。

 旧約聖書のノアは、どんな気持ちで船に乗っていたのだろう。

 沈む世界をどう見ていたのか、あの一族は神に選ばれた時点で生存を約束されていた。

 沈む街、そこに暮らしていた人までは見えなかったのだろうか。

 自分たちの言うことを信じなかったから、当然と海に浮かんでいたのだろうか。


 箱舟とは未来を保証された切符だ。

 NOAという誰かに選ばれた人間達は何を保障され、それゆえに、ああも達観して他人を見ているのだろうか。

 それほどの保障ってなに?


 いや、それほどの保証を約束できる人とは誰?


 ヒト…なのか?


 ゾクリと背中が寒くなり、腕に鳥肌がたつ。

 怖い妄想を打ち消す様に、少し冷めたコーヒーを喉に流し込む。

「NOAか…」

 彼らの箱舟は、誰を…あるいは何を未来へ運ぶのだろう。


 少なくても自分ではない。

 この世界が再び沈むのなら、自分は箱舟には乗れない側の人間だ。


 キリスト…ノア…そしてマリア。

 想像上の人物だと思っていた、その名を日常的に聞くことになろうとは思わなかった。

 彩矢子は、何になろうとしているのだろう?

 どの視点で、この世界を視ているのだろう?


 それを考えると、彩矢子という存在が恐ろしいと思う。

 子どものような好奇心の赴くままに、他人を動かし、世界を眺めている。

 まるで、シミュレーションゲームの箱庭を眺めているように、この世界を視ている。

 あの目が怖い。

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