地下室の祝福

 弱者は強者に支配されるものだ、と言う通説がある。弱者はことごとく淘汰されるべきだ、という常識がある。人は利用し利用され生きていく生き物だ、という真理がある。だけれども、それが真実だとわかっていても男は——彼をただ愛したかった。


 男の朝は早い。真っ暗な地下室の中だが、夜明けとともに目覚め、濡らしたタオルで顔を拭く。伸ばしっぱなしの髭はざり、と引っかかった。それから、一食分の配給を三等分し、三分の一を時間をかけて食べた。勿論配給は、多くはないが三食分用意されている。だが、彼はいつももらった三食分のうち二食分を一日取って置き、腐らせてしまうのだった。それは、男の待つ息子のために。息子がもしこの家に帰って来た時に、たくさん食べ物を食べられるように……そこまで考えて、男は残り一欠片だったパンを取り落とした。


 帰ってくる、はずがない。


 弱者は強者に支配されるものだ、と言う通説がある。弱者はことごとく淘汰されるべきだ、という常識がある。人は利用し利用され生きていく生き物だ、という真理がある。その真実のままに、男は弱者を、息子を蹂躙した。虐待などという言葉では生ぬるい。詰り、食事を与えず、殴り、蹴り、監禁し、終には性的に手を出した。男は離れていった妻だった女によく似た息子を許せなかったのだ。彼のせいで彼女が出ていったのだと理不尽な怒りを息子にぶつけ、最後には倒錯し、屈折した愛憎を息子に向けた。逃げていった息子は、もし生きていればさぞかし男を憎んでいるだろう。ああ……生きていれば。男は顔を両の手で覆う。息子は自分に監禁されていたせいで、生きる術を何も知らない。息子の骸を想像すると足元に大きな穴が空くようだった。今生きている理由の全てを失うような。

 息子が逃げた瞬間、男は全ての間違いを悟った。そして残ったのは、拭うには深すぎる後悔。そして一つの気付き。——息子を本当は愛したかったこと。

 それ以来、男はずっと息子を探している。もしかしたらとありえない希望を持って、待ちもしているのだ。この五年間、男の努力ははしにもかかっていないが。

 男はパンを拾い、口に入れる。咀嚼、嚥下。それは生き延びるためだけのただの作業だった。口に付いたパンくずを拭い立ち上がると、外に繋がるハッチを開け放った。瞬間吹き込んでくる、身を凍らすような風も何とも思わなかった。淀んだ空気を外に追い出し、そして隅々まで掃除をする。顔を洗うのにさえ惜しんだ地下水をたっぷり使った。

 帰ってくるはずがない。でも、もしかしたら、もしかしたら。

 まだ女が出て行く前、男は息子と妻を溺愛し、この時代には珍しいほど平和な家庭を築いていた。女に関してはもうどうも思わない。捨てられたのは自分だったのだろうなと、受け入れている。だがあの頃の息子のことを思い出すと、普段ピクリとも動かない男の口角はすっと上がる。中性的な顔立ちだったので、小さい頃は益々女の子のようだった。男もどちらかというと愛らしい服を好んで買い与えていたのだ。似合ってしまうのだから仕方ない。息子は愛くるしかった。何にでも興味を持ち、くるくると表情を変える。男にもよく懐いていた。「おとうさん」と舌ったらずに呼ぶ声をもう思い出せはしないが。親馬鹿なことを言えば、利発で人の感情の機微に聡い子だったように男は思う。そう、本当にいい子だった。……それを壊してしまったのは自分だが。

 男は掃除を終えると、テーブルを挟んで二つ用意している椅子のうちの一つに座り、紙を取り出すと、そこに何か書きつけた。そして、大枚をはたいて買った砂糖菓子を上に置く。


(さあ、今日もあの子を探しに行こう。願わくば、あの子が健康に、幸せでありますように。……もしあの子に会えたら、あの子はどうするだろう。逃げるだろうか。詰るだろうか。俺を、殺すだろうか。それでいい。それでいいから、一言だけ。どうか、愛していると伝えられますように)


 そして男は地下室を出る傍ら、そっと呟いた。


「誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」


 ✴︎


 深夜。

 茜は人の気配を感じて顔を上げた。リビングに入ってきたのは、近頃髪を切ってすっかり男らしくなった樒である。現在怪我の治療中である彼は、傷にさわらないだぼっとした服を着ていた。茜は整理していた書類をとんとん、と整えると樒に向き合う。

「樒か。こんな時間にどうした? 傷が痛むか。治療するから寝てろ」

「こんな時間に起きてる茜くんに言われたくないよ。また徹夜? ボク君の身体が心配。……怪我がどうってわけじゃないよ。夢を見ただけ」

 呆れたように肩を竦めさせた樒は、なんだかふわふわしていて、まだ夢の中にいるようだった。

「夢……? 悪夢か。白湯を作る、待ってろ」

 この班長は世話焼きが過ぎる、と樒はまた呆れた。だがその気遣いにほこほこと胸が暖まる自分もいて。樒は出された白湯を吹いて飲みながら、悪夢じゃないよ、と言った。なんだそうかと解ける顔は優しい。

「大きい手に頭を撫でられて、それから手を繋ぐ夢。娼婦やってた時の客の夢かな? とも思ったんだけどね」

 それから樒は何故か大いに恥じ入った。

「家族に対する扱い、みたいな仕草だったからさ。そしたら目が覚めて。茜くんに会いたくなった」

「光栄だね」

 大人びた笑いを茜は返す。

「それ飲んだらもう一度寝ろよ。あんたの今の仕事は休むことだぜ。俺はあんたに生きててほしいし、いてくれてよかったって思ってるからな。俺のためで悪い」

「それ茜くんのためかなあ?」

 口を尖らせ、樒は白湯をくいっと干す。そして、首を傾げた。


「あんな記憶、ボクの中にあったのかなあ……?」


 ✴︎


 1月24日 樒が生まれた日

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