狼青年と狐の話

@shirenn333

狼青年




 異世界の存在を確認したというニュースで、今年の元日、世界に激震が走った。

 僕は正月特番すべてをぶっ飛ばしたそのニュースを見て、これだ! と思わず立ち上がって叫んでいた。一緒にこたつに入ってお雑煮を食べていた女子は「何だ!」と胡乱な目を向けて、自分のお雑煮を宝物のように抱えていた。

「卒業研究のテーマはこれだっ! これにする!」

 これ以上の名案があろうか、いやない。

 何しろ異世界の研究なんてほぼ未着手であり、つまるところ間違っていても指摘される確率が低いのである。

 そんな打算に満ちた僕の論説を聞いた彼女は「浅はかなやつ」と呟いてお雑煮をすすっていた。

 以上が実家に帰らず、大学のゼミ室で年明けを過ごした僕らの会話だ。

 僕らは情報処理系のゼミに所属し、パソコンの関係で与えられた部屋を半ば私物化していた。

 これが、今から九か月前のことである。

 僕は、最後に笑うのは自分だと信じて疑わなかったのである。



 さて、ネットには腐るほど異世界への行き方が書いてある。タイムリープの方法と並んで書いてあるあたり、現代社会は疲れている。誰も彼もが後悔三昧だ。僕は天才なので後悔したことなど一度もないが、タイムリープや異世界の浪漫に抗えるほど大人ではないので、そのことを知っていた。

 九か月間、僕はあらゆる方法を試した。

 毎夜毎夜、ソファにジャンプしながら「ビックリするほどファブリーズ!」と叫んだし、エレベーターに一日中乗って奇跡を待ったし、赤い色の紙を枕の下に入れて明晰夢を頑張って見ようと努力しては失敗してきた。

 そんな僕を見て、彼女は「もう諦めたら?」「やめとけって」「いやほんと顔色悪いよ?」などと心配し、果てには「何もしないでも共同研究者にしたげるから異世界とかやめない?」と提案してきた。

 コーヒーを沸かしながらされた提案を、僕は当然蹴った。

「お断りだ、僕はおまえの手だけは借りないと固く決めている」

「はい、これ来期の簡単な授業表」

「やっほーい! ありがとう!」

「手、借りてるじゃん……。てか、まだ単位いるの?」

 彼女は肩を竦めて呆れてみせた。実に腹立たしいことこの上ない。ちょっとばかし僕より成績がいいからっていい気になりやがって!

「今に見てろよ、僕は異世界の研究で一番になるんだ!」

 僕らの大学は卒業論文を発表する機会を与えられる。そこで査定を受け、ダメならば再度練り直し、合格ならばそこから詰めていく。ちなみに発表しないという選択肢はない。噂によると発表しなかった奴は全員留年しているらしい。

