ずっと待ってるから
顔見知りになってしまったその野良猫に、名前をつけたのは気まぐれだった。だが餌はやっていない。いつか襲われた傷が未だ、腹に残っているからだ。
餌をやった猫だった。パンをやると、愛くるしい音を立てて手に頭を擦り付けた。だが、二度目に会った日に俺はパンを持っていなくて、猫は俺に飛びかかったのだ。餌を奪おうとするというより、俺自身をすら抉り取っていくような動きだった。その傷を受けたのはまだ幼いころ。柔い心で感じた、ひりつくように冷たい恐怖は、傷を見るたび湧き上がってくる。猫は俺が殴り殺した。
野生に餌を与えてはならない。自分はそれほど強くないから。これからも終わった世界で生きていかなくてはならない獣を、ずっと守ってやれるほどの力は持っていないから。その教訓は痣となって俺に刻みついたのだが、いやはや。猫をもばりばり食うと噂のグループの縄張りから、離してやるくらいは過干渉に含まれないのではないだろうか、と言い訳をする。不思議に茶と白と橙の入り混じった色合いで、バサバサと乾いた油が背中に貼りついた猫だった。
暴れるそいつを摘んで運ぶのは骨が折れた。俺は動物に好かれない。手を離せばすぐどこぞに駆け込んで行ってしまった。もう会うことはないだろう、と猫の毛を払った次の日にご対面したときには、自分が大間抜けに思えた。
「あんたなんでそんなところにいるんだ」
路地の入り口に立つ様はまるで番人だ。賢いとは言えない。心ない人間なら蹴飛ばす。
これ以上触れ合うのは目立つ。さてどうしてやったものか。
「お帰りかよ」
ところが猫は俺の姿を認めるなり踵を返してすたこら去ってしまった。脱兎のごとく、だ。脱猫か?
次の日もまた次の日も。俺がその道を通りがかると猫が路地で待ち構えていて、そして去る。よくよく見れば、背中に浮かび上がる茶と白の風合いは柔らかい。手入れをすればさぞや綺麗な毛並みになるのだろうなと思った。それで俺はこっそりとそいつをティーと呼んだのだ。
俺を警戒していたのだろう。突然近付いて、別の場所に無理やり連れ去った人間を見張っていたのだ。だから、その危ない人間から、子供たちを、守っていたのだろう。そう思っていた。
ある日、ティーは俺から逃げなかった。近付くと、まるで先導するように踵を返した。その先にいたのは三匹の子猫で、もうほとんど死にかけていた。風邪に見えた。
「ティー」呼んだのは初めてだった。ティーは当然のように俺を見た。「あんた知ってたのか」
俺が安全な場所にあんたを運んだのだと知っていたのか。それで連れてきたのか。ならごめん。本当にごめん。
俺はこいつらを救けられない。
ティーと俺の前で子猫は弱って行き、やがて死んだ。今から思えば、もう死ぬ彼らにミルクのひとつ用立ててやればよかったのだ。
でもそれで救われるのはきっと俺だけだと思った。
ティー、と呼んだ声は震えていたのかもしれない。一度は俺の声に応えた猫は、こちらを気にするそぶりも見せず立ち去った。
あいつが俺のつけた名に甘んじたのは、俺を信じようとしたと、そういうことだったのだろう。
俺は応えられなかった。信じれば弱さが出る。自らの強さのためあいつは俺の元から去っていった。
あの猫と会うことは二度となくって、例の路地には汚い喧騒だけが横たわっている。あれから俺はまた、同じことを繰り返そうとしているのかもしれない。名を受け取ってくれた雪白をそのことで苦しませるのかもしれない。ただ、それでも、次は助けを求める子猫を前に突っ立っていることはしないから、次は助けを求めるあんたに応えてみせるから、ティー。
もう一度名前を呼ばせてくれ。
俺はずっと待ってるから。
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