「てかさ、」

 と彼女はコーヒーを片手に椅子に座る。

「就職も決まってないのにそれでいいの?」

「…………知ってるか? 卒業論文の出来次第では研究機関に行ける可能性も――」

「宝くじ買って当たったことある? わたしはない」

「それはきみが凡人だからだろ。僕は天才だぜ? 宝くじとは違う実力勝負で負けるもんか」

「あー、はいはい。諦めるならいつでも言ってね、共同研究者にしたげるから」

 呆れ果てたのか、彼女はコーヒーを片手にスマホを弄り始めた。大方論文でも読んでいるんだろう、真面目な奴め。

 対抗するように僕もネットを彷徨い、ふと『異世界に行く方法』と書かれたスレを見つけた。

 タップしてみると、やけに事細かく行動が記されていた。全部で百の工程を経て、異世界に辿り着けるらしい。

 確かめるのに半日はかかりそうなそれを、僕は試すことにした。

「明日、僕が来なかったら異世界に行ったと思ってくれ」

「はいはい、行けるといいね」

 欠片も行けると思っていなそうな返事が僕の心に火をつける。

「僕が異世界に行ったらおまえを共同研究者にしてやるよ」

「わー、嬉しい―、超期待してるー」

 期待のきの字もなさそうな軽い返事だった。

「マジで見てろよ、絶対に行ってやるからな!」

 そう僕が喚いた瞬間、教室のドアが開いてゼミの主である准教授が現れた。彼は僕と彼女を見比べ、数秒考えて、僕だけに、

「色々と大丈夫?」

 と失礼極まることを言ってきたのであった。

「順風満帆に決まってるじゃないすか! 就活は最終面接、研究はすでに成果をまとめるだけです! いや本当ですよ!?」

 と僕は当然の如く嘘八百を並べ立て、あははははと空寒い笑い声を立てながら鞄を引っ掴んで逃げた。

 准教授はそんな僕の背中に、

「あんまり嘘ばかりはよくないぞー」

 などとふざけたことを抜かすのであった。



 家の中で、僕は百個の工程を一つ一つ確かめながら行った。二十個目くらいで失敗すると最初に戻っていたのだが、順調だと思ったとき、僕は八十八個目の工程でしくじった。右手を上げるはずが左手をあげたのだ。

 本来、初めに戻るべきだったが、どうせなら一回やり抜いてみようと思った。

 それが、功を奏した。

 最後の工程である、目を閉じて「うっぴょっぴょい!」と叫ぶをやり遂げた瞬間、風を感じたのだ。

 目を開けば、そこは一面の荒野だった。

「……お、おおおお!」

 思わず雄たけびの一つも上げるのが人情である。しかし慌てて口を押さえて声を遮る。この声で獰猛なモンスターが出てくるかもしれないと警戒したのだ。我ながらクレバーな判断である。他の奴らにはきっとできない判断だ。

 上機嫌になり探索を始める。まずはサンプルとして地表を瓶に詰めて歩き始める。

 未知の世界にワクワクして彷徨うこと二十分。

 僕はもう嫌になっていた。

 だって、どこまでも荒野が続いているのだ。

 何があってもいいようにと水筒やおにぎりは持っていたが、街の一つもないし、炎天下で汗を掻くし、生き物はいないしで心が折れそうだった。

 それでも折れなかったのは、ちっぽけな意地があったからだ。

 それから歩くこと四十分、足が棒になって、水筒も空っぽになったとき、僕はやっと緑を見つけた。

 砂漠にあるオアシスを見つけた気分だった。砂漠に行ったことなんてないし、鳥取砂丘にすら行ったこともないけど、きっとオアシスを見つけた旅人はこんな気持ちなんだろうと思った。

 ……いや、僕はまさしくその状況なのか?

 暑さで相当頭がやられていることは確かだった。

 ドーパミンも溢れるくらい出ているようで、もう限界だと思っていた足が走りだし、緑を一目散に目指す。

 十分ほど走り、辿り着くなり木の根もとで寝転がる。

 荒野の乾いた地面とは違い、微かに潤った地面は冷たくて気持ちが良かった。

「あ、採取しないと……」

 思い出して土を採取する。少し掘るとミミズが顔を出した。

「……ミミズだ」

 異世界と言っても、こちらの世界にいるのとほとんど変わらなそうだった。

「見逃してやるか」

 研究価値なんてなさそうなので、僕は見送った。決してミミズが触れなかったとかじゃない。いや本当に、本当だってば。

 森にはさすがに生き物がいるらしく、木の幹を登るアリや、木の上から見下ろしてくる蛇などが散見された。僕は両方から距離を取った。アリが毒持ってたらまずいし、蛇も毒持っていたらまずいし、決して僕がヘタレとかじゃないと思う。

 しばらく歩くと、森が途切れて建物が見えた。

 コンクリート造りの真っ白な家が街並みを作っている。窓にガラスはなく、ただ四角く切り取られているだけである。

 どの家にも人の気配はない。

 街を真っ直ぐ行くと、歴史的建造物が発見できた。

 大きな階段があり、ビルの四回分くらいはありそうな大きな柱に支えられ、堂々と立っている建造物。

 つまり、神殿である。

 神殿だと思う。

「勝手に入っても祟られないよな……」

 若干不安もあったが、今のところ成果は土のみである。これでは何のために異世界に来たのか分からない。それに神殿ならば壁画とか書物とか財宝とか、とにかく何らかの有意義なものがあるだろう。

 そう思って入った僕を出迎えたのは、ちっぽけな祭壇だった。

 入り口にいきなり祭壇があったのである。祭壇の上には珠が置いてあった。大きさは手のひらくらいで、奇妙なことに七色に輝いている。周囲にも七色に輝く石の破片があり、砕けた珠のようだった。拾って破片を瓶に入れておく。

 そして、本命である珠に、これはきっと価値のあるものに違いない、と触れてみる。

 その瞬間、僕は猛烈にネガティブな感情に襲われた。涙が無性に流れたし、謝りたいと思ったし、死にたいと思ったし、このまま朽ち果てるのも悪くないんじゃないかと思った。凡人の僕なんて死んでも誰も困りゃしないに決まっていると思った。嘘ばかりの僕なんて。ああそうだ、家族だって誰も僕を望んでいない。優秀な姉がいる。優秀な妹がいる。僕はそれがコンプレックスで、だから正月にすら実家に帰れなくて――、

 慌てて珠から手を離す。心臓がバクバクと鳴っていて、流れた涙はかなり長い間止まらなかった。ポケットから軍手を取り出し、軍手越しに触ってみる。今度は何も起こらなかった。

「……とりあえず、これも持って帰るか」

 帰り方は分かっている。

 あの百個の工程をするだけでいいと書いてあった。

 僕は百個の工程を初めから行い、八十八個目でわざと間違って、元の世界へ帰った。



 そんなことがあって、二日後の昼間。

 僕はゼミ室の中で、珠をじっと見つめていた。怪しげな七色の光を放つ石は、けれど触れなければ不思議な力の一つも発揮しないのであった。

「…………」

 試しに触れてみようという気はまるで起きない。

 変化の一つもない珠の観察に飽きてトイレへ向かう。その途中、准教授とすれ違って「ちゃんとしてる?」と心配された。「ええもちろんもちろん」と返すと、准教授は殊更不安そうに顔を顰めるのだった。

「今年からはネット中継をするらしいからね、いつもみたいにそれっぽいデタラメ並べない様に」

 僕のレポートについての苦言だった。一年の頃はすべてそれっぽいことを並べ立てたら、審査が適当だったのか全試験をパスしてしまったことがある。それに味を占めて、勉強せずに適当なレポートを書いていたら、いつの間にか先生方にばれてしまった。

 それ以来、僕の評価は地を這う体たらくである。

「分かってますよ」

「ただでさえ、きみは印象良くないんだから」

 ぐうの音も出ない説教を振り切ってトイレをし、手を洗ってゼミ室に戻る。

 教室の中には、いつ来たのかサラダとカップラーメンをもしゃもしゃ食べている彼女がいた。

「来てたのか」

「まあねえ。で、異世界には行けた?」

 あからさまなからかい口調にムッとしながら、鞄に入れておいた瓶を取り出す。

「ああ、行けたよ」

「……っ、え、ほ、ほんとに!?」

「ああ、これが異世界の土だ」

 並べた二つの土を見て、彼女は愉快そうに笑った。笑い転げた。

「ただの土じゃん!」

 とそりゃあもう腹がよじれるくらい笑ってみせた。

 実を言うと、本当にこれはただの土だった。異世界で取ったにも関わらず、別の成分なんてこれっぱかしも発見されなかったのである。

「本当に異世界の土なんだよ! で、これは異世界で拾った珠だ!」

 僕は半ばムキになっていたのだと思う。

 確かめてみろよ、と石を彼女に向けて放り投げた。運動神経が悪くない彼女は、難なくそれをキャッチして。

 光が、教室中を満たした。

「あ、」

 と、間抜けな声がする。

 光が晴れる。潰れた目が正常に戻っていく。ぼんやりと、彼女の輪郭を捉え始める。そして僕は首を傾げた。

 耳と尻尾が生えているように見えたのだ。

 焦点が徐々に合ってきて、それが見間違いではないことがはっきりする。

 彼女は狐の耳と尻尾を持っていた。

 涙を溜め、顔を真っ赤にして、彼女は俯いた。かける言葉が見つからず、動揺さめやらぬ僕の顔に、カップラーメンが飛んできた。

 それは熱かったし、痛かったけれど。

「――っ、」

 声にならない声をあげて、彼女は教室から逃げ出す。その頭には狐の耳はなかったし、お尻にも尻尾なんて生えていなかった。ただ、真っ赤な耳と涙はそのままで、それだけが夢ではないと教えていた。

 だから僕は、カップラーメンをぶつけられたことより。

 泣かせてしまった、胸の痛みの方がよほど、辛かった。



 彼女が僕の何に興味を持ったのかは知らない。

 ただ、グループワークで一緒の班になった僕を、彼女はいたく気に入ったらしかった。

 大体毎日顔を合わせ、同じ授業を受けて、一緒のゼミに入って。

 僕らは友人だったと思う。

 いや、僕にとっては唯一の友人だった。

 喧嘩はしたことがある。だけど泣かせたことはない。

 あれから二か月、彼女は僕の前に姿を現さない。

 准教授の話を聞くに、僕を避けているだけで学業に支障を来たすようなことはしていないらしかった。

 僕はあれから、珠を中心に据えて卒業論文を作っている。

 あれの正体はすぐに分かった。

 アルツハイマーの老人に触らせると嘘のように昔のことを話した。夢を諦めて疲れたサラリーマンに渡したら夢を語り出した。昔は明るく、今では不登校の学生は楽しそうに笑い始めた。僕が持てばネガティブになった。受け取った彼女は狐になった。

 きっとこれは、そういうものなのだ。

 本当の姿を暴く、そんな珠なのだ。

「…………」

 そして僕は、歴史的な大発見をなしてしまった。

 この世界には異世界人が紛れ込んでいる。この球を受け取った瞬間、耳が尖ったり、皮膚がごつごつしたり、空に浮かぶお面になったり、様々な変化をする人間がいた。

 異世界研究の第一人者、そんな肩書きが頭をちらつく。

 これを発表すれば、僕はきっとそう呼ばれるだろう。異世界に行く方法だって知っているのだ。間違いなく権威になれる。

 就職も出来ず、単位に足りないひーひー言っている僕が一転、最前線に立てるのだ。

 異世界研究の第一人者。

 輝かしい未来。

 僕は、研究を進めていった。



 そして来たる、発表の日。

 異世界をテーマにしたのは僕だけで、先生方の前評判は期待ほぼゼロだった。

 プログラムには彼女の名前も当然あった。なぜか二度も発表する予定だった。一度目は『魔女狩りについて』で、二度目は『VR空間における認識の歪みと矯正について』と書いてある。

 ……彼女の専攻はいったい何なんだ。

 いや、異世界を研究し出した僕も大概なんだけど。

 そんな疑問を持ちつつ、名前を呼ばれて壇上に上がる。学生は異世界に期待しているらしく、目を輝かせているのが結構いる。先生方はプログラムにある概略をざっと目で追って渋い顔をしていた。

 発表しようとしたとき、後ろの扉がゆっくり開いて、フードを被った彼女がやってきた。

 見ないうちに、随分と小さくなってしまったように思えた。

 彼女は後ろの方に座ると、祈るように手を合わせていた。

 僕の発表が始まる。

 初めはまるで興味なさそうだった先生方は、異世界に行く百の工程を見てため息を零し、異世界の土は検査してみたらただの土でしたという結果には嘲笑を漏らした。

 けれど。

 珠が出た瞬間から、少しずつ反応が変わった。

 珠の成分は分からなかった。何で出来ているのか、どうやって作られたのか、そのどちらもが謎に満ちている。そのことを示すデータを提示すると、先生方が少しずつ食いつき始めたのだ。

 この珠を持つと本当の姿が暴かれる。僕はそれを映像混じりに説明した。アルツハイマーの老人、偽証した詐欺師、ヅラを被っている先生。最後は笑いが生まれた。

 そして、次が本題の映像。

 珠を触った瞬間、人ならざる人になる映像。

 彼女はそれが流れた瞬間、唇を噛んで俯いた。

 これの真偽は後に精査されるだろう。僕の持っている珠を使い、一人でも変化する人間がいればQEDだ。

 僕は当然、珠の実物を見せびらかした。

 輝かしい未来。

 異世界研究者の第一人者。

 証明されれば、僕はそれを手に入れることが出来る。

「――以上が、私の研究です」

 あと少しで、手が届く。

 司会が先生方に質問を促す。手をあげたのはゼミの長である准教授だった。

「面白い研究だとは思いますが、具体的な裏付けが一切ありませんが、これから何か裏付けを取る予定はありますか?」

 想定された質問であり、好都合な質問だった。

「ええ、先生方にこの珠を持ってもらえば分かると思います」

 珠を先生方の前に置く。これが真だと分かればほぼ確定する。顔を見合わせ、代表者として准教授がそれに触れた。

 その瞬間、はっきり顔色が変わった。

「……他の先生方も」

 と、准教授は触れるように促した。誰もがハッとしてこの研究が真実であることを認めるような雰囲気があった。

「触りたい人がいればどうぞ」

 学生にも言うと、興味本位で触りに来たカップルが「私のこと好き?」「いやさほど」「死ね」と軽快なやり取りをしてぎゃーぎゃー喚いて帰って行った。それで何かに気づいたのか、男子二人組が触りに来て「おまえ三千円盗ったろ?」「ああ」というやり取りをして「返せおら!」と喧嘩していった。

「……まあこんな風に、この珠を触ると本当の姿が出ます。本音も出ます」

 予定外のハプニングだったが、悪くない展開だ。

 僕は珠を持って、ネガティブな気分に支配されながら壇上に戻る。

 輝かしい未来、異世界研究の第一人者、喉から手が出て渇望してやまない、凡人の僕には過ぎたもの。欲しいと願う。後は発表を終えるだけでいい。顔をあげる。パーカーのフードを被った彼女は、悲しげにまつげを伏せた。

 僕は大きく息を吸う。もう、全部終わらせる時間だ。

 輝かしい未来。

 異世界研究の第一人者。


「なんて、今までの話は全部嘘ですけどね!」


 ――そんなもん、知ったことか。

 時間が止まったように、誰もが呆気に取られて動かない。

「映像はすべて合成です。変な石拾ったからそれを利用して騙してやろうと思ったんですよ。見事に騙されてくださったようで、ええ、超楽しかったです! これこそが僕の卒業論文のテーマです! 人は価値観が崩れたらどうなるのか!」

 デタラメを並べろ。真実なんていらない。本当の僕はネガティブで、凡人で、輝かしい未来に憧れているんだとしても――。

「異世界が発見にも関わらず研究は進まない! そんな時に、異世界由来の珠が不思議な効力を発揮した! このシナリオをどれくらいの人間が信じるのかが僕のテーマでした!」

 そんなもんより、僕には大事なもんがある。

 それが僕の本当の気持ちだ。

 こんなネガティブを埋め尽くしてあまりある、本当の姿だ。

 初めに動いたのは学生だった。ふざけんな、と怒号が鳴り響く。びっくりして、僕は珠を落とした。遅れて先生方が騒ぎを止めに行くが、誰一人として僕に好意的な視線など送っていなかった。

「この研究を信じて、異世界人を探し出そうなんて馬鹿げたこと考えた人がいるなら反省するべきですよ! そんな連中は中世の魔女狩りから何も進歩しちゃいない!」

 ずっと、考えていた。

 この世界に異世界人が混じっていれば、人間はどうするのだろうと。

 きっとロクなことにならないだろうなと思った。きっと、彼女もそう思っていた。

「これはそんなアホどもへの警鐘だ」

 この研究を掘り起こそうとする人間なんて一人もいないだろう。

 もし掘り返されても、この研究に書いた異世界への行き方は百個のうち七割は真実で、三割は虚実だ。すべてのパターンを試そうとする狂人でもいなければ成功しない。

「その珠を寄越しなさい」

 と准教授が険しい顔をして要求してくる。

「いいですよ」と渡すふりをして地面に落とした。高い音がして珠が砕ける。破片は依然として七色に輝いていた。それを必死に掻き集める准教授を手伝わず、僕は教室を後にした。

 結局この日、僕の研究は当然ながら認められなかった。

 つまり、留年が決まった。

 しかも翌日、この件はネットニュースになり僕は一躍有名人になってしまった。

 一ヶ月もすると、あの珠の欠片は特別な成分など何もないことが発表され、一種の集団催眠だったのだろうと結論付けられ、僕はさらに世間からバッシングを受けた。



 しかし最後に笑うのは僕である。

 卒業研究さえすれば卒業できる僕は、ゼミ室にも居場所がなく、そりゃあ図書館に行くくらいしか選択肢はなかった。

 夏の、セミがうるさく鳴く日である。

 僕を見た学生は「狼青年……」「クレイジー先輩……」「大馬鹿先輩……」と陰口を叩いてくる。割りと聞こえる声量で。しかし僕は凡人に理解されなくても仕方ないと割り切っているので、机に突っ伏して「うぐぅ」と呟くだけで耐えられた。ちょっとテーブルが濡れたけれどそれはあれだ、うん。何だ。

 などと自分を騙くらかしていると、隣の椅子が引かれる音がして顔をあげる。

「や、先生に嫌われている不良学生」

 軽い挨拶をしてくるのは、彼女だった。

 僕も軽い挨拶を返す。

「よ、先生方に失望された将来有望な女子大生」

 お互いに傷口に塩を塗り込むような挨拶にもかからわず、僕らは笑った。

 今日は卒業論文のテーマを決めるために二人で集まる日だった。

 そう、彼女もまた留年しているのであった。

 何でも彼女は真っ赤な目をして発表を敵前逃亡、その後音信不通になり、卒業論文の単位を見事に落とし、決まっていた就職先にも迷惑をかけて先生方を失望させたのだそうだ。

「……あの、さ」

 不意に彼女が僕を見る。

「卒業論文、何で……ああしたの?」

 今まで、僕らはその話題を避けてきた。

 彼女が避けて来た理由は知らないが、僕が避けてきた理由は明白だった。

 僕は嘘つきで、まあ、それ相応にあれだったけれど、

「そりゃあきみが好きだからだ」

 このことに関してだけは、嘘を吐きたいとは思わなかったから。

 彼女は驚いたように目を丸くして、その瞳が少しずつ潤んで、頬が緩んで。

「ばっかじゃないの」

「何を失礼な、僕は天才だぞ」

「ばーか。……ねえ、本当にそんなでよかったの? わたし、狐だよ? 見たでしょ?」

「そりゃ奇遇だな、僕は狼らしいぞ。誰も僕の発言を信じない」

 がおー、とふざけてみると彼女は笑った。

 この笑顔を守れたから、僕は笑える。

 もしも、順当に発表を終えていたら、異世界人狩りがあって彼女はいなくなっていたかもしれない。

 だから、最後に勝ったのは僕で、最後に笑うのは僕だった。

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